木魚が大好きなお客様

法要に子供が参加することは珍しい事ではありません。
静かに坐っている子供、広い本堂に興奮して走ろうとして怒られる子供など、彼らを見ていると飽きることはありません。
先日、東光寺(静岡市清水区横砂)の法要にやってきた男の子も、見ていてまったく飽きさせません。
彼は木魚が大好きなようです。
お経が始まる前から木魚をじっと見ています。
そしてお経が始まり、私が木魚を叩いていると、その子供もお経を読みながら私の手の動きを真似していたのです。
彼は経本を片手に持ってお経を読みながら、空いている手を一生懸命動かし、まるでそこに木魚があるかのように手を動かし続けました。
本当に微笑ましい姿でした。
禅の言葉(禅語)の中に賓主【ひんじゅ】という言葉が出てきます。
賓とは賓客、主とは亭主を意味しています。
賓客とは大切なお客様を意味する言葉ですが、禅の言葉として使われる「お客様」と、今の時代の「お客様」には大きな違いがあるように感じます。
今の時代の「お客様」は立場が上になっているように感じます。
「お金を払っているんだから、多少の無理は聞きなさい!だって私はお客様なんだから」
といった恥ずかしい人達も出てくるほどです・・・
しかし、禅語の中での「賓」、「賓客」、「お客様」は決して「立場が上」でもなく「えらそうにする存在」でもありません。
「迎え入れられ立場」なのです。
上でも下でもありません。ひとつの「立場」なのです。
そして、大切なのが自分の立場を守ることなのです。
「迎え入れられ立場」になったのならば、相手の立場を犯すことなく、徹底的に迎え入れられるのです。
木魚が大好きな男の子は立派な「お客様」でした。
「俺はお客様なんだから、俺に木魚を叩かせろ!」
とわがままを押し通そうとする今の時代の間違った「お客様」ではなく、一生懸命お経を読みながら、自分の立場で精一杯、彼だけに見える木魚を叩き続けたのです。
相手(実際に木魚を叩く私)の立場を犯すことなく自分にできることを精一杯する姿こそが立派な「お客様」だったように感じます。
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