南無帰依法 【なむきえほう】を日本語で説明する
先日、仏法僧に帰依をする三帰依文【さんきえもん】の南無帰依仏 【なむきえぶつ】という言葉について紹介をさせていただきました。
※南無帰依仏 【なむきえぶつ】についての記事はこちらをご覧ください。

経本に書かれた南無帰依仏 【なむきえぶつ】の言葉にも感動をしましたが、南無帰依法 【なむきえほう】にも感動をしました。
南無帰依法 【なむきえほう】の「法」は直接的な説明をするならば
お釈迦様の教え、仏教の教え
と言えます。ですから南無帰依法といえば
仏教の教えを敬い頼りにします。
と訳すことができます。しかし、東光寺(静岡市清水区横砂)の本寺である妙心寺が発行している勤行聖典【ごんぎょうせいてん】には
法とは 己【おのれ】なきの 尊さなり
当に願わくは衆生と共に、
深く教えの蔵に入りて、智慧【ちえ】海の如【ごと】くならん
と書かれているのです。
私はこれまで、「教え」を大切にすることが重要であると考えていました。
しかし、仏教の「教え」を実践したとき 己がなくなることが尊いと示されていたのです。
大切にするだけでなく、大切にしているのであれば、自然と謙虚になる。
謙虚になると言うことは 「自分が」「自分が」という出しゃばった気持ちが自然と無くなり、相手を敬う気持ちになると言うことだった
のだと、
法とは 己【おのれ】なきの 尊さなり
という一文に教わりました。そして,
深く教えの蔵に入りて、智慧【ちえ】海の如【ごと】くならん
という言葉を、拡大解釈すると
仏教の教えが詰まった部屋に入ることができたなら、そこは海のように果てしなく広い場所であろう
とも読み取ることができるのではないでしょうか。

智慧の海に飛び込むことも、仏教の教えを大切にすることであると説いているように感じます。
※南無帰依仏 【なむきえぶつ】についての記事はこちらをご覧ください。

経本に書かれた南無帰依仏 【なむきえぶつ】の言葉にも感動をしましたが、南無帰依法 【なむきえほう】にも感動をしました。
南無帰依法 【なむきえほう】の「法」は直接的な説明をするならば
お釈迦様の教え、仏教の教え
と言えます。ですから南無帰依法といえば
仏教の教えを敬い頼りにします。
と訳すことができます。しかし、東光寺(静岡市清水区横砂)の本寺である妙心寺が発行している勤行聖典【ごんぎょうせいてん】には
法とは 己【おのれ】なきの 尊さなり
当に願わくは衆生と共に、
深く教えの蔵に入りて、智慧【ちえ】海の如【ごと】くならん
と書かれているのです。
私はこれまで、「教え」を大切にすることが重要であると考えていました。
しかし、仏教の「教え」を実践したとき 己がなくなることが尊いと示されていたのです。
大切にするだけでなく、大切にしているのであれば、自然と謙虚になる。
謙虚になると言うことは 「自分が」「自分が」という出しゃばった気持ちが自然と無くなり、相手を敬う気持ちになると言うことだった
のだと、
法とは 己【おのれ】なきの 尊さなり
という一文に教わりました。そして,
深く教えの蔵に入りて、智慧【ちえ】海の如【ごと】くならん
という言葉を、拡大解釈すると
仏教の教えが詰まった部屋に入ることができたなら、そこは海のように果てしなく広い場所であろう
とも読み取ることができるのではないでしょうか。

智慧の海に飛び込むことも、仏教の教えを大切にすることであると説いているように感じます。
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