写経会のときに どんな話しをしているの? その53
東光寺(静岡市清水区横砂)で行われている写経会で、副住職(新米和尚)の法話と配布させていただいている絵葉書を紹介させていただきます。
※なぜ、絵葉書と法話(仏教のお話)が登場するのかはこちらをご覧ください。
※写経会の御案内はこちらをご覧ください。
今回は第53回目です。

般若心経というお経の最後の部分に羯諦【ぎゃてい】という言葉があります。
羯諦の原語は「ガテー」というサンスクリット語で、「行く」という意味の動詞から派生したと言われています。ですから、
「行った者よ」 や 「行く者よ」
と訳すことが多いそうです。ですから、
波羅羯諦【はらぎゃてい】 は 悟りの世界、涅槃の境地へと河を渡り到った
と訳すことができます。
仏教では、真理に目覚めること、輪廻の迷いから智慧の力によって解脱【げだつ】することを悟りと言います。
そして、悟ることを「河を渡る」と例えます。
迷いの岸から悟りの岸へと河を渡るのです。
しかし、この「河」は日本で暮らす私達が想像するような「川」ではありません。
向こう岸が見えないほど幅が広い「河」なのです。
ですから、日本人の感覚で考えると「海」の方が感覚的に似ているとも言われています。
向こう岸が見えない海に向かって一歩を踏み出すにはとても勇気がいるようにも感じます。
東光寺は清水という場所にありますが、清水には海を渡る船があります。
駿河湾を横断する大きなフェリー、そして世界遺産にもなった三保の松原へと渡るフェリーです。
絵葉書の写真は三保の松原へ渡るフェリーに乗ったときに撮影した写真です。
多くのカモメたちが船の近くにやってきたのです。
飛ぶ姿が美しかったため思わず写真を撮りました。
このとき、帽子などをかぶっていたら飛ばされてしまうほど風が大変強かったのですが、カモメたちは自由自在に飛び回っていた姿が印象に残っています。
どんな風が吹いても自分自身の羽を活かして自由に飛ぶ姿は、
私達が産まれたときから備わっている仏心とも表現される尊い仏様のような心を自由自在に働かせ悟りの世界へと渡っていく姿と重なるものがあるように感じます。
極楽は
西にもあれば
東にも
来た道さがせみんな身にあり
という歌に詠まれているように、向こう岸が見えないほど幅が広い「河」の向こうにある悟りの世界ですが、実は「河」は自分の心が作り出したものであり、この「河」を自越えて行くことができるのは自分自身しかいません。
その為には様々な実践があり、この実践を短い言葉で示しているのが臨済宗妙心寺派の生活信条
1日1度は静かに坐って 身と呼吸と心を調えましょう
ではないのでしょうか。
姿勢を調えて、ゆっくりと呼吸をしながら写経をすることができたとき、自然と心が調ってくると思います。
そして写経会に参加してくださった皆様が。調った心のまま般若心経の最後の部分「波羅羯諦」を書いていただけると信じています。
※なぜ、絵葉書と法話(仏教のお話)が登場するのかはこちらをご覧ください。
※写経会の御案内はこちらをご覧ください。
今回は第53回目です。

般若心経というお経の最後の部分に羯諦【ぎゃてい】という言葉があります。
羯諦の原語は「ガテー」というサンスクリット語で、「行く」という意味の動詞から派生したと言われています。ですから、
「行った者よ」 や 「行く者よ」
と訳すことが多いそうです。ですから、
波羅羯諦【はらぎゃてい】 は 悟りの世界、涅槃の境地へと河を渡り到った
と訳すことができます。
仏教では、真理に目覚めること、輪廻の迷いから智慧の力によって解脱【げだつ】することを悟りと言います。
そして、悟ることを「河を渡る」と例えます。
迷いの岸から悟りの岸へと河を渡るのです。
しかし、この「河」は日本で暮らす私達が想像するような「川」ではありません。
向こう岸が見えないほど幅が広い「河」なのです。
ですから、日本人の感覚で考えると「海」の方が感覚的に似ているとも言われています。
向こう岸が見えない海に向かって一歩を踏み出すにはとても勇気がいるようにも感じます。
東光寺は清水という場所にありますが、清水には海を渡る船があります。
駿河湾を横断する大きなフェリー、そして世界遺産にもなった三保の松原へと渡るフェリーです。
絵葉書の写真は三保の松原へ渡るフェリーに乗ったときに撮影した写真です。
多くのカモメたちが船の近くにやってきたのです。
飛ぶ姿が美しかったため思わず写真を撮りました。
このとき、帽子などをかぶっていたら飛ばされてしまうほど風が大変強かったのですが、カモメたちは自由自在に飛び回っていた姿が印象に残っています。
どんな風が吹いても自分自身の羽を活かして自由に飛ぶ姿は、
私達が産まれたときから備わっている仏心とも表現される尊い仏様のような心を自由自在に働かせ悟りの世界へと渡っていく姿と重なるものがあるように感じます。
極楽は
西にもあれば
東にも
来た道さがせみんな身にあり
という歌に詠まれているように、向こう岸が見えないほど幅が広い「河」の向こうにある悟りの世界ですが、実は「河」は自分の心が作り出したものであり、この「河」を自越えて行くことができるのは自分自身しかいません。
その為には様々な実践があり、この実践を短い言葉で示しているのが臨済宗妙心寺派の生活信条
1日1度は静かに坐って 身と呼吸と心を調えましょう
ではないのでしょうか。
姿勢を調えて、ゆっくりと呼吸をしながら写経をすることができたとき、自然と心が調ってくると思います。
そして写経会に参加してくださった皆様が。調った心のまま般若心経の最後の部分「波羅羯諦」を書いていただけると信じています。
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