開山無相大師と十牛図【その8】

東光寺(静岡市清水区横砂)は臨済宗妙心寺派のお寺です。
臨済宗は禅宗とも言われる禅の教えを大切にする宗派であり、本山は京都にある妙心寺です。
ですから、禅の教えや妙心寺の最初の住職である開山無相大師【かいさん むそうだいし】の教えを大切にしています。
この禅の教えと無相大師の生涯を説いた「無相大師の禅・十牛図 (則竹秀南老師著)」と出会い、その内容を平成30年春の子供坐禅会で話をさせていただきました。自分自身の備忘録としてその内容をまとめたいと考え記事にさせていただいています。
十牛図【じゅうぎゅうず】とは、本当の自分(仏の心)を見つけるための過程を10の段階に分けて示した禅の書物です。10の段階を1つずつ紹介させていただきます。
今回は、その8回目です。
その8 人牛倶忘【にんぎゅうくぼう】

仏の心と言われるものは、実は姿形などない。しかし、何もないのかというとそうではない。塩水の中の塩は見えないが舐めればしょっぱいし、線香は燃え尽きて見えなくても香りを感じることができる。
「実は姿形などない。しかし、何もないのかというとそうではない。」を図に示すことはできません。
「あるけど ない」 は書けないのです。
「線香の絵を書きなさい」
と、言われれば描くことができます。しかし、
「燃え尽きた線香を描け」
と言われたら書けません。
では、そこに線香はないのか?
と言われれば、無いわけではありません。
匂いは残っています。
匂いが残ると言うことは、見には見えませんが、そこに線香の物質が残っているのです。
同様に塩水は透明だけど、中に塩はないのか?
と言われれば、無いわけではありません。
舐めればしょっぱいので、目には見えませんので、塩は入っています。
見えないからないわけはない。
だからと言って描くことができない・・・
十牛図では、牛は本当の自分を表しています。本当の自分のことを「悟り」とも言います。
残念ながら未熟な私は悟っていません。
ぼんやりとも見えていません。
ですから、無相大師の生涯から学んでいきたいと考えています。
無相大師は悟りを開かれた後、修行していたお寺を離れ田舎の農村へと移り、修行を続けながら、村人と共に農村での生活を送ったのです。その姿は、
仏法臭さ、悟り臭さのまったくなくなったところで、しかもその根底は仏心のまま、悟りのままに生活なさっている、高い高い澄んだ境地であります。
昼間の俗的生活から夜間の坐禅三昧、そこに何らかの執着もない一点の曇りもない澄んだ境地、山の中の庵に照り輝く寒月のような心境が、実は開山様の仏心です。
と、「無相大師の禅・十牛図 (則竹秀南老師著)」で紹介されています。
これが、人牛倶忘【にんぎゅうくぼう】とのことです・・・
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