葬式仏教から 仏教の未来を考える 【その1】 本来の葬儀とは何か

“自分はできている!” と思い込んでいました・・・・
先日、寺院デザイン代表取締役の薄井秀夫氏が臨済宗の僧侶の勉強会で「葬式仏教から仏教の未来を考える」と題して講演をしてくださいました。
その中で、僧侶でない薄井氏は僧侶に向かって
「私は葬儀のときに睡魔と戦っています。何かありがたいことをしてくれていると感じてはいるものの何をやっているのか分からない!だから退屈だし眠くなるのです。」
と言った発言をされました。
心の中で私は
「そうですよね、説明が必要ですね。私は葬儀のときに説明していますよ。」
と答えます。
すると薄井氏は
「皆さんの中には説明をしている方もいるようですが、ほとんどの和尚様が説明をされず葬儀を進めている。」
と続けます。
再び心の中で私は
「うん、うん。みんな説明をしましょうよ。」
と相槌をうちます。
そんな私の相槌を知ってか知らずか、
「皆さん、本来の葬儀って何だと思いますか?」
と問題を投げかけてきます。
心の中で私は
「本来の葬儀は供養する気持ちを中心とした大切な儀式でしょう。説明も含めて!!」
大きな声で答えました。
ところが、薄井氏は
「参列者が和尚様と一緒に亡くなった方を送る儀式です。参列者が参加するのが葬儀です。」
と言ったのです。
これまでの私は、葬儀は亡くなった方を供養し残された私達がこれからどのように生きていくかを学ぶ大切な儀式であり、僧侶として参列される方々に説明責任を果たしたい。この素晴らしい儀式についてもっと多くの方に知って欲しい。
だからこそ、葬儀の際には「これから○○をします。これは□□と言った意味があります。」と説明をしてきました。
しかし、このような実践をしていたために大切なことを見失い“自分はできている!” と思い込んでいました。
大切なことは参加者が“参加していると実感しながら亡くなった方を送る”ことだったと教えていただきました。
薄井氏は講演の中で
葬儀の役割には
・社会的処理 (死の告知 別れの式)
・遺体の処理
・霊魂な処理(宗教的儀式)
・悲嘆の処理 (カウンセリングも含む)
・様々な感情の処理 (共同体に与える畏怖の軽減)
という5つがある。
そして葬儀がなくても社会的な処理や遺体の処理はできるが、・霊魂な処理(宗教的儀式)、悲嘆の処理、様々な感情の処理 (共同体に与える畏怖の軽減)は代わりを見つけることが難しいと話してくださいました。
葬儀をすることによって得られるこれらの安心には参列者が葬儀に参加したという実感が必要不可欠です。
“実感”をするために、私自身ができることはこれまでしてきた説明を見直すことだと感じています。
参列者と共に送ることを大切にしながら
「これから○○をします。これは□□と言った意味があります。」
だけではなく
「ですから、皆様は亡くなった方の△△な一面を思い出しながら一緒に手を合わせてお参りください。」
といった一言をよく考えて付け加えていきたいと感じました。
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