見えない線を越える苦労

先日、訪れた場所の待合室にテレビが置いてあり、そこに南北首脳会談を前に、国境線で北朝鮮の責任者を韓国の責任者が待っているシーンが映し出されていました。
世界が注目していた瞬間を私はたまたまテレビで見ることができました。
2人は握手をして、笑顔で話をした後、あっさりと国境を越えたのです。
北朝鮮から韓国に苦も無く国境を示した石畳を越えたのです。その直後2人で北朝鮮へ、そして再び韓国へと国境を越えたのです。
少し前には北朝鮮の兵士が自国の兵士に打たれながら必死で超えた国境を両国の責任者が手をつないで超える姿に大変驚きましたし、その姿から学ぶことがありました。
仏教では分別【ふんべつ】を嫌います。
物事を分けて考えることは一見便利なように感じますが、区別が行き過ぎれば差別になり、見えない壁に自分自身が苦しむことになるからです。
「あの人は良い人だ、あの人は悪い人だ。」
一度ついてしまった思いを打ち消すことは簡単ではありません。
ましてや国を代表すると言うことは、多くの人の思いを感じながら自分の行動を決定していかなくてはいけないのですから、今回のように両国の責任者が2人で国境を超えることは困難を極めたと思います。

分別を無くすと言うことは、差別や区別しようとする心を調え、私達が無駄に引いてしまう心の線を消すことです。
人間が引いた国境と言う国と国とを区別する線をなくすことは困難を極めるように、私達の心にある分別の心を無くすことは難しいことです。
お寺には差別や区別する心を調える法要や坐禅などの修行など様々な行【ぎょう】がありますし、各家庭にもご先祖様から受け継いだ素晴らしい習慣があります。
これらの習慣を受け継ぎながら実践していくことで、両国の責任者が国教と言う線を越えた姿から、私達も努力を続けることで自らが引いてしまった心の線を越えることができることを教えてもらった気がします。
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