子供に坐禅会で話したこと 第285番 餓鬼道に落ちた女 【仏教説話27】
子供坐禅会(平成29年冬休み:テーマは仏教説話)で話した内容を紹介させていただきます。今回は
仏教説話シリーズ その27 【餓鬼道に落ちた女】
です。

東光寺(静岡市清水区横砂)の子供坐禅会では毎回お寺や仏教に関係する話しをしています。
そして、話の内容にあった「仏教豆知識シール」を参加者に配布しています。
自分自身の備忘録も兼ねて紹介させていただきたいと考えています・・・・
※以下の内容は子供向けに話したものです。
例えばコップ1杯分のジュースを持っているとします。
そして、喉が渇いています。
今すぐこのジュースを飲みたいと考え、ふたを開けてジュースを飲もうと思ったその時、
「そのジュース、半分を友達にあげてよ。」
と言われたらどう思いますか。
「半分も取られちゃうじゃん!もったいないなー!!」
と思いますか?それとも、素直に自分も飲みたいんだから、友達も飲みたいと思って、人に言われた通りジュースをあげますか??
今回の話は、
「もったいないから絶対あげない!」と言ってしまった人の話です。
「餓鬼道に堕ちた女」という話です。
お釈迦様のお弟子様の中には特殊な能力を持つ人がおりました。
そのお弟子さん、どんな世界でも見ることができる人でした。
ですから時々いろんな場所を見ていたそうです。
この男性、ある日餓鬼道という場所を見てみたそうです。
餓鬼道というのは欲張りな人たちが生まれ変わっていく世界と言われています。
仏教では、命あるものは様々な世界を生まれ変わり死に変わると言われています。
その中のその中の一つが餓鬼道と呼ばれる世界です。
大変苦しい世界です。どんなにお腹が空いていても満足に食べることができません。
たとえ食べ物があったとしても、それを口に運ぶと食べ物が炎となって自分を襲ってくる。
そんな世界です。では、この餓鬼道でお釈迦様のお弟子さんは何を見たのかと言いますと、
実は一人の女性が大変苦しみながら餓鬼道の中をさまよっている姿なのです。
餓鬼道に落ちた女は髪の毛がまるで針のようになっており、餓鬼道を走り回るためにその針のような髪の毛が自分の体中に次々と刺さっておりました。
そんな苦しみに耐えながら女性は餓鬼道を一日中走り回ると、なんとか地面の上にある小さな水たまりを見つけることができます。
そして、その水たまりの中の泥水を飲むことができたそうです。
残念ながら水溜りが見つからない日もあります。
そんな日は1日走り回っても何にも飲むことができず、ただただ自分の髪の毛が体中に突き刺さる痛みに耐えなくてはならなかったのです。
お弟子さん達はお釈迦様に
「こんなに酷い姿になった女の人がいますが この人は一体何をしてしまったのでしょうか。」
と、聞きました。すると、
この女の人は餓鬼道に落ちる前、人間として暮らしていました。
あるひ、この女の人の家の前に修行僧がやってきて「水をください」と頼んだそうです。
女の人の家にはたくさんの水があったのに、「自分の水をあげるのはもったいない」と考えてしまい、地面にあった泥水をコップに入れてその上にきれいな水を入れて修行僧に渡したそうです。
この「あげたくない」という欲張りな心があったために、女の人は餓鬼道へ落ちてしまったのです。
この話しを聞いたとき、とっても怖いはなしだと私は感じました。
誰にでも「自分のものはあげたくない」という気持ちはあるはずです。
しかし、その気持ちがあると餓鬼道へ行かなくてはいけない・・・
みんな餓鬼道で苦しまなくてはいけないのか・・・
辛くなります。
では、どうしたら良いのでしょうか。
突然明日から、自分の大切な物を「はい、どーぞ」とあげることができるようになる人はいません。
持久走(マラソン)が早くなりたいと思っても、目が覚めたら早くなるわけではありません。
訓練が必要です。
マラソンが早くなるためには、やはり走る練習が必要です。
「あげたくない」という気持ちを無くしていくためには、やはり「あげる」練習が必要です。
その練習はどこでもできます。どんな練習があるのでしょうか。
単純なのは、
お菓子を食べようと思ったとき、周りに友達がいれば分ける。
という練習。
その他にも「お供えする」という練習もあります。
お菓子を手に入れたとき、すぐに開けて食べるのではなく仏壇にお供えしてお参りをした後に箱を開ける。
これも立派な練習です。お菓子をお供えした瞬間、このお菓子は自分のものではなく、仏様やご先祖様のものになります。
お寺でお参りをするときに「お賽銭」を入れることもあると思います。これも「あげたくない」という気持ちを無くすための練習です。
マラソンの練習をするときに、ある程度自分を追い込まなくては練習になりません。
しかし、追い込みすぎても体を壊してしまいます。
どのくらいの練習が自分の体に合っているか分からない時には、周囲の人にも教えてもらいながら練習量を少しずつ増やして「今、自分にできる精一杯」の練習をしていきます。
これと同じようにお賽銭も、周囲の大人に相談しながら「今自分にできる精一杯」をすることが、「あげたくない」という気持ちを無くすための練習になるのです。
もちろん、「あげたくない」という気持ちを無くすための練習はこれだけではありません。
いつでも、どこでも、「今自分にできる精一杯」を心掛けていくことの大切さを「餓鬼道に落ちた女」という話しが教えてくれています。
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