やっぱり「とりあえず やってみる」が大切

臨済宗青年僧の会が昭和61人に発行した機関紙「不二」(25号)を読んでいると、「法話の材料の見つけ方」という文章の中に心に突き刺さる言葉と出会うことができました。

書いたのは、東京龍源寺 松原哲明師です。

その中で、
詩文というものは、誰でもが引用してもいいというものではありません。詩などに全く興味を持たぬ人が、詩を引用すると、かえって陳腐な話になってしまうことも起こりましょう
と書いてあるのです。
私は「詩」や「短歌」というものが大の苦手です。
ですから、「詩などに全く興味を持たぬ人が、詩を引用すると、かえって陳腐な話になってしまう」という部分だけに注目し、勝手に
「陳腐になってしまうのだから、詩を理解できない人は引用しない方が良い」
と読み替えて安心しようとしてしまっていました。
しかし少し考えれば、松原師が伝えたいことはそんなことではないはずです。
私自身は幼少期に「仏教」や「寺」には全く興味を持っていませんでした。
何に興味があったのかと言えば、「科学」に興味を持っていました。
お寺には興味がない。科学に興味がある。だから、理系の道に進む。
理系道へと進むことに迷いはありませんでした。
松原師の「詩などに全く興味を持たぬ人が、詩を引用すると、かえって陳腐な話になってしまうことも起こりましょう 」という言葉を借りるのであれば
「お寺に興味のない人がお寺のことをすれば、かえって陳腐なことになる」
と言えるのです。
しかし、私自身が様々なご縁をいただいて興味を持てなかった「仏教」や「寺」の世界に飛び込んだとき驚くほど「科学」との接点があり、これまでの経験を活かすことができる現場だと知りました。
「お寺に興味のない人がお寺のことをすれば、かえって陳腐なことになる」
のではなく
「お寺に興味がないならば、お寺に興味を持ってみる」
が正しいのではないでしょうか。
それは、「詩などに全く興味を持たぬ人が、詩を引用すると、かえって陳腐な話になってしまう」という部分を勝手に「陳腐になってしまうのだから、詩を理解できない人は引用しない方が良い」と解釈するのではなく
「詩が理解できないのなら、引用ができる程にしっかりと勉強をしなさい。」
と、とらえるべきだと感じます。
そうすれば、自分の思い込みで避けていた仏教やお寺から様々なことを教えていただいているように、詩や短歌が様々なことを学ぶことができるように感じます。
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