坐るともう一人の自分と一つになる

「坐」という漢字について考えるきっかけがありました。
以前、「座」と「坐」の違いを
坐は動作
座は場所
と紹介をしました。
※記事はこちらです。
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http://blog.tokozenji.net/blog-entry-1418.html

今回は「坐」という字について興味深い考え方を教えていただきました。
以前、「坐」という漢字は
2人の人が土の地面に坐っている様子を表している
と聞いたことがありました。
禅宗で「坐る」というと坐禅が連想できます。
では、「坐る」を坐禅とすると、2人とは誰でしょうか??

仲間でしょうか?

師匠と弟子でしょうか?
確かに仲間や師匠と坐禅をすると心強いものです。

しかし、坐禅は1人でもできます。

坐禅を1人でしていると、「なまけたい心」が出てくることもあります。

さらに、「楽をしたい心」も出てきてしまうこともあります。

そして、この悪い心は、どんどん増えてきてしまいます・・・・

しかし、そのような なまける心を時々は排除しなくてはなりません。

なまける心を排除すると、すっきりして、坐ることができます。
このようなことを

自分自身と、自分の奥底にある「生まれたときからいただいている仏様のような心【尊い心】」と対面する
とも表現できるのではないでしょうか。
ある和尚様が「坐」という字を示しながら
「地面」が人としての基礎基本だとするならば、
基礎基本を大切に、心を調えて坐ることができたとき、
もう一人の自分と対面することができる
と、表現されていたのが印象的です。
自分自身の「尊い心」と対面しようとしたとき、やはり
臨済宗妙心寺派の生活信条の
1日1度は静かに坐って、身体と呼吸と心を調えましょう
を思い出します。