写経会のときに どんな話しをしているの? その39
東光寺(静岡市清水区横砂)で行われている写経会で、副住職(新米和尚)の法話と配布させていただいている絵葉書を紹介させていただきます。
※なぜ、絵葉書と法話(仏教のお話)が登場するのかはこちらをご覧ください。
※写経会の御案内はこちらをご覧ください。
今回は第39回目です。

中道【ちゅうどう】
中道は仏教・禅の言葉です。 中道は
対立する二つの立場のどれからも離れた自由な立場のことを示す言葉です。
「中」は二つのものの中間ではなく、二つのものから離れ、対立を超えることを意味しています。
般若心経というお経の一節に
遠離一切顚倒夢想 【おんり いっさい てんどう むそう】
とあり、
一切の誤った見解からはなれることを説いています。
この一節に触れたときに 中道 という言葉を思い出しました。
そして、対立する二つの立場のどれからも離れた自由な立場や、一切の誤った見解からはなれることを
かたよらない こだわらない とらわれない
と高田好胤師は表現されています。
「かたよらない、こだわらない、とらわれない」と説かれるということは、私達はついつい
かたより、こだわい、とらわれてしまうのです。
先日、リオオリンピックでメダルを獲得したシンクロの選手たちの練習風景が放送されていました。
厳しく指導するコーチと、涙を流しながら練習する選手の映像です。
このとき選手の1人が話していた言葉が印象に残っています。彼女は
辛くて涙を流しているのではありません。コーチに
(筋トレの最中に)「お前ならもっとできる!」
と言われましたが、自分は限界までがんばっているつもりでした。
だから 「できる!」 と言われても 「できるはずがない」と思ったのです。
しかし、挑戦したらできたんです。
できた自分が悔しくて涙が出たのです。
今まで自分で勝手に限界を決め、もっと練習できたはずなのに練習をしてこなかった。だから悔しくて涙がでてくるのです。
と話しています。
「自分は精一杯やっている!」と自分が作り出した自分の限界にとらわれてしまったのです。
しかし、コーチに厳しい指導が「できるはずがない」というとらわれを壊したのだと思います。
私自身、僧侶になってから様々な仕事を依頼されることがあります。
そんな時に思い出す言葉があります。それは、この東光寺に入寺する際にある和尚様にかけていただいた言葉です。
「依頼された仕事はできるだけ断ることなく受けなさい。そしてとりあえずやってみなさい。」
初めて聞いたときは「はい」と素直に聞くことができました。
しかし、実践をしてみるとなかなか大変だぞと気が付きます。
断ればよかったと後悔もします。
しかし、やってみると肉体的にも精神的にも大変なのですが、意外となんとかなるものです。もちろんたくさんの方々にお世話になってもいますが・・・
たくさんの方々にお世話になっていることを体感することも
「仕事を断るな、やってみろ」
との言葉に込められていると思います。
自分自身の可能性を伸ばすこともつぶすことも自分自身であり、つぶす原因が
かたよりであり、こだわり、そしてとらわれなのです。
そして、
かたよらない、こだわらない、とらわれない
を実践するためには
「まずはやってみること」
なのだと思います。
皆様は これから 写経を実践いたします。
ここでの写経こそが「まずはやってみること」の実践なのです。
「まずはやってみる」 一見難しく感じるかもしれませんが、難しそうという「とらわれ」が写経が終わる頃には無くなっているのではないでしょうか。
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今回は第39回目です。

中道【ちゅうどう】
中道は仏教・禅の言葉です。 中道は
対立する二つの立場のどれからも離れた自由な立場のことを示す言葉です。
「中」は二つのものの中間ではなく、二つのものから離れ、対立を超えることを意味しています。
般若心経というお経の一節に
遠離一切顚倒夢想 【おんり いっさい てんどう むそう】
とあり、
一切の誤った見解からはなれることを説いています。
この一節に触れたときに 中道 という言葉を思い出しました。
そして、対立する二つの立場のどれからも離れた自由な立場や、一切の誤った見解からはなれることを
かたよらない こだわらない とらわれない
と高田好胤師は表現されています。
「かたよらない、こだわらない、とらわれない」と説かれるということは、私達はついつい
かたより、こだわい、とらわれてしまうのです。
先日、リオオリンピックでメダルを獲得したシンクロの選手たちの練習風景が放送されていました。
厳しく指導するコーチと、涙を流しながら練習する選手の映像です。
このとき選手の1人が話していた言葉が印象に残っています。彼女は
辛くて涙を流しているのではありません。コーチに
(筋トレの最中に)「お前ならもっとできる!」
と言われましたが、自分は限界までがんばっているつもりでした。
だから 「できる!」 と言われても 「できるはずがない」と思ったのです。
しかし、挑戦したらできたんです。
できた自分が悔しくて涙が出たのです。
今まで自分で勝手に限界を決め、もっと練習できたはずなのに練習をしてこなかった。だから悔しくて涙がでてくるのです。
と話しています。
「自分は精一杯やっている!」と自分が作り出した自分の限界にとらわれてしまったのです。
しかし、コーチに厳しい指導が「できるはずがない」というとらわれを壊したのだと思います。
私自身、僧侶になってから様々な仕事を依頼されることがあります。
そんな時に思い出す言葉があります。それは、この東光寺に入寺する際にある和尚様にかけていただいた言葉です。
「依頼された仕事はできるだけ断ることなく受けなさい。そしてとりあえずやってみなさい。」
初めて聞いたときは「はい」と素直に聞くことができました。
しかし、実践をしてみるとなかなか大変だぞと気が付きます。
断ればよかったと後悔もします。
しかし、やってみると肉体的にも精神的にも大変なのですが、意外となんとかなるものです。もちろんたくさんの方々にお世話になってもいますが・・・
たくさんの方々にお世話になっていることを体感することも
「仕事を断るな、やってみろ」
との言葉に込められていると思います。
自分自身の可能性を伸ばすこともつぶすことも自分自身であり、つぶす原因が
かたよりであり、こだわり、そしてとらわれなのです。
そして、
かたよらない、こだわらない、とらわれない
を実践するためには
「まずはやってみること」
なのだと思います。
皆様は これから 写経を実践いたします。
ここでの写経こそが「まずはやってみること」の実践なのです。
「まずはやってみる」 一見難しく感じるかもしれませんが、難しそうという「とらわれ」が写経が終わる頃には無くなっているのではないでしょうか。
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