腹の使い
以前、出会った方の中に電車ではできるだけ椅子に座らない方がいました。
座らずに立つことによって体を鍛えるというわけではありません。
本当は席を譲るべき人がいたら、サッと譲りたいのだが躊躇してしまって誰かに席を譲るのが苦手だから、できるだけ座らないようにしているということでした。
確かに席を譲ろうと思っても、すっと立てないことも多くあります。
立ったはいいが、どのように声をかけていいか悩むこともあります。

仏教の物語の中に「腹の使い」という話があります。
ある国の王様は飢饉によって苦しむ人々のために、これまで国が蓄えてきた穀物を分け与えようとしました。
そして、国中に知らせを出し、「困っているものは城の倉庫まで穀物を取りに来なさい」と呼びかけたのです。
しかし、王様の家来は毎日のように減っていく蓄えがいつかはなくなってしまうのではないかと大変心配になりました。
そして、とうとう王様には内緒で
「困っても穀物を分けることができない」
という知らせを出してしまいました。 さらに、家来たちは困った人が王様に助けを求めたらまた王様は穀物を分けてしまうのではないかと心配になり
「国内の人は王様に面会することはできない」
という知らせまで出してしまいました。そのため本当に困った人達は王様に会ってお願いをすることもできなくなりました。
この状況を見かねたある和尚さんは自分の身分を偽って城へ行きました。家来は和尚さんに言いました。
「お前はどこからやって来たんだ。この国のものなら王様に会うことはできないぞ」
そこで、和尚さんは
「私は腹の使いとしてやってきました」
と答えます。「腹」という国の使者と名乗ったのです。
そのように言われてしまった家来は、しぶしぶ和尚さんを王様に合わせることにしました。そこで和尚さんは国中の人が困っていることを王様に伝えました。王様は穀物を分けていないことを知り大変驚き、家来に命令をして国中の人々を救うことができたそうです。
王様は人々の為に何かできることをしようと思ったのに家来が止めてしまっていたのです。
物語では王様と家来という二人が登場しますが、この二人こそが私たちの心の動きを示す物語であります。
王様の行動は私たちが誰かのために何かをしたいと願う心であり、それに対して家来の行動は良い行いをするのはいいけれども、そこに躊躇してしまう私たちの心を示しているように感じます。
本来であれば、良い行いを堂々とすればいいのですが、どうしてもできないことがあります。
そこで、物語の和尚さんの行動は、ちょっとした発想の変化によって、自分の正しいと信じることを実践することができることを示してくれているように感じます。