パートナーと一体となったように感じた話し
先日のブログで「袖振り合うも多生(他生)の縁」という言葉を紹介させていただきました。
※記事はこちらです
この記事で
「袖振り合うも多生(他生)の縁」には、人との縁はすべて深い因縁によって起こるので、どんな出会いも大切にしなければならないという意味があると紹介させていただきました。
では、どんな出会いをも大切にするとはどういうことでしょうか。
それは、自分の損得に関わらず、自分の都合に関わらず、すべての出会いは自分自身に関わるご縁だと断ち切ることなく「他生(他生)の縁」を大切にすることです。

高校最後の試合を今でも忘れることができません。
卓球部に所属していた私は、同じ3年生の仲間とダブルスを組んで試合に臨みました。
卓球には個人戦と団体戦、そしてダブルスがあります。
ダブルスがあるラケットを使うスポーツはテニスやバトミントンもありますが、卓球のダブルスには絶対に守らなくてはいけないルールがあります。
それは、必ずパートナーと交互に打たなくてはいけないというルールです。
テニスやバトミントンのダブルスは1人が何度も連続で打つことが可能ですが、卓球は違うのです。
試合中は何があっても順番に打つしかありません。
パートナーがミスをすれば、どんなに自分の調子が良くても失点です。
高校生最後の試合はインターハイ予選です。卓球の試合はトーナメント方式で進んで行きますので負ければ終わりです。
高校生最後のダブルスは、この試合を勝てば次の大きな大会への出場権を獲得し引退も1ヶ月以上先になる試合でした。
この試合で私達のペアは接戦の末に負けてしまったのです。20年以上経った今でも、相手が出したサーブを強く打って返そうとして、ピンポン玉が台の向こう側に消えていく場面を克明に覚えています。
ダブルスのサーブとレシーブにも順番があります。このとき私はサーブを出すこともレシーブすることもできない順番でした。
そこで、相手のサーブをパートナーが強打したのです。私の高校生最後の大会・最後の1球はラケットを振ることすらできずに終わったのでした。
勝利が目の前にあったにも関わらず、最後の1本で作戦とは違う動きをパートナーが勝手にして負けたことがくやしくて仕方がありませんでした。
2人で体育館の隅に倒れるように座り、卓球台が片付けられていく様子をぼんやりと眺めていたときにパートナーが
「最後、ごめんな。でも、一緒にやれて楽しかった。」
と言ったのです。
「一緒にやれて」という言葉を聞いた瞬間、それまで一緒に練習してきたことや作戦を立てて戦いながら勝ち上がってきたこと、何度も何度もパートナーに助けられてきたことを思い出したのです。
そして、パートナーがいてくれたからこそ、ここまでやってこられたと実感したとき、
パートナーが強打してピンポン玉が台の向こうへと消えていく場面は、
私自身が打ったピンポン玉が台の向こうへ消えていく場面に置き換わったように感じたのです。
卓球のダブルスはパートナーと順番に打たなければいけませんので自分の力だけではどうしようもない場面が多々出てきてしまうと考えていました。しかし“自分”という壁をなくしてしまえば、パートナーが打ったボールも自分が打ったボールであり、自分が打ったボールもパートナーが打ったボールだったと感じることができたのです。
ダブルスをしているとき、パートナーが上手だと得、下手だと損など考えずパートナーと一緒にただただ1つのボールを一生懸命追いかけることで”自分という我”を捨てることができていたのかもしれません。
このことは、損得や自分の都合に関わらず、すべての出会いは自分自身に関わるご縁だと断ち切ることなく「多少(他生)の縁」を大切にすることにつながっているように感じます。
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