分別の向こうにある心を感じた瞬間

私は子供坐禅会や保育園児の坐禅体験の際に少し怖い顔の仏様の御姿や掛け軸を見せながら、
「今日は、昔のえらい和尚様を御参りします。しっかり御参りすると 御参りする前と後で和尚様の顔が変わって見えるよ!」
と話すことがあります。
子供たちは興味を持って御参りをして表情を確認します。すると、
「あ~、本当だ!!!」「怖い顔に見えたけど御参りしたら少し笑ってくれたぁ~」
と言って喜んでいました。そこで私は
「みんながしっかり御参りをしてくれたから、みんなの心が綺麗になったんだよ。綺麗な心で見ると同じ顔や表情でも優しく見えるね!」
と話しをします。お参りをすることで、仏様の御姿に変化があるように感じることで、自分自身の心を調えることの大切さを実感できる体験だと思います。
しかし、「きれい心・汚い心」や「良い心・悪い心」といったように区別や分別をしてほしいと考えているわけでもありません。
「分別の先にある心を感じてもらいたい。感じるための準備をしてほしい」
と考えて話しをしています。
「分別の先にある心」とは私自身が経験した光景を文字にしたものであり、実在するかは定かではありません・・・
僧侶として東光寺(静岡市清水区横砂)に戻ってきたばかりの話しです。
東光寺では毎月17日は観音様のお参りを檀信徒とともに行っています。
昔は「観音山」の頂上で行っていましたが、現在は本堂に観音様の掛け軸を飾りお参りをします。
ある日の観音様のお参りの日、前日からの忙しさ・準備などでバタバタとしていることなど様々な要因が重なり私はかなりイライラとしていました。
何かを殴ってしまいたいという衝動を抑えることに苦労するほどイライラとしていました。

普段ですと、読経をして心がスッキリとして、お参りをすれば観音様が笑顔で見守ってくれているように感じますし、モヤモヤとしていれば観音様が心配そうに見守ってくれているように感じます。
ですから、かなりイライラしていた その日は、
「観音様をお参りしても観音様の表情はきっとけわしく見えるだろうな」
と勝手に考えていました。
そして、いつものように読経が終わり、お参りをしました。

観音様の前に立ち、合掌礼拝をして 顔をあげると 観音様がニッコリと微笑んでこちらを見てくれていたのです!
本当に驚きました。と、同時に私自身が
「今日は自分の心が乱れているから、観音様は険しい顔になっている」
「今日は私の心が調っているので、観音様は笑ってくださる。」
といったように分別をしていたことに気が付いたのです。
しかし、私達人間は「分別する心」を会得すよりも早くに「仏様の心」とも表現される尊い心を持っているのです。
「今日の自分の心で、相手の心が変わる。」
これは紛れもない事実です。
しかし、自分自身の心が大きく乱されているのにも関わらず観音様はニッコリと微笑んでいる。
この御姿を拝見させていただき「分別の向こうにある尊い心」の存在は確かめることができた気持ちになりました。
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