写経会のときに どんな話しをしているの? その54
東光寺(静岡市清水区横砂)で行われている写経会で、副住職(新米和尚)の法話と配布させていただいている絵葉書を紹介させていただきます。
※なぜ、絵葉書と法話(仏教のお話)が登場するのかはこちらをご覧ください。
※写経会の御案内はこちらをご覧ください。
今回は第54回目です。

般若心経というお経の最後の部分に羯諦【ぎゃてい】という言葉があります。
羯諦の原語は「ガテー」というサンスクリット語で、「行く」という意味の動詞から派生したと言われています。
ですから、
「行った者よ」 や 「行く者よ」
と訳すことが多いそうです。ですから、波羅羯諦【はらぎゃてい】 は 悟りの世界、涅槃の境地へと河を渡り到ったと訳すことができます。
この波羅羯諦【はらぎゃてい】に「僧」が加わり,、波羅僧羯諦【はらそうぎゃてい】と続きます。
僧という漢字には仲間という意味があります。
僧という漢字を見ると僧侶を思い浮かべる人が多くいらっしゃるかもしれません。
しかし、元々は
「一緒に修行をする仲間」
という意味がありますので、波羅僧羯諦【はらそうぎゃてい】は彼岸と呼ばれる悟りの世界に仲間と共に渡るということになってまいります。
般若心経の最後の部分に波羅僧羯諦という言葉が出てくるのは、
・仲間と共に悟りの世界へ到達することができる
・私たちは生きていく中で、仲間たちと一緒に悟りの世界へと進むことができる
と説いているように私は感じます。
では、どうすれば悟りの世界へ到達するのでしょうか。仏教では彼岸【ひがん】と此岸【しがん】という言葉があります。彼岸とはいわゆる悟りの世界であり、此岸とは今私たちがいるこちら側の世界であります。
今私たちがいるこの此岸から川を隔てて彼岸へ到達しなくてはいけないのですが、1人で向こう岸へ渡るのであれば鳥のようにパタパタと飛んで川を越えることも出来ます。
一人でじゃぶじゃぶと川の中に入っていって、流れに逆らったり、あるいは流されてみたり、様々な工夫をして一人で悟りの世界へと、向こう岸へと到達することもできます。
しかし、川の向こうの悟りの世界へ仲間と共に到達しようとした時に必要になってくるのは「橋」や「船」のようなものではないでしょうか。
みんで、川の中に飛び込んでいくのは危険ですし、みんなで流されてしまうかもしれません。
「橋」があれば仲間と共に多くの人たちと一緒に悟りの世界である彼岸へと渡ることができるのです。
そして、この「橋」を渡ることができるのも、作ることができるのも、全ては私達自身なのです。
橋を渡るのも私達、その橋を作ることができるのも私達。
「私達」というのは、決して今を生きている人だけではありません。
今を生きる人に命をつないでくれたご先祖様、様々な大切な教えを伝えてくれた先人達、すべての人が「私達」なのです。
誰かに助けてもらうことだけを望むのではなく、
誰かを助けることだけを考えるのでもなく、
時には自分が橋になり、時には自分が橋を渡る。
人は人に救われ、人が人を救っていく。
自分自身を含めた、全ての人と共に生きて行くことの大切さを般若心経では波羅僧羯諦【はらそうぎゃてい】と表現しているように私は感じます。
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今回は第54回目です。

般若心経というお経の最後の部分に羯諦【ぎゃてい】という言葉があります。
羯諦の原語は「ガテー」というサンスクリット語で、「行く」という意味の動詞から派生したと言われています。
ですから、
「行った者よ」 や 「行く者よ」
と訳すことが多いそうです。ですから、波羅羯諦【はらぎゃてい】 は 悟りの世界、涅槃の境地へと河を渡り到ったと訳すことができます。
この波羅羯諦【はらぎゃてい】に「僧」が加わり,、波羅僧羯諦【はらそうぎゃてい】と続きます。
僧という漢字には仲間という意味があります。
僧という漢字を見ると僧侶を思い浮かべる人が多くいらっしゃるかもしれません。
しかし、元々は
「一緒に修行をする仲間」
という意味がありますので、波羅僧羯諦【はらそうぎゃてい】は彼岸と呼ばれる悟りの世界に仲間と共に渡るということになってまいります。
般若心経の最後の部分に波羅僧羯諦という言葉が出てくるのは、
・仲間と共に悟りの世界へ到達することができる
・私たちは生きていく中で、仲間たちと一緒に悟りの世界へと進むことができる
と説いているように私は感じます。
では、どうすれば悟りの世界へ到達するのでしょうか。仏教では彼岸【ひがん】と此岸【しがん】という言葉があります。彼岸とはいわゆる悟りの世界であり、此岸とは今私たちがいるこちら側の世界であります。
今私たちがいるこの此岸から川を隔てて彼岸へ到達しなくてはいけないのですが、1人で向こう岸へ渡るのであれば鳥のようにパタパタと飛んで川を越えることも出来ます。
一人でじゃぶじゃぶと川の中に入っていって、流れに逆らったり、あるいは流されてみたり、様々な工夫をして一人で悟りの世界へと、向こう岸へと到達することもできます。
しかし、川の向こうの悟りの世界へ仲間と共に到達しようとした時に必要になってくるのは「橋」や「船」のようなものではないでしょうか。
みんで、川の中に飛び込んでいくのは危険ですし、みんなで流されてしまうかもしれません。
「橋」があれば仲間と共に多くの人たちと一緒に悟りの世界である彼岸へと渡ることができるのです。
そして、この「橋」を渡ることができるのも、作ることができるのも、全ては私達自身なのです。
橋を渡るのも私達、その橋を作ることができるのも私達。
「私達」というのは、決して今を生きている人だけではありません。
今を生きる人に命をつないでくれたご先祖様、様々な大切な教えを伝えてくれた先人達、すべての人が「私達」なのです。
誰かに助けてもらうことだけを望むのではなく、
誰かを助けることだけを考えるのでもなく、
時には自分が橋になり、時には自分が橋を渡る。
人は人に救われ、人が人を救っていく。
自分自身を含めた、全ての人と共に生きて行くことの大切さを般若心経では波羅僧羯諦【はらそうぎゃてい】と表現しているように私は感じます。
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