監視社会から拝みあいの社会へ
以前のニュースで、東京都の弁当店が 「売り場の様子をYouTube上でライブ配信したら万引きが激減した」 と紹介されていたことが記憶に残っています。
誰かに見られていると悪いことはしにくいものです。
監視社会だと感じる人もいるかもしれません。
しかし私は、このような監視社会の先に“拝みあいの世界”が広がっていると信じています。
仏教では誰もが尊い仏の心を頂いていると説きます。

臨済宗妙心寺派の信心のことばには
衆生(生きとし生けるものすべて)は本来仏なりと信じて、拝んでゆきましょう
と、あります。
私も仏の心を持ち、相手も仏の心を持っていると信じて相手を大切にしていきましょう。
と伝えてくださる言葉です。
菩提和讃【ぼだいわさん】というお経に
という私が好きな一節があります。
自分自身が仏だと実感し 仏を拝むということは 仏が仏を念じている姿であり 一言唱える称名が諸仏の浄土に到達し、はっきりと響き渡っている
と伝えてくださる言葉です。
監視することは見つめ合わなければできません。
そして、どうせ見つめ合うならば拝みあう関係性の方が素敵だと感じます。
自分と相手を信じて見つめることが監視社会から抜け出し拝みあう世界へと変化することを願っています。
誰かに見られていると悪いことはしにくいものです。
監視社会だと感じる人もいるかもしれません。
しかし私は、このような監視社会の先に“拝みあいの世界”が広がっていると信じています。
仏教では誰もが尊い仏の心を頂いていると説きます。

臨済宗妙心寺派の信心のことばには
衆生(生きとし生けるものすべて)は本来仏なりと信じて、拝んでゆきましょう
と、あります。
私も仏の心を持ち、相手も仏の心を持っていると信じて相手を大切にしていきましょう。
と伝えてくださる言葉です。
菩提和讃【ぼだいわさん】というお経に
この身すなわち仏にて 仏が仏を念ずれば、一声唱うる称名も、諸仏の浄土に通徹す
という私が好きな一節があります。
自分自身が仏だと実感し 仏を拝むということは 仏が仏を念じている姿であり 一言唱える称名が諸仏の浄土に到達し、はっきりと響き渡っている
と伝えてくださる言葉です。
監視することは見つめ合わなければできません。
そして、どうせ見つめ合うならば拝みあう関係性の方が素敵だと感じます。
自分と相手を信じて見つめることが監視社会から抜け出し拝みあう世界へと変化することを願っています。
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