絵葉書法話 54 【人は人に救われる】

人は人に救われる
橋を渡るとき“橋がなかったら・・・”と考えると感謝の気持ちが湧いてくる。
誰が作ったか分からない橋に救われていると感じたとき、自分が見ず知らずの人に時空を超えて救われていることを実感する。
仏教では彼岸【ひがん】と此岸【しがん】という言葉があります。
彼岸とは悟りの世界であり、此岸とは今私たちがいるこちら側の世界であります。
私達は此岸から川を隔てた彼岸へ到達しなくてはいけません。
一人でじゃぶじゃぶと川の中に入っていって、流れに逆らったり、あるいは流されてみたり、様々な工夫をして一人で悟りの世界へと、向こう岸へと到達することもできます。
しかし、川の向こうの悟りの世界へ多くの仲間と共に到達しようとした時には「橋」や「船」が必要です。
みんなで、川の中に飛び込んでいくのは危険です。
「橋」があれば仲間と共に一緒に悟りの世界である彼岸へと渡ることができるのです。
そして、この「橋」を渡るのも、作るのも、全ては私達自身です。
橋を渡るのも私達、その橋を作ることができるのも私達。
「私達」というのは、決して今を生きている人だけではありません。
今を生きる人に命をつないでくれたご先祖様、様々な大切な教えを伝えてくれた先人達、すべての人が「私達」なのです。
自分自身を含めた、全ての人と共に生きて行くことの大切さを般若心経では波羅僧羯諦【はらそうぎゃてい】と表現しています。
羯諦【ぎゃてい】とは、「行く」という意味の動詞から派生したと言われており、「行った者よ」 や 「行く者よ」と訳すことが多いそうです。
ですから、波羅羯諦【はらぎゃてい】 は 悟りの世界、涅槃の境地へと渡り到ったと訳すことができます。
この波羅羯諦【はらぎゃてい】に「僧」が加わり、波羅僧羯諦【はらそうぎゃてい】となるわけですが、僧という漢字には仲間という意味があります。
ですから、波羅僧羯諦【はらそうぎゃてい】は彼岸と呼ばれる悟りの世界に仲間と共に渡るという意味になります。
般若心経の最後の部分に波羅僧羯諦という言葉が出てくるのは、
・仲間と共に悟りの世界へ到達することができる
・私たちは生きていく中で、仲間たちと一緒に悟りの世界へと進むことができる
と説いているように私は感じます。
誰かに助けてもらうことだけを望むのではなく、
誰かを助けることだけを考えるのでもなく、
時には自分が橋になり、時には自分が橋を渡る。
人は人に救われ、人が人を救っていくのです。

波羅僧羯諦【はらそうぎゃてい】
ともに悟りの世界、涅槃の境地へと河を渡る
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