写経会のときに どんな話しをしているの? その42

東光寺(静岡市清水区横砂)で行われている写経会で、副住職(新米和尚)の法話と配布させていただいている絵葉書を紹介させていただきます。
※なぜ、絵葉書と法話(仏教のお話)が登場するのかはこちらをご覧ください。
※写経会の御案内はこちらをご覧ください。
今回は第42回目です。
以前
ありがとう
という言葉を紹介するときに
ひとの生【しょう】を
うくるはかたく
やがて死すべきものの
いま生命【いのち】あるはありがだし
という法句経の182番目の句を紹介させていただきました。
今回、作成した絵葉書にも「182番」の文字があります。
正法【みのり】を
耳にするはかたく
諸仏【みほとけ】の
世に出づるも
ありがたし
法句経 182
とあります。
実は、前回紹介した句の後に、今回の句があるのです。
前半の句では
生まれるだけでも奇跡的な出来事である私達が
今、この瞬間に命があることが 有り難いことである
と説き、
後半では「諸仏【みほとけ】の 世に出づるも ありがたし」と仏様の出現を喜んでいる、有り難がっているように感じます。
今回の絵葉書は飛行機に乗った際に見えた景色を使っています。
富士山が見え、自分が暮らしている静岡も見えている写真です。
先程の182番の句を富士山と静岡の土地に例えると
前半の 「ひとの生」が静岡で、後半の「諸仏の」が富士山を表しているように感じます。
しかし、写真を見ても明らかなように、富士山も静岡の土地も区別などありません。
私達は自分達の都合に合わせて物事を区別する習慣がありますが、富士山にとって、どこからどこまでが富士山で、どこからどこまでは静岡なのかなど気にはしていません。
同様に、「ひとの生」と「諸仏」も決して区別などないのです。
私たち自身が「ひとの生」を受けた生命であり、その姿こそが「諸仏」なのです。
般若心経の中に
阿耨多羅 三藐 三菩提 【あのくたら さんみゃく さんぼだい】
と言う部分があり、
この上なく(阿耨多羅)、正しい(三藐)、完全な悟り(三菩提)
という意味があります。
では、この上ない完全な悟りとはなんなのでしょうか。
大変説明の難しい難問です。
しかし、法句経182番を味わってみると
自分の生命が仏様そのものであると教えてくれています。
この自分の生命そのものが有り難いものであり、その生命が仏様となんら変わらない尊いものだと気が付く(実感する)ことが「阿耨多羅 三藐 三菩提」の世界なのだと思います。
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