遺教経 3-3 不偸盗戒

泥棒は悪いことですよ。
と言われれば納得をします。
しかし、誰もが知らず知らずのうちに泥棒をしてしまっているかもしれません。
泥棒とは、だれかのものを奪うことです。
大切な人ができたとき、私達はその人のことを独り占めしたいという欲にかられます。
その人と一緒にいたい。二人きりになりたい。そんな気持ちを持ってしまいがちです。
しかし、それも泥棒かもしれません。
大切な人の時間を奪ってしまっているかもしれません。
大切な人と一緒にいたいと思っている、他の人の時間や気持ちを奪っているかもしれません。
そう考えれば、誰もが”泥棒”になってしまうかもしれません。
お釈迦様が説かれた最後の教えを「遺教経【ゆいきょうぎょう】」と言います。
この中に
汝等比丘(なんだらびく)、我が滅後に於て、当に波羅提木叉(はらだいもくしゃ)を尊重し、珍敬(ちんぎょう)すべし、闇に明に遇い、貧人の宝を得るが如し。
という一文があります。
修行者たちよ、私が亡き後は、教えを私だと思って大切にしなさい。すると身も心も安らぐであろう。それを譬えるなら、闇夜に光に遇ったように、また貧しい人が宝を得たように有難いものである。
と訳すことができます。
暗闇で出会う光や貧乏をしているときに手に入れた宝物のように素晴らしいと例えられる「教え」を戒(かい)と言います。
戒とは約束事を意味しますが、「習慣」も意味する言葉です。
ですから、お釈迦様は
「私が教えた大切な習慣を忘れてはならない」
と説かれたのです。
この「習慣」の中には
不偸盗戒 【ふちゅうとうかい】
というものもありません。
「盗みません」という教えです。
これは、非常に難しい教えです。
私達は生きている限り、何かを奪い続けています。
食べ物を食べて生命を維持している以上、いのちを奪っています。
ですから、不偸盗戒 【ふちゅうとうかい】を「盗みません」と訳してしまうと、無理が出てきます。
では、不偸盗戒 【ふちゅうとうかい】とは何でしょうか。
私は、知らず知らずのうちに奪っている自分に気がつくことが不偸盗戒 【ふちゅうとうかい】だと考えています。
奪っていることに気がつけば、自然と誰かために尽くしたいという気持ちが湧いてきます。その気持ちを保つことが不偸盗戒 【ふちゅうとうかい】なのです。
ある和尚様は不偸盗戒 【ふちゅうとうかい】を
常に公共のことを考えよ
と、紹介されました。
奪っていることに気がつき、誰かの為に尽くすことを端的に表現されているように感じます。
そして、何かを奪ってしまっていることに気がつきなさいと語りかけてくれる言葉もあります。
それが
吾等(われら)もとより空手にしてこの世に来り、空手にして又帰る
です。
誰もが何も持たずに生まれてきます。
そして、何も持たずに帰っていきます。
ということは、何かを得たと思ったら、それは何かを奪ったことなのだ。
それらを手放していくことで、私達は本来の姿に戻っていくことができると教えてくれているのです。
どこかで、
吾等(われら)もとより空手にしてこの世に来り、空手にして又帰る
という言葉に触れることがあるかもしれません。
そんなときは、
そっと、心の握りこぶしを開いてみてください。
手が空けば 新たな荷物をもつことができます
手が空けば 誰かの荷物を持つことができます
手が空けば 誰かと手をつなぐことができます
握りしめているものは 何だったのか?
本当に必要なものだったのか?
立ち止まって考えて見ることも
不偸盗戒 【ふちゅうとうかい】
の実践であり、
お釈迦様が説いてくださった
暗闇で出会う光のように、私達の心を照らしてくれるはずです。