人は裸になれるのか 【その1】

私達は風呂に入るとき、裸になります。
服を着たまま風呂に入ることはありません。
そして、風呂から出れば服を着ます。
風呂から出て裸のまま外出をしてしまえば、おかしな人です・・・
東光寺(静岡市清水区横砂)は臨済宗という禅の教えを大切にするお寺です。
禅の教えを短い言葉で示したものが「禅語」であり、たくさんある禅語の中に
無依の道人 【むえの どうにん】
という言葉があります。
一般的にもなかなか使われない言葉なので知らない方も多いのではないでしょうか。恥ずかしながら、最近まで私もその1人でした・・・
無依の道人は臨済録【りんざいろく】という禅の書物に出てくる言葉です。

臨済録とは臨済宗の宗祖とも言われる臨済義玄禅師【りんざいぎでんぜんじ】の教えをまとめたものです。
この中で弟子が臨済禅師に「正しい人生観、正しい見解とはどういったものですか。」と質問をする場面があります。
臨済禅師は弟子に「正しい人生観とは」と聞かれ、その中でこの「無依の道人」という言葉を使って答えています。
昭和の禅僧、山田無文老師はこの部分を
永遠に残るものは何もない。そうやって徹底していくのが正しい見解である。ただ実在するのは、そこで今臨済の話しを聴いておるその心、何ものにも頼らぬ、絶対な自由、お互いの中に確かに心だけである。その心が仏を生み出すのである。
と紹介しています。
道人には 仏道を求める人、仏道修行者という意味がありますので、無依の道人とは
何ものにも頼らぬ、とらわれない仏道諸行者
という意味になります。
無依の道人という言葉を見たとき「依」という字に私は注目をしました。

「依」は「よりすがる、頼る、従う」という意味をもつ漢字です。

依とは人が衣、つまり服を着ているという字の作りになっています。ですから、人が服を着るから安心するという意味も含まれています。
この依に「無」をつけると服を着ない、裸、ということになるのですが、この無依は物理的に裸になりなさいという意味ではもちろんありません。
ここにある「衣」は服ではなく、私達が普段、身につけることで安心をしている「経験や知識」ということができるのです。
つまり、「無依」は、知識や経験といった余計なものを脱ぎ捨てることの大切さを表す言葉であり、
「無依の道人」という言葉は「知識や経験」といった余計なものを脱ぎ捨てることで、私達自身が仏だと気が付きなさいと説いてくださっているのです。
しかし、いつでも「知識や経験」といった余計なものを脱ぎ捨ていいのかといえばもちろん違います。
風呂に入るときには裸になり、風呂から出れば服を着る
これも「知識や経験」があるからできることです。
大切なことは、余計なものを自由自在に脱ぎ捨てることができることだと私は考えています。
そして、私はこの無依の道人という言葉を見ると思い出す出来事があります。
・・・このまま続けると長文になりますので続きは次回の記事で紹介させていただきます。
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