なぜ涅槃図に枯れた木が描かれているのか!?
最近、涅槃図【ねはんず:お釈迦様が亡くなられる際の様子を描いた絵】について詳しく書かれた本を手に入れて読んでいます。

↑↑↑ 涅槃図
私は現在、家族で朝食を食べる際に本を音読するようにしています。
修行をさせていただいたときに時折、老師(修行僧を指導する和尚様)が食事の際に、勉強不足の私達の為に仏教についての本を音読して下さったことがありました。
修行中は食事をする際、一言も話しをしてはいけませんし、わずかな物音も立てずに食事をします。
そんな、静かな食事中に老師がゆっくりと読んでくださった本の内容は非常によく覚えています。
我が家には小学生と保育園に通う子供がいます。
食事の際は「姿勢良く、静かに食事をすること」とついつい言ってしまいますが、娘達に何も話してはいけない食事の時間が退屈過ぎてしまうと困るので、私も本を読んでみることにしました。
せっかくなら娘が自分では選ばない本を読もうと考え、始めのうちは私が好きな理系の本などを読み聞かせていました。
理系の本が1冊終わったので自分のための勉強の意味も込めて、「涅槃図」について書かれた分かりやすい本を見つけたので読んでいます。
この本の冒頭部分で紹介されているのが 沙羅双樹【さらそうじゅ】の木です。

涅槃図を見ていただきますと中心よりも上部に8本の木が描かれています。
このうち4本は葉を繁らせ、4本は枯れてしまっています。
解説によれば、
・枯れてしまった木は亡くなるお釈迦様の肉体を、
・そして元気いっぱいの木はお釈迦様が残された教えが長きに渡って多くの人に伝わっていくことを表しているそうです。
とても涅槃図の中でも有名な部分なのでご存知の方も多くいらっしゃるかと思います。
しかし、私は変な疑問を感じてしまったのです・・・・
なぜ、朽ちて無くなっていくものを皆様が御参りをする掛け軸に描かなくてはいけないのか!??
亡くなるお釈迦様自身の姿が描かれているのだから、わざわざ枯れた木を描かなくてもいいのではないか!?
そんなことを考えてしまいました。
ところが、お葬式の際に多くの方が経験される状態を思い出し、このときの「心」を表しているのだと、勝手に解釈し納得をしています・・・
あくまでも私個人の勝手な解釈です・・・
身内に不幸があった場合、多くの御家庭で亡くなった方を1人にはさせないいよう誰かが近くに寄り添い、お線香も絶やさないようにされるのでないでしょうか。
このとき、「習慣だからしょうがない、ここにいるか・・・」とか「めんどくさいな~」と感じることはないでしょう。
「亡き人のそばにいたい」そんな気持ちが、誰かが近くに寄り添い、お線香も絶やさないようにという場を作り出しています。
「亡くなったら、遺体は物だから どんどん火葬して捨ててしまえばいい!」
と言う人がいるという衝撃的な内容の出版物やテレビでの報道を目にすることがありませが、今のところ私はそのような人に葬儀の場で出会ったことがありません。
身内をなくされた方は、ほぼ全員が亡くなれた方の御遺体を大切にされます。すでに亡くなり話すことも、動くこと、暖かくもありません。
それでも、生きているときと同様に、または生きているときよりも亡き方を大切にします。
亡くなったからといって、すぐに気持ちが切り替わることはありません。
亡くなったからといって、すぐに相手のことを忘れることもありません。
これまでの尊い関係があったからこそ、亡くなった方の全てを大切にしたい。
もう話すことのない、動くこともない、やがて朽ちてしまう肉体であっても大切にせずにはいられないのです。
そんな、人としての尊い気持ちが、枯れてしまった木すら拝む対象として描いているのではないでしょうか。
そして、、
「枯れた木なんて描かなくてもいいでしょ!? どうせ枯れればゴミなんだから・・・」
そんな気持ちが出てきてしまったときにこそ、4本の枯れ木は私達に備わっている仏様のような尊い心を呼び起こすように、涅槃図の中心近くに立ち続けているのだと感じます。

↑↑↑ 涅槃図
私は現在、家族で朝食を食べる際に本を音読するようにしています。
修行をさせていただいたときに時折、老師(修行僧を指導する和尚様)が食事の際に、勉強不足の私達の為に仏教についての本を音読して下さったことがありました。
修行中は食事をする際、一言も話しをしてはいけませんし、わずかな物音も立てずに食事をします。
そんな、静かな食事中に老師がゆっくりと読んでくださった本の内容は非常によく覚えています。
我が家には小学生と保育園に通う子供がいます。
食事の際は「姿勢良く、静かに食事をすること」とついつい言ってしまいますが、娘達に何も話してはいけない食事の時間が退屈過ぎてしまうと困るので、私も本を読んでみることにしました。
せっかくなら娘が自分では選ばない本を読もうと考え、始めのうちは私が好きな理系の本などを読み聞かせていました。
理系の本が1冊終わったので自分のための勉強の意味も込めて、「涅槃図」について書かれた分かりやすい本を見つけたので読んでいます。
この本の冒頭部分で紹介されているのが 沙羅双樹【さらそうじゅ】の木です。

涅槃図を見ていただきますと中心よりも上部に8本の木が描かれています。
このうち4本は葉を繁らせ、4本は枯れてしまっています。
解説によれば、
・枯れてしまった木は亡くなるお釈迦様の肉体を、
・そして元気いっぱいの木はお釈迦様が残された教えが長きに渡って多くの人に伝わっていくことを表しているそうです。
とても涅槃図の中でも有名な部分なのでご存知の方も多くいらっしゃるかと思います。
しかし、私は変な疑問を感じてしまったのです・・・・
なぜ、朽ちて無くなっていくものを皆様が御参りをする掛け軸に描かなくてはいけないのか!??
亡くなるお釈迦様自身の姿が描かれているのだから、わざわざ枯れた木を描かなくてもいいのではないか!?
そんなことを考えてしまいました。
ところが、お葬式の際に多くの方が経験される状態を思い出し、このときの「心」を表しているのだと、勝手に解釈し納得をしています・・・
あくまでも私個人の勝手な解釈です・・・
身内に不幸があった場合、多くの御家庭で亡くなった方を1人にはさせないいよう誰かが近くに寄り添い、お線香も絶やさないようにされるのでないでしょうか。
このとき、「習慣だからしょうがない、ここにいるか・・・」とか「めんどくさいな~」と感じることはないでしょう。
「亡き人のそばにいたい」そんな気持ちが、誰かが近くに寄り添い、お線香も絶やさないようにという場を作り出しています。
「亡くなったら、遺体は物だから どんどん火葬して捨ててしまえばいい!」
と言う人がいるという衝撃的な内容の出版物やテレビでの報道を目にすることがありませが、今のところ私はそのような人に葬儀の場で出会ったことがありません。
身内をなくされた方は、ほぼ全員が亡くなれた方の御遺体を大切にされます。すでに亡くなり話すことも、動くこと、暖かくもありません。
それでも、生きているときと同様に、または生きているときよりも亡き方を大切にします。
亡くなったからといって、すぐに気持ちが切り替わることはありません。
亡くなったからといって、すぐに相手のことを忘れることもありません。
これまでの尊い関係があったからこそ、亡くなった方の全てを大切にしたい。
もう話すことのない、動くこともない、やがて朽ちてしまう肉体であっても大切にせずにはいられないのです。
そんな、人としての尊い気持ちが、枯れてしまった木すら拝む対象として描いているのではないでしょうか。
そして、、
「枯れた木なんて描かなくてもいいでしょ!? どうせ枯れればゴミなんだから・・・」
そんな気持ちが出てきてしまったときにこそ、4本の枯れ木は私達に備わっている仏様のような尊い心を呼び起こすように、涅槃図の中心近くに立ち続けているのだと感じます。
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