水のような子供と、氷のような私
※オンライン坐禅会についてはこちらをご覧ください。
そこで、自分の未熟さを痛感させられるできごとがありました。
私はオンラインでの子供坐禅会でも、坐禅の合間に仏教に関する話をします。
この日は
「無心」という言葉について話をしました。
以前にもこのブログで記事にしたことがありますが、
無心と聞くと
心が無い・心を無くすことが“無心”だと思いがちです。
ですから、無心を英語で表現しようとすると「ナッシング マインド」としたくなります。
しかし、そうではなく
「フーマインド」
と、福島慶道老師は示されたのです。
と、言うことは無心とは心が無いのではく、自由自在な心となるのです。
坐禅会でお唱えする白隠禅師坐禅和讃では自由自在な心を「水」と表現しています。
どんな器にも入ることができる水が自由自在な心であり、水が冷えて固まった氷は自由自在な心ではなくなっている。
しかし、氷は溶けて水になるように、今は固まって動かない状態の私達の心も自由自在な心になることができる。
このような話しをさせていただきました。
こんな話をした日の最後に事件は起きたのです。
私が最後の挨拶をして、退出(画面を消す)しようとしたときに参加してくれていた子供の弟さんが登場したのです。
オンライン坐禅会は各家庭とお寺を繋いで開催していますので途中で小さい子供やペットが入り込んでくることは珍しいことではありません。
しかし、その男の子は大変珍しい行動に出たのです。
私が挨拶をしているときから、手をパンパンと叩き一生懸命に頭を下げているのです。しかも1回だけではありません。何回も何回も繰り返すのです。
その姿を見たとき、「あ~、これが自由自在な心そのものだ」と感じました。
仏教では手を叩いてお参りすることはほとんどありません。神社でのお参りを仕方だと思います。
ここからは私の想像ですが、男の子の中には
「画面の向こうに手を合わせているお坊さんがいる。よし、僕も手を合わせよう」
となったのだと思います。
そして、男の子は迷うことなく、これまでの彼の人生の中で見て覚えたのか、誰かに教わったのか分かりませんが、できるだけ丁寧な合掌をしてくれたのだと思います。
「誰かに見られていると恥ずかしい」や、「やり方は正しいのか?」と言ったこだわりの無い、ただ一生懸命手を合わせようとする姿がそこにあったのです。
しかし、私は「あ~、これが自由自在な心そのものだ。ぜひ、声をかけたい」と感じたにも関わらず、同時に「終了の挨拶もしているし、今まで個別に声をかけたこともなかった。」などと様々な感情が出てきてしまいました。
そのため、何も声を出すことなく画面を消してしまったのです・・・
散々「無心と言うのはフリーマインド・自由自在な心」と紹介しておいて、自分の心が様々な感情に支配されている氷の状態だったと思い知らされ、まず、自分の心を調えていかなくてはならないと反省した出来事でした・・・
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