本当の姿が見えていない
先日、“米村でんじろうのふしぎな実験室”と題した、科学の体験イベントが地元で行われていることを知り、小学生の子供を連れて行ってきました。
興味深い展示や体験できるコーナーが多くあり、かなり楽しませていただきました。
このイベントの入り口にあった1枚の絵も印象に残っています。

某有名テーマパークにも同じ原理を使った展示物がありますが・・・
何もせずに写真を撮ると
でんじろう先生だけが写ります。
もちろん、肉眼で見ているときも、この写真のように見えます。
しかし、フラッシュを使って撮影をすると・・・
見えていなかった多くの絵が写っています。

仏教では私達は生まれながらに仏様のような尊い心を頂いていると説いています。
自分自身が仏であり、目の前にいる人・隣にいる人、誰もが仏様なのです。
しかし、そのことに気がつかないで生活をしてしまっています。
このことは、先ほどのフラッシュを使うことで本当は描かれていた絵が撮影できることによく似ているように感じます。
先ほどの絵で言えば、フラッシュを使わなくては見えない部分が、生まれながらにいただいている尊い心だと私は感じました。
すでに描かれている絵と、すでに頂いている尊い心、普段の生活では見ることができない絵も強い光を当てることで奥底にあったものが浮かび上がってきます。
同様に、すでに頂いている尊い心を浮かび上がらせるためにも“光”が必要です。
では、この“光”はどこにあるのでしょうか。
このフラッシュのような強力な光こそが、これまで守り伝えられてきた仏教の教え(法)だと私は考えています。
仏教の教えによって自分自身の奥底にある仏様の心を浮かび上がらせることの大切さを、1枚の絵に教えてもらったように感じます。