仏様の心と 「金」

学生時代に町を歩いているときに
10K
と書かれた看板を見て
「 いち おーけー 」
とは何だ??
何がOKなのだろうか??
と頭を悩ませたことがありました。
まだインターネットが発達中の時代でしたので、すぐに調べることが出来ませんでしたので「 いち おーけー 」ではなく、「24金【きん】や18金、といった金の純度を示す10金【きん】」を表していると知るまでに少し時間がかかりました。
なぜ、突然「金の純度」の話しになったのでしょうか。
それは、以前幼い子供にされた質問に関係があります。
私が、
衆生本来仏なり 【しゅじょう ほんらい ほとけなり】
という言葉を
「みんなは、仏様のような尊い心を産まれたときからもっています。」
と言ったときに
「じゃ、なんで仏様をお参りするの?自分の心が仏様なら自分を拝めばいいんじゃないの!?」
と質問されたのです。その時は、
「仏様の姿は、私達の仏様の心を形にしたものなんだよ。だから仏様の姿を見てお参りをすれば、自分の心の中にも仏様の心があることを思い出すことができるよね」
と答えました。しかし、
「自分の心が仏様なら自分を拝めばいいんじゃないの!?」
という言葉は私の頭にしばらくは残っていました。
しかし、「 いち おーけー 」を思い出したとき「なぜ仏様を拝むのか」という疑問の答えが少し見えた気がしました。
24金(純度100%)の金が100g有ったとします。
また、18金(純度75%)の金が100g有ったとします。
18金100gの中には純粋な金は75g入っています。
同じ「100g」なのに金の重さを比較すると
100gと75gと25gの違いが発生してしまいます・・・
この違いが拝む対象となる仏様と、私達の心の違いなのだと思います。
もちろん、拝む対象となる仏様が24金
私達の心が純度100%ではない18金(例)なのだと思います。
確かに仏様の心が誰にでもあります。
しかし、私達の心が純度100%の仏様の心かと聞かれれば、「はい」とは即答することができません。
日常の生活を送る中で、煩悩などによって心の純度が下がってしまいます。
時には18金になったり、10Kになったり・・・
そしてまたある時には金とは呼べない程までに純度が下がってしまったりもします。
だからこそ、純度が100%の仏様を拝むのです。そうすることによって自分の心の中にも仏様の心があることを思い出すことができるのです。
さらに金の性質には
純金は硬度が柔らかいため熱に弱く、型崩れしたり傷がついたりしやすい
というものがあります。
そのため、他の金属と混ざりやすいという特性があるので、混ぜ合わせて合金にすることで、適度な硬さを出し、熱に強くなるなど、その欠点を補うことができるのです。
一般的な社会生活を送るためには様々な知恵が必要です。
まるで、純金に他の金属を混ぜて使い勝手が良い物にするような・・・
しかし、ほんとうに価値のあるもと言えば混ざり物の入っていない「純金」なのです。
でも、ついついい「使い勝手の良い状態で満足してしまう・・・」
そうならないように純度100%の自分自身の仏様の心を形にした仏さに手を合わせるのだと思います。
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