人の為に祈って何になるの?
仏教では分別【ふんべつ】を嫌います。
しかし、一般的な世界では分別【ぶんべつ】は便利なものとしてよく使われます。
ゴミの分別も環境を守るために大切な行為です。
男性か女性
理系か文系
兄か弟
自分か他人
甘党か辛党
温厚か怒りっぽい
好きか嫌い
などなど、分別の例をあげればきりがありません。
分別や区別、場合分けをすることは大変便利で有効的な行為ですので、私達は日常生活で分別をやめることは簡単ではありません。
そんな便利な分別を、仏教では
主観的に物事を見てしまうため、ありのままに受け取ることができなくなる
と説いています。

先日、七夕の短冊には「二人(織り姫と彦星)が、無事に会えますように」と書くことが七夕の始まりとされていると紹介をさせていただきました。
この話を読むと
「なんで、他人の幸せを願うんだ? 自分の幸せが大事だろ!」
と、考えてしまいそうです。
若かりし頃の私なら必ず考えます。
しかし、ここに落とし穴があるのです。
自分と他人の区別・分別があるからこそ感じる疑問なのです。
そんなことを言っても若かりし頃の自分なら
「何、非科学的なことを言っているんだ!理想的なことばかり言っても、全然現実的じゃないじゃん!」
と考えてしまいます。
しかし、非科学的ではないのです。
脳科学者 中野信子氏の 著書 脳科学からみた「祈り」には

人間の脳は誰かに認められたり褒められるという「報酬」を受け取ることで快感を生み出す脳の回路が動き出すそうです。
しかし、一心に他人や周囲の人の幸福を祈ることで誰かに認められたり褒められたりしなくてもより大きな快感を得ることができる
という研究を紹介しています。
つまり、「二人(織り姫と彦星)が、無事に会えますように」という他者の幸福を一心に祈る行為は、自分の幸せに直結していると科学的に証明され始めたのです。
「なんで、他人の幸せを願うんだ? 自分の幸せが大事だろ!」
「何、非科学的なことを言っているんだ!」
という発想に対して
「一心に他人や周囲の人の幸福を祈ることの大切さが科学で証明された」と伝えるとともに、
「ようやく科学が宗教に追いついてきた!」
とお知らせしたいと考えています!
しかし、一般的な世界では分別【ぶんべつ】は便利なものとしてよく使われます。
ゴミの分別も環境を守るために大切な行為です。
男性か女性
理系か文系
兄か弟
自分か他人
甘党か辛党
温厚か怒りっぽい
好きか嫌い
などなど、分別の例をあげればきりがありません。
分別や区別、場合分けをすることは大変便利で有効的な行為ですので、私達は日常生活で分別をやめることは簡単ではありません。
そんな便利な分別を、仏教では
主観的に物事を見てしまうため、ありのままに受け取ることができなくなる
と説いています。

先日、七夕の短冊には「二人(織り姫と彦星)が、無事に会えますように」と書くことが七夕の始まりとされていると紹介をさせていただきました。
この話を読むと
「なんで、他人の幸せを願うんだ? 自分の幸せが大事だろ!」
と、考えてしまいそうです。
若かりし頃の私なら必ず考えます。
しかし、ここに落とし穴があるのです。
自分と他人の区別・分別があるからこそ感じる疑問なのです。
そんなことを言っても若かりし頃の自分なら
「何、非科学的なことを言っているんだ!理想的なことばかり言っても、全然現実的じゃないじゃん!」
と考えてしまいます。
しかし、非科学的ではないのです。
脳科学者 中野信子氏の 著書 脳科学からみた「祈り」には

人間の脳は誰かに認められたり褒められるという「報酬」を受け取ることで快感を生み出す脳の回路が動き出すそうです。
しかし、一心に他人や周囲の人の幸福を祈ることで誰かに認められたり褒められたりしなくてもより大きな快感を得ることができる
という研究を紹介しています。
つまり、「二人(織り姫と彦星)が、無事に会えますように」という他者の幸福を一心に祈る行為は、自分の幸せに直結していると科学的に証明され始めたのです。
「なんで、他人の幸せを願うんだ? 自分の幸せが大事だろ!」
「何、非科学的なことを言っているんだ!」
という発想に対して
「一心に他人や周囲の人の幸福を祈ることの大切さが科学で証明された」と伝えるとともに、
「ようやく科学が宗教に追いついてきた!」
とお知らせしたいと考えています!
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