法事は面倒だ・・・

「法事は面倒だ・・・」
「やらなきゃいけないのか」
「法事をしたからといって死んだ人は帰ってこない。法事なんか無意味」
このような意見を聞くことは珍しいことではありません。
祖父であり、東光寺(静岡市清水区横砂)の先代住職である尚空和尚の13回忌の法要を終えた今、
「法事は面倒だ」
という意見に両手をあげて賛成ができる気もします。
・誰を呼ぶのか
・法事をどのように進めるのか
・法事終了後の引き物や食事会場の手配

などなど、多くの労力を必要とすることは間違いありません。
しかし、同時に多くのことを感じたり学んだりすることができることも事実です。
法要の際にお参りをしていると、幼い頃に祖父の背中を見ながらお参りをしていたことを思い出したり、
法要の前後で祖父と親交のあった方に、私の知らない祖父の一面を教えていただくなどなど・・・
「面倒」を超える価値のある出会いが多くありました。
禅語に
冷暖自知 【れいだんじち】
という言葉があり、
水の冷暖は水を呑んで初めて自ら知ることができる。悟りは他からの説明によるものではなく、自得すべきものである。
という意味があります。知識での理解を超えた実体験の重要性を説いた言葉です。
あれもやらなきゃいけない、これもやらなきゃいけない・・・
頭で考えれば考えるほど「法事は面倒だ」となってしまいます。
しかし、実際にやってみればそこから学ぶことは多くあるのです。
まずはやってみる。
それでも、学ぶことや感じることがないのなら「面倒だ」と発言しても良いのですが、なにもせずに「面倒だ」と言ってしまうのはもったいない話だと感じます。
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