絵葉書法話 和敬清寂【わけいせいじゃく】
和敬清寂【わけいせいじゃく】という言葉があります。
仏教の言葉でありますが、お茶席の軸としても用いられることが多くありますのでご覧になったことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

和敬清寂という言葉はご覧の通り4つの漢字から成り立っています。この一つ一つの漢字に意味があり、
「和」 和合・和える
「敬」 敬う
「清」 清らか
「寂」 煩悩の火が静まった状態 ・ 心の寂けさ
を表しています。
「和」・「和合」を実感したとき、相手を敬わずにはいられない。互いに敬う心は静かで清らかである。
と絵葉書に言葉を添えさせていただいたように、心を清らかに互いが敬うことの大切さを表す言葉となっています。
私は、この和敬清寂という言葉を見ると思い出すことがあります。
それは、修行をさせていただいているときに警策で打たれて涙を流したときのことです。
警策【けいさく】というのは、坐禅をするときに指導する和尚様が持って歩く、あの棒のことです。
私は、あの警策で打たれたとき涙があふれ出たのです。
痛くて泣いたのではありません・・・・
誤解のないようにお伝えしますが、警策で打たれて痛くないはずはありません!
もちろん痛いです!!
しかし、痛かったから涙が出たのではありません。
私は、小さい頃からお寺で生活をさせていただいていました。村にあるお寺は1件だけです。そのためか、私が小学校の帰宅中に何か悪いことをしたとしても、私が帰宅する前に、悪事の報告がお寺に入っているくらい情報が筒抜けでした。
当時小学生だった私にはこの環境は辛いものでした。
友達と一緒に悪いことをしても私だけが報告が来る。理不尽さを感じ、お寺で生活をしていることも嫌になりましたし、地域の方にいつも見られている・監視されているとまで感じてしまっていました。
そんな私も大人になり、御縁に恵まれて修行をさせていただくことになりました。
そして、坐禅をしているときに警策で打たれたのです。理由は分かりませんが、警策を受けたときに「しっかりやれよ」と暖かい言葉をかけてもらっているように感じたのです。そして、その瞬間に涙があふれ出たのです。
しかし、この瞬間にはなぜ涙が出ているのか理解できませんでした。 そこで私は必死に考えました。
そして、その時に思い出し、気が付いたのが幼少期の出来事でした。
「悪いことをすればお寺に連絡が来る」
という出来事でした。
私はこのことを「監視されている」と感じていました。
しかし、坐禅中に警策を打つ僧侶は相手が憎くて打っているのではありません。励まし打っているのです。普段はなかなか感じとることができない、相手が自分を思って厳しく接してくれていることを体感した時、
「地域の方に監視されていたのではない、見守っていただいていた!」
と感じることができたのです。私の体は、そのことを感じとり、頭で考えるよりも先に涙があふれ出ていたのです。
和敬清寂という言葉を目にすると、私はこの時の感動を思い出します。
私達は自分が考える以上に多くの方々に見守られ、思っていただいています。声に出して「見守っているよ」と言われることはほとんどありませんが、見守られているのです。
ただ、その事実に気が付くことは想像以上に難しいのです。しかし、心を調えることができたとき、
「和」・「和合」を実感し、相手を敬わずにはいられない。互いに敬う心は静かで清らかである。
という言葉を実感することができるのではないでしょうか。
心を調える方法は様々です。坐禅・写経・読経・先祖供養。良い行い(善行)を重ねることが自分自身を調えていくのです。
そして、実践の場はどこか遠くにあるわけではありません。私達のすぐ近くにあるのです。
私は和敬清寂の言葉を見た時に「自分の涙」を思い出しながら、そのことを忘れずに生活をしていこうと、改めて心に誓うようにしています。
仏教の言葉でありますが、お茶席の軸としても用いられることが多くありますのでご覧になったことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

和敬清寂という言葉はご覧の通り4つの漢字から成り立っています。この一つ一つの漢字に意味があり、
「和」 和合・和える
「敬」 敬う
「清」 清らか
「寂」 煩悩の火が静まった状態 ・ 心の寂けさ
を表しています。
「和」・「和合」を実感したとき、相手を敬わずにはいられない。互いに敬う心は静かで清らかである。
と絵葉書に言葉を添えさせていただいたように、心を清らかに互いが敬うことの大切さを表す言葉となっています。
私は、この和敬清寂という言葉を見ると思い出すことがあります。
それは、修行をさせていただいているときに警策で打たれて涙を流したときのことです。
警策【けいさく】というのは、坐禅をするときに指導する和尚様が持って歩く、あの棒のことです。
私は、あの警策で打たれたとき涙があふれ出たのです。
痛くて泣いたのではありません・・・・
誤解のないようにお伝えしますが、警策で打たれて痛くないはずはありません!
もちろん痛いです!!
しかし、痛かったから涙が出たのではありません。
私は、小さい頃からお寺で生活をさせていただいていました。村にあるお寺は1件だけです。そのためか、私が小学校の帰宅中に何か悪いことをしたとしても、私が帰宅する前に、悪事の報告がお寺に入っているくらい情報が筒抜けでした。
当時小学生だった私にはこの環境は辛いものでした。
友達と一緒に悪いことをしても私だけが報告が来る。理不尽さを感じ、お寺で生活をしていることも嫌になりましたし、地域の方にいつも見られている・監視されているとまで感じてしまっていました。
そんな私も大人になり、御縁に恵まれて修行をさせていただくことになりました。
そして、坐禅をしているときに警策で打たれたのです。理由は分かりませんが、警策を受けたときに「しっかりやれよ」と暖かい言葉をかけてもらっているように感じたのです。そして、その瞬間に涙があふれ出たのです。
しかし、この瞬間にはなぜ涙が出ているのか理解できませんでした。 そこで私は必死に考えました。
そして、その時に思い出し、気が付いたのが幼少期の出来事でした。
「悪いことをすればお寺に連絡が来る」
という出来事でした。
私はこのことを「監視されている」と感じていました。
しかし、坐禅中に警策を打つ僧侶は相手が憎くて打っているのではありません。励まし打っているのです。普段はなかなか感じとることができない、相手が自分を思って厳しく接してくれていることを体感した時、
「地域の方に監視されていたのではない、見守っていただいていた!」
と感じることができたのです。私の体は、そのことを感じとり、頭で考えるよりも先に涙があふれ出ていたのです。
和敬清寂という言葉を目にすると、私はこの時の感動を思い出します。
私達は自分が考える以上に多くの方々に見守られ、思っていただいています。声に出して「見守っているよ」と言われることはほとんどありませんが、見守られているのです。
ただ、その事実に気が付くことは想像以上に難しいのです。しかし、心を調えることができたとき、
「和」・「和合」を実感し、相手を敬わずにはいられない。互いに敬う心は静かで清らかである。
という言葉を実感することができるのではないでしょうか。
心を調える方法は様々です。坐禅・写経・読経・先祖供養。良い行い(善行)を重ねることが自分自身を調えていくのです。
そして、実践の場はどこか遠くにあるわけではありません。私達のすぐ近くにあるのです。
私は和敬清寂の言葉を見た時に「自分の涙」を思い出しながら、そのことを忘れずに生活をしていこうと、改めて心に誓うようにしています。
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