保育園での節分(豆まき・鬼退治)で感じること 【その2】
鬼はなぜ毎年やってくるのか!?

東光寺(静岡市清水区横砂)の境内にある袖師保育園に毎年2月3日に鬼がやってきます!!
※保育園での節分の様子はこちらをご覧ください。
このときに感じたことを紹介していきます。
今回は、その2回目です。
2月3日の節分の日には多くの場所に鬼がやってきます。
保育園にも毎年鬼がやってきます。

そして、毎年豆を投げられ降参します・・・・
「もう悪いことはしません・・」
そんな、約束をして帰っていきます。
しかし、1年後にまたやってきます。
鬼は反省していないのです。
ですから、毎年やってくるのです。
そして、また豆を投げられるのです・・・・
同じ過ちを繰り返しているのです。
つらい思いをしても ついつい繰り返してしまうのです。
しかし、残念ながら「鬼」はどこた遠くにいる特別な生き物ではありません。
私達の心の中にいるのです。
仏教では 「人は知らず知らずのうちに過ちを犯す」 と考えています。 「鬼」 は 「過ちを犯してしまう私達の心」 を実体化したものだと私は感じています。
知らず知らずのうちに過ちを犯してしまうからこそ、仏教では 「懺悔【さんげ】」を大切にします。
懺悔とは 自ら犯した罪を仏様の前に告白して許しを乞う行【ぎょう】 であり、 人間の心が正しく育つために必要とされる行いです。
「罪を犯してしまう心」 を 「鬼」 で表現するならば
「懺悔」 は 「豆まき」 で表現している
毎年繰り返される園児と鬼の戦いを見ながら、気付かないうちに犯してしまう罪に気付き反省することの大切さを 節分という行事は表現しているのだと感じます。
立ち止まって反省することは、日常生活の中にも脈々と受け継がれてきています。
その1つが、朝晩の御参りです。 慌ただしい日常をそっと降ろして落ち着いた心でお仏壇の前で手を合わせる行為そのものが心が正しく育つための行なのです。
そして、東光寺で毎月8日に行わる「布薩会【ふさつえ】」も懺悔の行なのです。
お寺での行事・法要の多くは節分の豆まきと同様に心が正しく育つための大切な行なのだと改めて感じています。

東光寺(静岡市清水区横砂)の境内にある袖師保育園に毎年2月3日に鬼がやってきます!!
※保育園での節分の様子はこちらをご覧ください。
このときに感じたことを紹介していきます。
今回は、その2回目です。
2月3日の節分の日には多くの場所に鬼がやってきます。
保育園にも毎年鬼がやってきます。

そして、毎年豆を投げられ降参します・・・・
「もう悪いことはしません・・」
そんな、約束をして帰っていきます。
しかし、1年後にまたやってきます。
鬼は反省していないのです。
ですから、毎年やってくるのです。
そして、また豆を投げられるのです・・・・
同じ過ちを繰り返しているのです。
つらい思いをしても ついつい繰り返してしまうのです。
しかし、残念ながら「鬼」はどこた遠くにいる特別な生き物ではありません。
私達の心の中にいるのです。
仏教では 「人は知らず知らずのうちに過ちを犯す」 と考えています。 「鬼」 は 「過ちを犯してしまう私達の心」 を実体化したものだと私は感じています。
知らず知らずのうちに過ちを犯してしまうからこそ、仏教では 「懺悔【さんげ】」を大切にします。
懺悔とは 自ら犯した罪を仏様の前に告白して許しを乞う行【ぎょう】 であり、 人間の心が正しく育つために必要とされる行いです。
「罪を犯してしまう心」 を 「鬼」 で表現するならば
「懺悔」 は 「豆まき」 で表現している
毎年繰り返される園児と鬼の戦いを見ながら、気付かないうちに犯してしまう罪に気付き反省することの大切さを 節分という行事は表現しているのだと感じます。
立ち止まって反省することは、日常生活の中にも脈々と受け継がれてきています。
その1つが、朝晩の御参りです。 慌ただしい日常をそっと降ろして落ち着いた心でお仏壇の前で手を合わせる行為そのものが心が正しく育つための行なのです。
そして、東光寺で毎月8日に行わる「布薩会【ふさつえ】」も懺悔の行なのです。
お寺での行事・法要の多くは節分の豆まきと同様に心が正しく育つための大切な行なのだと改めて感じています。
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