仏様はどこにいるのでしょうか?
白隠禅師坐禅和讃というお経の冒頭部分に
衆生本来仏なり 【しゅじょう ほんらい ほとけなり】
という言葉があります。
「誰もが、仏様のような尊い心を産まれたときからもっています。」
と受け取ることができる言葉です。
乱暴かもしれませんが、短い言葉で説明すると
「私達は仏様と共に生きている」
とも言えます。
では、仏様(の心)と共に生きるとはどのようなことなのでしょう?
少し自分なりに考えてみました。

例えば、ここに元気に毎日を過ごす人がいます。

仏様はどこにいらっしゃるのでしょう?

体の中にいらっしゃるのでしょうか?

それとも、隣りにいてくれるのでしょうか?

後ろで見守ってくれているのでしょうか?

前で私達を守ってくれているのでしょうか?

それとも、実は仏様の手の上で私達は生活をして、仏様に見守られているのでしょうか?
様々な考え方が出てくると思います・・・
仏様はどのような姿なのだろうか?
どうしたら確認をすることが出来るのだろうか?
考えれば考えるほどに悩んでしまいます。
白隠禅師坐禅和讃には
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
という言葉もあり、
自分自身が「仏」であることを 知らずに あちらこちらに 探しまわるのはむなしいことです
という意味があります。
姿、形、大きさ、重さ、場所、時間・・・
そんなことにこだわってはいけないのです。
自分自身が「仏」なのです。

この姿も仏様

この姿も仏様
そのことに気が付くことの大切さを、臨済宗妙心寺派の生活信条では
1日1度は静かに坐って、身体と呼吸と心を調えましょう
と、説いているのです・・・
上記の内容を東光寺(静岡市清水区横砂)の子供坐禅会に毎日のように参加してくれている子供達に何とか伝えたいとヒシヒシと感じています。
※子供坐禅会についてはこちらをご覧ください。
衆生本来仏なり 【しゅじょう ほんらい ほとけなり】
という言葉があります。
「誰もが、仏様のような尊い心を産まれたときからもっています。」
と受け取ることができる言葉です。
乱暴かもしれませんが、短い言葉で説明すると
「私達は仏様と共に生きている」
とも言えます。
では、仏様(の心)と共に生きるとはどのようなことなのでしょう?
少し自分なりに考えてみました。

例えば、ここに元気に毎日を過ごす人がいます。

仏様はどこにいらっしゃるのでしょう?

体の中にいらっしゃるのでしょうか?

それとも、隣りにいてくれるのでしょうか?

後ろで見守ってくれているのでしょうか?

前で私達を守ってくれているのでしょうか?

それとも、実は仏様の手の上で私達は生活をして、仏様に見守られているのでしょうか?
様々な考え方が出てくると思います・・・
仏様はどのような姿なのだろうか?
どうしたら確認をすることが出来るのだろうか?
考えれば考えるほどに悩んでしまいます。
白隠禅師坐禅和讃には
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
という言葉もあり、
自分自身が「仏」であることを 知らずに あちらこちらに 探しまわるのはむなしいことです
という意味があります。
姿、形、大きさ、重さ、場所、時間・・・
そんなことにこだわってはいけないのです。
自分自身が「仏」なのです。

この姿も仏様

この姿も仏様
そのことに気が付くことの大切さを、臨済宗妙心寺派の生活信条では
1日1度は静かに坐って、身体と呼吸と心を調えましょう
と、説いているのです・・・
上記の内容を東光寺(静岡市清水区横砂)の子供坐禅会に毎日のように参加してくれている子供達に何とか伝えたいとヒシヒシと感じています。
※子供坐禅会についてはこちらをご覧ください。
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