「喝!」は転換点

私は卓球が好きです。
卓球は小さい子供から、お年寄りまで楽しむことができる素晴らしいスポーツです。
”下手の横好き”程度のレベルですが、中学、高校、大学と卓球部に所属し練習をしてきました。
その大学時代の先輩に印象に残っている選手がいます。
その先輩はとにかく試合中の「気合い」がすごい方でした。
先輩は試合中に自分のラケットで、自分の太ももを叩いて気合を入れる癖がありました。
しかも、叩き方がすごいのです。
少しくらい離れていても「パチーン」という音が聞こえるほど叩きます。
そして、この「気合い」を入れたときは大概得点をするのです。
だったら1点1点、毎回「気合い」を入れれば良いのではないかと感じるかもしれません。
しかし、それはできないのです。
それは「気合い」が強すぎるからです。
「気合い」を入れると足にラケットの形が残るほど、真っ赤に腫れるほどです。
ですから試合の中で、確実に点が欲しいときに「気合い」を入れていたのです。
興味深いことに、この先輩は、普段から「気合い」を常に入れているわけではありません。
それどころか、普段は非常に穏やかで論理的な方でした。
練習方法を論理的に考え、様々な練習をしている方です。
普段から練習前を練習中も、そして練習後も頭を徹底的に使っていました。
ところが、試合になると「気合い」を入れるのです。
私は、先輩の「気合い」は禅宗の「喝」に通じるものがあると思っています。
先日からブログの記事で
「かぁぁぁぁつ!!」 と言われて起きたことはありませんか
葬儀(お葬式)で「喝!」と叫ぶ理由
心に残っている葬儀での光景
と「喝」について紹介をしてきました。
その中で、
喝は、師匠が弟子の迷いを断ち切り、悟りの世界に導くための行為とも言われています。
と、紹介しています。
導く喝と、足を叩く気合い
通じるものはあるのでしょうか。
弟子は修行中徹底的に悩み、苦しみます。様々なことを学び、頭で考え勉強し、修行を続けます。
そこに「喝」です。これまでの悩み・苦しみ・学び・勉強、全てが一体となって悟りの世界へと導かれます。
足を叩くことも同じです。
それまで、徹底的に頭を使って練習をしてきています。
しかし、だからと言って実際の試合中に相手が球を打ってから頭を使って考え、その後体を動かしていては絶対に間に合いません。
気合いを入れることで、これまで頭で考えていたことが体と一体となるのです。
そうすることによって、頭で考えているかのように、自然と体が反応しボールに対応することができるのです。
先輩の「気合い」は2つに分かれて動いていた頭と体が1つになる転換点であり、
「喝」も全てのものが一体となる(1つになる)転換点なのです。
このような、全てのものが1つになる転換点は、私達の身近にたくさんあります。
その転換点をこれからも体で感じていけるように、普段から努力を続けていきたいと考えています。