伝えずにいられないこと

先日、知人が友人との会話で疑問を感じたと話しをしてくれました。
知人A「先日、すごく美味しいお店を見つけたんだ。だから、さっそく家族(奥さんと子供)で行ってきたんだ。やっぱり家族で美味しい物を食べることができるって幸せだね。」
知人B「へ~、それはうらやましいね。」

知人B「そういえば・・・、Aさんは最近キリスト教徒になるために洗礼を受けたって聞いたけど本当なの?」
知人A「よく知っているね!そうなんだよ、洗礼を受けて今はキリスト教徒だよ!」
知人B「へ~、そうなんだ。ところで、そういう場合家族はどうなるの?奥さんとか子供も一緒に洗礼を受けるの?」
知人A「奥さんは一緒にキリスト教について勉強して洗礼を受けたいと言ったから一緒に受けたよ。子供には何も言ってないよ。もう20歳を過ぎているし、自分のことは自分で決めるよ!」
知人B「へ~そうなんだ・・・」
このような会話だったそうです。
知人Bはこの会話に疑問を持ったそうです。
「自分のことは自分で決める」
正しいことを言っているように感じます。
この方(知人A)が「自分のことは自分で決める」という考えを貫くならば、疑問を感じなかったそうです。
しかし、美味しい物は子供に食べさせるのに、宗教は自分で選ばせる。本当にいい物ならば、なぜ宗教も伝えないのか。
ここに、矛盾を感じたそうです。
個人的には知人Aの考えも、知人Bの考え方も理解できます。
現在の「宗教」という言葉に対して「ちょっと怖い・よく分からないけど不気味」と感じる人が増えていると感じます。
ですから、自分が「これは素晴らしい教えだ!」と感じたとしても 「これはいいよ!!」と強く薦めれば薦めるほど 「なんだか怖い」という印象を与えてしまって、せっかく「素晴らしい!」と感じた教えの評判を下げてしまうのではないかと考えてしまうことがあるのではないでしょうか。
では、なぜ食事なら誰かに薦めることができるのでしょうか。それは、食事に対しては「なんとなく怖い」という感情がないからだと言えます。薦めても「あの人ちょっと変だよね」と言われることがないからこそ、誰かに堂々と「これはいいよ!!」と伝えることができるのだと思います。
せっかく洗礼を受けるほど熱心に宗教を学び、お祈りをしようとする方でも、「これはいいよ!!」と伝えることができないのは非常にもったいないことだと感じます。
「宗教」という文字を分解すると「宗」の「教え」となります。
「宗:むね」は、中心ということを表す言葉です。
つまり「宗」は、「おおもと」「根本」を指します。
「教え」は、教えであり、生き方と言えます。
つまり、宗教とは、人間の根本の生き方ということになります。
ですから「宗教」という言葉は決して「ちょっと怖い・よく分からないけど不気味」なものではないのです。
知人の話しを聞いて、これから「宗教」という言葉の本来の意味を伝えていくことで、多くの人が今まで以上に宗教と触れ合い、学んだことを恐れることなく周囲の人に伝えることができる環境を取り戻していきたい。取り戻すための努力を続けていかなくてはいけないと感じました。
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