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百千億倍! 百千万倍ではダメなの?

640写経会 絵葉書 6 動中の工夫

「 動中の工夫は 静中に勝ること 百千億倍す 」


と言う、江戸時代の大変有名な白隠禅師【はくいんぜんじ】という臨済宗の和尚様が残された言葉です。


 動中【どうちゅう】とは、掃除・食事・托鉢など動きのある修行

 静中【じょうちゅう・せいちゅう】とは、坐禅


 を意味しています。


私は、この言葉で大切なのは 百千億



「倍」ということだと考えていました。



 静中、つまり坐禅の百倍・千倍・億倍なのです。坐禅が「ゼロ」なら動中をどんなに工夫しても「ゼロ」のままです。


と、いうことは「基礎基本」と言いえる静中が必ず必要になってきます。


心が調っていることが、人としての「基礎基本」と言えるのかもしれません。



と、この言葉を紹介させていただくこともあります。






しかし、先日ある和尚様がこの百千億倍の



に注目をされていました。 



「なんで、百千万ではなく、百千億なんだろうか。普通に考えれば万だろ!」



と言うのです。



確かに、そう言われてみれば「万」の方が普通です。



これまで「倍」に注目をしていたので気が付きませんでした。



なぜ、普通ではない方法で表現をされたのか考えてみました。



百千万を数字にすると

100
1000
10000



百千億を数字にすると

100
1000
100000000



となります。これをグラフにすると




500百千万と百千億のグラフ

こうなります。



分かりやすく「百千億」が突き抜けています。



禅の教えでは、型を破ること、自分の殻を壊すことを大切にします。



型を破るといっても、まずは型を作ること、型をしっかりと固めた後に壊します。



静中に勝ること 百千億倍す



は、静中(坐禅)という型をしっかりと作った後、「百千億」との表現のように、その型すら破ることの大切さを説いてくださっていると感じました。




百千億倍


「倍」に注目するだけでなく、千と億の間に注目することで見え方に大きな違いがあることを実感にいたしました。
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出典

差之助様

臨済宗の修行には接心【せっしん】と呼ばれる、坐禅を懸命に取り組む期間があります。

この、接心が始まる際に亀鑑【きかん】という教えが読まれます。

修行をする場所によって違いがあるそうですが、私が修行をさせていただいた場所では亀鑑の中で
「動中の工夫は 静中に勝ること 百千億倍」
が出てきました。

その後、白隠禅師の書にこの言葉が残されていることなどを知り、出典を読むという基本的な動作がおろそかになっていました。

今回改めて出典を調べたところ、白隠禅師の遠羅天釜【おらてがま】という本に「動中の工夫は・・・」という文字を見つけました。

私が読んだのは禅文化研究所が発行している「白隠禅師法語全集」の第9冊、芳澤勝弘氏が訳されたものです。
遠羅天釜は4部作で、この1部である「巻の上」に動中の工夫は登場します。
「巻の上」は
肥前蓮池藩主の鍋島直恒に与えた法語。内観による養生法を具体的に説き、坐禅中だけでなく、日常生活における「動中の工夫」の重要性を示したもの。すなわち、さまざまな社会生活をしながら、出家者と少しも変わらぬ道果を得られるのだと、「欲界にあって禅を行ずる」法を述べ、在家禅を指南した一書である。その養生法については、禅師のもう一つの代表作である『夜船閑話』とあわせ読むことによって、より理解を深めることができるであろう。
と、訳者である芳澤氏は書いています。

そして、遠羅天釜【おらてがま】「巻の上」の訳には以下のような一文があります。

悟りによる得力とは何か。大慧禅師【だいえぜんじ】は「動中の工夫は 静中に勝ること 百千億倍」と言われている。博山大艤【はくざんたいぎ】禅師は「動中の工夫を成すことは百二十斤の重荷を担いで羊額嶺を登るようなものだ」と言われている。
これは、動中と静中の隔てを忘れてしまうほど純一に工夫し修行することが大切なのである。だから「真の修行者は、活動していても活動していると意識せず、坐っていても坐っているとは意識しない」と言われるのである。
とりわけ、自己の心の奥底、自性の淵源を徹底して極め、いついかなる所にあっても用いることのできる気力を得るには、動中の工夫にまさるものはない。

ここで、「動中の工夫・・・」という言葉が登場するのです。
しかし、大慧禅師【だいえぜんじ】は「動中の工夫は 静中に勝ること 百千億倍」と言われている。

と書いてあります。

そこで、遠羅天釜【おらてがま】の原文を読んでみようと本を読み進めると、原文の注釈を見ると

このとおりの言葉は見えず。『大慧書』「富枢密に与える第三書」に
「但只だ狗子無仏性の話を挙せ。両種の病は、力を用いて排遣するを著ずとも、当下に帖々地ならん。日久月深、纔かに省力を覚せば、便ち是れ得力の処なり。亦た静中の工夫をなすことを著ずとも、只だ遮れ便ち是れ工夫なり」という趣旨か。

と書いてあります。

つまり、これまで多くの仏教や禅の教えを伝えてくださった祖師方が残された言葉を勉強した上で、白隠禅師が後世の私達に伝えた言葉こそが
「動中の工夫は 静中に勝ること 百千億倍」
であったのだと知ることができました。

動中の工夫

迅速なるご回答ありがたく拝見しました。

「動中の工夫は 静中に勝ること 百千億倍」ということばは、白隠禅師自身のことばではなく、 もともとは大慧禅師が発したことばだということでしょうか? まぁ、これだけでもありがたいのですが、どのようないきさつで発せられたのかはわからないものでしょうか。

僭越の謗りを承知のうえで申し上げれば、みなさんそれぞれ勝手な思い込みで、いろいろ教えてくださっているということなのでしょう。

このたびの突然のお尋ねでは、失礼しました。ありがたく、くりかえし拝読いたしたく存知ます。

出典2

差之助様

誤解を招く回答になってしまい申し訳ありません。


「動中の工夫は 静中に勝ること 百千億倍」


はあくまでも大慧禅師の言葉ではなく白隠禅師の言葉です。


これは、間違いありません。




遠羅天釜でも説かれていますし、白隠禅師が残された多くの書の中にも出てきますので白隠禅師の言葉で間違いはありません。

誤解をさせてしまったのは私の説明不足です。申し訳ありませんでした。



少し違った角度から説明をさせていただければ、


ニュートンが万有引力の法則を発表し、その法則の内容が認められれば、後世の私達は万有引力の法則はニュートンの言葉だと認識し学びます。



ニュートンが万有引力の法則を発見する前に数学や科学の勉強をして、その基礎があったから法則を発見したとしても、彼に数学的な力や科学的な力を授けた人間が万有引力を発見したことにはなりません。



それと同様に、大慧禅師の言葉に白隠禅師が影響を受けたとしても、白隠禅師が「動中の工夫は 静中に勝ること 百千億倍」と説いているのですから、この言葉は大慧禅師の言葉ではなく、白隠禅師の言葉になります。



また、万有引力の法則が正しいかどうかは様々な観測結果から知ることができます。

ですから、ニュートンの発表した万有引力の法則を現代の理科の先生が授業で生徒に教えるときには「ニュートンがどんな勉強をしたか」、「ニュートンがどんな人生をおくったのか」は関係なく、万有引力の法則が実際の観測結果から正しい法則だと理解して授業を行います。




それと同様に僧侶は


差之助様が「みなさんそれぞれ勝手な思い込みで、いろいろ教えてくださっているということなのでしょう。」


と言われる通り、「白隠禅師がどのようにしてこの言葉を生み出したのか」、「白隠禅師の生涯とはどのようなものなのか」を学ぶのではなく、自分が実際に修行などで体験し実感した経験が祖師方の残した教え同じだと「勝手な思い込み」をして、いろいろと話をしているのだと思います。



特に禅宗では
「この和尚様は こんな苦労をして こんなすごい修行をして こんな立派なお寺を建立した。だからこの和尚様の言葉はきっと正しい!」
 と言った説き方や言葉の理解することはあまりありません。



自分自身が様々な体験(修行等)をすることによって感じとったことを布教のために誰かに伝えようと考えたとき、「あ、この和尚様の言葉は、私が体験した状態を見事に表現してくれているな」という「勝手な思い込み」で、その言葉を使うことが多いように感じます。




差之助様に、このことを「勝手な思い込み」と表現させてしまうのは私の説明が不十分であった為だと考えています。差之助様が「みなさん」と、どこまでの人をひとくくりにしたかは想像できませんが、私のような未熟者と一緒にひとくくりにされてしまった、多くのことを学び体験をしている「みなさん」に申し訳ない気持ちでいっぱいです。





今後も、これまで以上に精進をしながら少しでも仏教のことを伝えていければと考えていますし、時間はかかると思いますが大慧禅師の
「静中の工夫をなすことを著ずとも、只だ遮れ便ち是れ工夫なり」についても勉強をしてお伝えできればと考えています。




この度は貴重な御意見や御質問をいただきました御縁に感謝いたしております。ありがとうございました。


遠羅天釜

突然の質問に懇切なるご回答いただきまして、かさねて御礼申し上げます。「遠羅天釜」はわたくしどもにも手に入るようですので、読んでみたいと思います。

機会があれば、東光寺にもお伺いしたいところです。
とりあえず、あつく御礼申し上げます。



人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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