写経会のときに どんな話しをしているの? その62
仏教では、
私達は生まれながらに 仏様のような尊い心をいただいている
と説いています。しかし、このことを話すと、
「仏様のような尊い心って何!? よくわからない!!」
と言われることもあります。
確かに抽象的な言葉です。
このことを もう少し具体的に表現した言葉が
常楽我浄【じょうらくがじょう】
だと私は考えています。

仏教の教えには
といったものがあります。
一見すると常・楽・我・浄 は無常・苦・無我などの考えと真逆に感じてしまいます。
しかし、私達には常も楽も我も浄もあるのです。
そのことを見事にまとめた言葉があります。それが、
慈しむ心は常に変わらず
人を思いやることを楽しむ
人の為に尽くす本当の我は
浄らかな心を持つ
です。この心こそが誰しもが生まれながらにいただいている 仏様のような尊い心 なのです。
もちろん この心は私達が好き勝手に生きていれば、心の奥深くに隠れてしまいます。
ですから、心を落ち着けて調えることで この心を実感することが大切です。
そして、この心を実感するための入り口となるのが写経や坐禅、そして読経といった昔から受け継がれた良い習慣なのではないでしょうか。
私達は生まれながらに 仏様のような尊い心をいただいている
と説いています。しかし、このことを話すと、
「仏様のような尊い心って何!? よくわからない!!」
と言われることもあります。
確かに抽象的な言葉です。
このことを もう少し具体的に表現した言葉が
常楽我浄【じょうらくがじょう】
だと私は考えています。

仏教の教えには
諸行無常:全てのものは とどまることなく移り変る「無常」
一切皆苦:すべてのものは苦しみである「苦」
諸法無我:いかなる存在も不変の本質などない「無我」
といったものがあります。
一見すると常・楽・我・浄 は無常・苦・無我などの考えと真逆に感じてしまいます。
しかし、私達には常も楽も我も浄もあるのです。
そのことを見事にまとめた言葉があります。それが、
慈しむ心は常に変わらず
人を思いやることを楽しむ
人の為に尽くす本当の我は
浄らかな心を持つ
です。この心こそが誰しもが生まれながらにいただいている 仏様のような尊い心 なのです。
もちろん この心は私達が好き勝手に生きていれば、心の奥深くに隠れてしまいます。
ですから、心を落ち着けて調えることで この心を実感することが大切です。
そして、この心を実感するための入り口となるのが写経や坐禅、そして読経といった昔から受け継がれた良い習慣なのではないでしょうか。
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