手作りと市販品から 分別 を考える【その2】

※写真はイメージです
何年も連絡を取っていなかった共に研究室で学んだ仲間から突然
「静岡に○○という食品会社があるけど知っているか?」
と連絡があったことがあります。
彼は誰もが知っている大手のお菓子メーカに勤務していました。
残念ながらその会社のことを知らなかったので彼の力にはなれませんでしたが、なぜそのようなことを聞いたか質問をすると、
「今、自分が働いている会社の製品の材料について調べているんだ。今は作っているお菓子の材料の材料を○○という会社が作っているんだ。その材料について聞きたいことがあるが連絡が取れない。どんな会社か知りたくて近所のようなのでお前に電話をした。」
と教えてくれました。
彼の話しを聞いて、安心安全のためにそこまで徹底的に調べている人がいることを初めて知りました。
仏教では、ものごとを2つに分けて考える分別を嫌います。
一般的には軽率なことを意味する“無分別”を仏教では“区別しない・こだわらない・ありのままに受け入れる”と捉えて大切にします。
この電話をもらうまで、私は理由もなく機械などを使って量産されているお菓子よりも、小さなお店で手作りされているお菓子の方が人の手が多くかけられていて価値があると思っていました。
勝手な“分別”で、大手のお菓子メーカが量産している商品を勝手に下に見ていたのです。
目に見える部分だけで判断をしていたのです。
機械が量産する映像ばかりに目がいってしまい、その奥で働く人が見えていなかったことを反省した出来事でした。
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