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「かぁぁぁぁつ!!」には4種類ある知ったとき本当にびっくりしました・・・

500水の中のペンギン

動物園でペンギンを見ていると、ペンギンが近くに遊びに来てくれることがあります。

私が動物を見ているのか、動物が私を見ているのか・・・

どっちでしょう??






先日より「喝【かつ】」について記事を書いています。
※それぞれの題名をクリックすると記事をご覧になっていただけます。



身近にある「転換点」に気がつく

「喝!」は転換点

「かぁぁぁぁつ!!」 と言われて起きたことはありませんか

葬儀(お葬式)で「喝!」と叫ぶ理由

心に残っている葬儀での光景







これらの記事の中で


喝は、師匠が弟子の迷いを断ち切り、悟りの世界に導くための行為とも言われています。


と、紹介しています。





実はこの「喝」は4種類あるそうです!


初めて知ったときは衝撃でした。


え、言い方を変えるの??


などと考えた私が本当に恥ずかしい・・・






臨済宗の一番最初の和尚様・臨済義玄禅師は「喝」は「四喝【しかつ】」といって、4つのはたらきがあると示されています。



1つ目は「金剛王(こんごうおう)宝剣の一喝」です。

金剛とはダイヤモンドのようなとても固いものです。その固い金剛王の宝剣で一切を断ち切るはたらきがある「喝」です。
つまり、いっさいの煩悩を断ち切るようなことを例えていると言われています。



2つ目は「踞地金毛(こじきんもう)の獅子の一喝」です。

これはあたかも獅子が大地にうずくまって獲物をねらうはたらきのことです。威厳にみちていて、なにものをも寄せつけないはたらきをいいます。




3つ目は「探竿影草(たんかんようぞう)の一喝」です。

これは、水の深さをさぐる竿(さお)のようなはたらきです。「一喝」をくらわしておいて、相手の力量をはかろうというはたらきがあります。




そして4つ目は「一喝の用(ゆう)を作(な)さず」です。

これはもはや「一喝」のはたらきさえもしないということです。「一喝」の気配をみせないということです。修行者が修行に修行を重ねて、もう学ぶことがない境地に至った自由自在な姿とも表現できるものです。この境界から発する一喝こそが、この一喝の用(ゆう)を作(な)さず」です。だからこそ、この一喝は、必ずしも私達が想像する「喝」の形ではありません。普段の生活、その一挙手一投足がすべてこの一喝となるのです。ですから、この喝は他の三つの喝の根源であるとも言われているのです。







臨済禅師が御弟子様を指導された記録の中に、多くの「喝」が出てきます。その中でも私が印象に残っているのは、臨済禅師が亡くなる際に説かれた一節です。



臨済禅師がいよいよ最期という時に、きちっと坐禅をして、弟子たちを前にして


「わしが死んだ後に、おまえたちに伝えたこの仏法を決して滅ぼしてくれるなよ」


と言われたのです。すると、弟子の三聖(さんしょう)という方が前へ出て言ったそうです。



「どうしてそんなことをいたしましよう、あなたの教えを滅ぼすようなことはいたしません。どうぞ、ご安心下さい」



これを聞くと、臨済禅師は



「それなら、今後 誰かがおまえに臨済の教えとは何だ。と訊ねたらお前はなんと言うか。」



と聞きます。すると三聖は



「喝ァァァーッ」



と一喝を吐いたのです。すると臨済禅師は



「わしの教えがここで滅びてしまうとは」



と言い終わって、端然と坐禅をしたまま息を絶えられたのです。





という話があります。






 この話を初めて読んだとき、まだまだ未熟な私は、臨済禅師は最後までなんて厳しい言葉を残された方なのかと感じました。




しかし、昭和の禅僧である山田無文老師は著書「臨済録」の中で


臨済禅師が言われた「わしの教えがここで滅びてしまうとは」という部分は三聖を叱っているようであるが、腹の中では、そうだその勢いじゃ。その力ならわが教えは滅びないであろうと許されているのである。




と示されています。さらに、


しかしまた、そういう臨済の一喝の真似をしておるだけでは、わが教えは滅びてしまうぞと、後々のものにしっかりと釘をさしておられる。




と示しています。



実はこの、三聖こそ臨済録を編集した一番弟子なのです。

臨済禅師の教えは今でも脈々と受け継がれていることは、今でも臨済宗の寺院が多くあり、教えをまとめた臨済録が多くの方に親しまれていることから良く分かります。

ですから、臨済禅師の「わしの教えがここで滅びてしまうとは」という言葉をそのまま受け取ってしまうのは確かにおかしなことです。





三聖が吐いた一喝こそ、

「わしの教えがここで滅びてしまうとは」という言葉を言葉のままに受けとろうとした未熟者の私にとっては四喝の中の煩悩を断ち切る金剛王(こんごうおう)宝剣の一喝であり、

臨済禅師にとっては相手の力量をはかろうというはたらきがある探竿影草(たんかんようぞう)の一喝であったように感じます。




「喝」は4つあるという教えに納得すると同時に、今を生きる私達に1200年以上前の方から時間の概念を取っ払って「喝」が届くことにも感動します。
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人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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