梅の剪定をしながら感じたこと
東光寺(静岡市清水区横砂)の境内にある保育園が管理している子「子供の畑」がお寺から少し離れた場所にはあります。
ここの管理を私がしているのですが、この季節は梅の剪定作業が主な仕事となります。

本来ならばもう少し早く始めたいのですが、年末は他の作業などが多いため畑まで手が回らず、この時期になってしまっています・・・
しかもこの時期になると梅の花が咲き始めてしまうものですから、これまでは作業を途中で止めていました。
しかし、あまりにも枝が混みあってきてしまったので、今年は少し思い切って剪定をしようと考え、バッサバッサと必要のない太い枝も切り落としています。

子供の頃、誰もが習ったことですが物を落とせば地面に落ちます。
地球上には重力と呼ばれる力がありますので物は下に落ちていく、これが当たり前の話です。
ですから、梅の木の枝を切れば重力によって地面に落ちていくはずです・・・
ところが剪定を怠って枝が複雑に絡み合ってしまった場合は枝を切っても下に落ちることはなく絡み合ったままその場に止まってしまうことが多くあります。

ですから剪定作業を怠ってしまった梅の木を剪定する場合は切るだけでなく切った枝をどうにかして下に落とす作業まで加わります。
最終的には落とすことを諦め、枝と枝の間から上に向かって投げて枝を落とすことすらあります。
本来であれば下に落とすはずの枝を上に投げなくてはいけない。発想の転換が必要となってきます・・・
小学校や中学校の理科の授業では教科書に
「地球には重力がある。物は下に落ちる。」
と書いてありますが、残念ながら教科書通りにいかない場合もあるんだということを梅の木の剪定をしながら学びました。
さて東光寺は臨済宗妙心寺派(禅宗)のお寺です。
禅宗のお寺ですので、坐禅をとても大切にしています。
坐禅の「心」を短い言葉で表した生活信条には
1日1は静かに坐って、身と呼吸と心を調えましょう
と書いてあります。姿勢と呼吸を調えることで、自然と心も調ってくるというわけです。
では坐禅をすれば本当に心が調うのかといえば残念ながら、
坐禅を経験したのに全然心が調わなかった
という人も中にはいることでしょう。
足がしびれただけで何をしたのかがよく分からない。
そういった意見も聞こえてくることがあります。
逆に子供坐禅会に参加している子供たちが一度坐禅をすると
気持ちよかった、心がスーッとした
という感想を言ってくれることもあります。
なぜ子供は心が簡単に調うのに大人になると坐禅をしてもスッキリしないのかと考えることがありました。
しかし、梅の木を剪定しながらその答えがわかった気がします。
大人になれば様々な感情が複雑に絡み合ってきます。
梅の木の剪定を忘れれば複雑に枝が絡み合ってしまい、落とすべき枝を切っても枝は地面に落ちません。
毎年しっかりと剪定をしていれば枝を切ればその枝は自然と地面に落ちて剪定作業が終了したでしょう。
子供坐禅をした時に心がスーッとするのは、まだまだ複雑に絡み合っていない素直な心があるからです。
大人になれば様々な想いが絡み合いなかなか簡単にスーと落ち着く事が出来ないのではないでしょうか。
しかし、剪定作業も繰り返し繰り返し行い、そして少しずつ少しずつ、その枝を根気よく取り除いていけば やがて終わっていきます。
坐禅も1回で心がスーッとすることを体験できるかもしれないが、複雑な悩みや苦しみが絡み合ってきた場合は一度の坐禅で成果を得られることはありません。
じゃあ、2回やればいいのか??3回やればいいのか??
と、考える人もいますが複雑に絡み合った枝も切った時、たまたまストンと落ちることもあれば落ちるかなーと思って切ってもなかなか落ちないことがあります。
坐禅も何回したから良いというわけではありません。
根気よく続けていくことが大切なのだと剪定し終わった一本の梅の木を見ながら感じる今日この頃です。
残念ながら剪定しなくてはいけない梅の木はあと13本あるためまだまだ剪定作業は続きそうです・・・
ここの管理を私がしているのですが、この季節は梅の剪定作業が主な仕事となります。

本来ならばもう少し早く始めたいのですが、年末は他の作業などが多いため畑まで手が回らず、この時期になってしまっています・・・
しかもこの時期になると梅の花が咲き始めてしまうものですから、これまでは作業を途中で止めていました。
しかし、あまりにも枝が混みあってきてしまったので、今年は少し思い切って剪定をしようと考え、バッサバッサと必要のない太い枝も切り落としています。

子供の頃、誰もが習ったことですが物を落とせば地面に落ちます。
地球上には重力と呼ばれる力がありますので物は下に落ちていく、これが当たり前の話です。
ですから、梅の木の枝を切れば重力によって地面に落ちていくはずです・・・
ところが剪定を怠って枝が複雑に絡み合ってしまった場合は枝を切っても下に落ちることはなく絡み合ったままその場に止まってしまうことが多くあります。

ですから剪定作業を怠ってしまった梅の木を剪定する場合は切るだけでなく切った枝をどうにかして下に落とす作業まで加わります。
最終的には落とすことを諦め、枝と枝の間から上に向かって投げて枝を落とすことすらあります。
本来であれば下に落とすはずの枝を上に投げなくてはいけない。発想の転換が必要となってきます・・・
小学校や中学校の理科の授業では教科書に
「地球には重力がある。物は下に落ちる。」
と書いてありますが、残念ながら教科書通りにいかない場合もあるんだということを梅の木の剪定をしながら学びました。
さて東光寺は臨済宗妙心寺派(禅宗)のお寺です。
禅宗のお寺ですので、坐禅をとても大切にしています。
坐禅の「心」を短い言葉で表した生活信条には
1日1は静かに坐って、身と呼吸と心を調えましょう
と書いてあります。姿勢と呼吸を調えることで、自然と心も調ってくるというわけです。
では坐禅をすれば本当に心が調うのかといえば残念ながら、
坐禅を経験したのに全然心が調わなかった
という人も中にはいることでしょう。
足がしびれただけで何をしたのかがよく分からない。
そういった意見も聞こえてくることがあります。
逆に子供坐禅会に参加している子供たちが一度坐禅をすると
気持ちよかった、心がスーッとした
という感想を言ってくれることもあります。
なぜ子供は心が簡単に調うのに大人になると坐禅をしてもスッキリしないのかと考えることがありました。
しかし、梅の木を剪定しながらその答えがわかった気がします。
大人になれば様々な感情が複雑に絡み合ってきます。
梅の木の剪定を忘れれば複雑に枝が絡み合ってしまい、落とすべき枝を切っても枝は地面に落ちません。
毎年しっかりと剪定をしていれば枝を切ればその枝は自然と地面に落ちて剪定作業が終了したでしょう。
子供坐禅をした時に心がスーッとするのは、まだまだ複雑に絡み合っていない素直な心があるからです。
大人になれば様々な想いが絡み合いなかなか簡単にスーと落ち着く事が出来ないのではないでしょうか。
しかし、剪定作業も繰り返し繰り返し行い、そして少しずつ少しずつ、その枝を根気よく取り除いていけば やがて終わっていきます。
坐禅も1回で心がスーッとすることを体験できるかもしれないが、複雑な悩みや苦しみが絡み合ってきた場合は一度の坐禅で成果を得られることはありません。
じゃあ、2回やればいいのか??3回やればいいのか??
と、考える人もいますが複雑に絡み合った枝も切った時、たまたまストンと落ちることもあれば落ちるかなーと思って切ってもなかなか落ちないことがあります。
坐禅も何回したから良いというわけではありません。
根気よく続けていくことが大切なのだと剪定し終わった一本の梅の木を見ながら感じる今日この頃です。
残念ながら剪定しなくてはいけない梅の木はあと13本あるためまだまだ剪定作業は続きそうです・・・
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