評価について考えた その1

中学生だった頃、定期テストは嫌いでした。
好きだった数学や理科、社会は何とかなるのですが、それ以外の教科は普段の勉強不足が露呈します。
高校生になっても定期テストは嫌いでした。理由は同じ・・・
大学生になると定期テストは恐怖に変わりました・・・
普段の勉強不足が露呈するだけでなく、露呈するとあっさりと留年をするためです。
なんとか、留年との戦いに勝ち大学院へ進学したとき、大学入試のアルバイトをしました。
私が在学した学校では入試の際、大学生アルバイトは外の交通案内や、会場案内が仕事でした。
そして、大学院生は試験監督ができるのです。
初めての体験で、少し楽しかった思い出があります。
やがて、卒業し中学校の教員になったとき これまではテストを受ける側から急にテストを出題し採点する側になりました。問題を作りながら、採点をする側になったことを実感していました。
大学入試の試験監督のバイトのことを思い出して少し楽しみにしていた部分もありました。
しかし、生徒の解答用紙を採点していた時に
私自身が採点されている!
と感じました。
自分自身がテストを受けているときは
「採点する側はいいよな~ 丸つけたりバツつけてればいいんだもんな」
と感じていました。しかし、実際にはそんな感情は出てきませんでした。
多くの生徒が間違える問題があれば、それはその部分を教員である私がしっかりと教えることができていてないと言われているのです。
ほとんど白紙の状態で出てくる解答用紙もありますが、これは教員である私が その教科の楽しみ方を伝えていないことを表しているのです。
採点が終わり、平均点や点数の部分表などを見ていると、「これが教員としての私の評価なのだ」と感じたことを覚えています。
禅の言葉(禅語)に
担板【たんばん】
という言葉があり、板を担ぐ(かつぐ)と反対側が見えなくなる様子から
物事を一面からしか見ることのできない人。広い視野を持てない人、自分の主張に執着する人。
を意味しています。
テストを受ける側だったときの私は、
テストを受ける側はこんなに大変なのに、テストを作る側はきっと楽で楽しい
と感じていました。まさに担板と言う言葉がぴったりだと感じます。
担板を抜け出す為に、様々なことを経験することも大切です。
しかし、なんでも体験できるわけではありません。
そんな時は、担いだ板を下すことが一番簡単なのかもしれません。
担いでいるから見えない。だったら下せばいい。
肩の力を抜いてゆったりと過ごすことも大切なことかもしれません・・・
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