「自然」の力の大きさを感じるからこそ、考えなければならないこと

母校の同窓会から1年に数回程度大学の冊子が届くことがあります。
届いた冊子を眺めていると学生の頃を思い出します。
私の通った大学は、北里大学です。そして、大学の4年生と大学院時代の計3年間お世話になったのが、理学部物理学科の分子光動力学研究室でした。
当時、研究室の責任者である教授は非常に温かみのある方で、よく我々学生を食事へ連れていってくれました。
その際に話した内容で忘れられない教授の言葉があります。
「我々科学者は分析ができる。しかし、何かを生み出すことはできない。米一粒だって生み出すことはできない。全ては自然に任せるしかない。」
理学部の学部長も務めていた教授の言葉は、科学こそ万能だと考えていた学生時代の私にとって衝撃的な言葉でした。
しかし、否定をすることができない事実でした。
科学は進歩し、遺伝子を組み替えることができるまでになりました。
しかし、遺伝性を組み替えたとしても科学の力で細胞を分裂させることはできません。
細胞分裂が活発に行われ環境を分析することはできるが、決して成長そのものをさせることができない。
自然に任せるしかないのです。
仏教では自分を生かしてくれている様々な支えを父母、衆生、国土、三宝の四つの恩と捉え、この四恩に報いて生きることを説いています。
そして、東光寺(静岡市清水区横砂)の本山である妙心寺では平成28年度のテーマを、 四恩の1つである国土の恩を自然の恩と考え
『おかげさま―自然の恩―大自然の恵みの中で』
としています。
「自然」という言葉を使うと、自然災害など負の印象を受けることもあります。
ですから
「自然の恩」なんて感じられない!
「自然」に苦しめられているのに恩なんか感じられるか!
と考えてしまうかもしれません。
仏教(禅)の言葉に
衆生本来仏なり:生きとし生きるもの全てに尊い心が生まれたときから備わっている
があります。
どんなに、「悪い人だ」とか「あいつに苦労させられえている」と思う相手にも、尊い心があるのだという教えです。
私は「衆生本来仏なり」は自分も他人も、全ての「いのち」を大切にしながら日々を過ごすことの尊さを説く言葉だと考えています。
良い・悪い と区別をするのではなく、全てを受けいれることの大切さを示しているのは「人間」だけのことではないはずです。
人類は「自然」を操作すること、何かを生み出し成長させることはまだまだできません。
しかし、操作することができないからこそ、生み出し成長させることができないからこそ「自然」の力の大きさを実感することができるのではないでしょうか。
自然も 良い・悪い と区別するのではなく 全てを受け入れて「恩」を感じる心を育むことの大切さを教えてくれているのではないでしょうか。
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