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オンライン坐禅会 法話原稿 吾が道一以て之れを貫く


600オンライン坐禅会 法話 一般向け 禅語カルタ32 吾道一以貫之




この記事は臨済宗青年僧の会のオンライン坐禅会で法話をさせていただいたときの原稿です。

※臨済宗青年僧の会 オンライン坐禅会についてはこちらをご覧ください。






私はとても尊敬している方がいます。


仮にAさんとします。


Aさんは、とても温和で決して他人の悪口を言いません。いつも笑顔で周囲の人に声をかける方です。


当然のことですが、この方の周囲には人が集まり、笑顔が絶えません。


Aさんは周囲の声に耳を傾けることが多く、会議では自分の意見よりも他人の意見を大切にします。


Aさんはある会に所属しており、その方が「〇〇〇〇ということをみんなでやりましょう」と声をかけると多くの方が協力をします。






私は、どうしても一緒に仕事をすることが苦手な方がいます。


仮にBさんとします。


Bさんは、とても攻撃的な性格で、常に誰かの悪口を言っています。いつも眉間にしわを寄せています。


常に「自分の言っていることが正しい」という根拠のない自信だけを振りかざして自分の意見を押し通そうとします。自分の意見を通すためなら、相手のことを傷つけることなど気にしません。


当然のことですが、Bさんの周囲からはどんどん人が去っていきます。


Bさんも、Aさんと同じ会に所属しています。


Bさんが「〇〇〇〇ということをみんなでやりましょう」と声をかけると、ほとんどの人がその場を離れていきます。


Bさんが入ったlineグループは悲惨です。


それまで、活発な意見交換や楽しく情報共有をしていたlineグループでも、Bさんが加入し攻撃的な発言を繰り返すので、だれもそのlineグループに発言しなくなります。


私自身も、何度も攻撃を受けました。


私はこれまで「人から悪口を言われることに慣れていますし、特に傷つくことはありません」と自己紹介ができるほどの性格だと思っていました。


そんな、私でも彼からの攻撃には心が折れそうになりました。






禅の言葉に


吾道一以貫之

【わがどう いつもってこれをつらぬく】



という言葉があります。


茶席の禅語句集 (朝山一玄著 淡交社)には


論語の「吾が道、一以て之れを貫く」
(私(孔子)は終生一貫して一つの道、すなわち仁道に従って歩んできた)を出典とする語。禅語録でも、禅僧が自らの信じるところに基いて進んできたことを表明する場合に用いられる。


とあります。


なんだか、誰も意見も聞かず、自分が正しいと信じて(勘違い)をして自分の道を歩み続けるBさんを表しているようにも感じます。




しかし、そうではありません。


そのことを端的に表現されているのが仏教詩人の坂村真民氏です。


坂村氏の詩にこのような言葉があります。





生かされて生きるということは

任せきって生きるということであり

任せきって生きるということは

自分を無にして生きるということであり

自分を無にして生きるということは

自分の志す一筋の道にいのちをかけ

更には他のために己れの力を傾け尽くすということである






吾が道、一以て之れを貫く

吾が道とは何でしょうか。吾が道とは、当然生き方です。


臨済宗妙心寺派の生活信条に

生かされている自分に感謝し 報恩の行を積みましょう

とあります。生活信条とは生き方です。

生かされていることに気がつくこと、多くのいのちに支えられていることに気がつくことが大切です。

そのことに気がつくことができるのは、「任せきる」のです。

自分の主張を押し通すのではなく、「自分を無にする」のです。

誰かを傷つけるのではなく「他のために己の力を傾ける」のです。



「吾が道、一以て之れを貫く」は自己中心的な言葉ではありません。

一本の強い芯を持ちながら、他に対して深い思いやりの気持ちを持つこと。柔軟に対応することが大切であると教えてくれる言葉です。

絵葉書 衆生本来仏なり

御縁をいただき、大分県の梅園の里という宿に宿泊をさせていただきました。


県内最大の天体望遠鏡を使った観察や星空散策もできる天球館という施設も併設をしています。


紹介してくださった方が


「今日の宿は梅園の里というところです。」


というので、私は


「梅が有名な場所なのかな」


と単純に思っていました。しかし、話をうかがうと


600梅園の里


三浦梅園の生家の近くにあるから、梅園の里だと教えていただきました。



三浦梅園は江戸時代の思想家で、様々な著書を残しています。


有名な言葉で


「枯れ木に花咲きたりというとも、先ず生木に花さく故をたずぬべし。」

「枯れ木に花咲くに驚くより 、生木に花咲くに驚け」


も三浦梅園の言葉と知って驚きました。



恥ずかしいことに、私は三浦梅園のことを全く知らなかったのですが、調べてみると、今回の記事で紹介したいと思っている言葉と深い関係がある言葉もありました。



今日はこちらの絵葉書を準備しました。


600【絵葉書】衆生本来仏なりUDフォント


輝く宝石の中に”こまめ(東光寺の未確認キャラクター)”がいます。

彼の手には宝石が。

そして

周囲にも宝石があります。


さらに、


「ダメな自分の奥深くにも 光輝くものがある」


という言葉を書きました。




これは、白隠禅師坐禅和讃というお経の最初の言葉である、


衆生本来仏なり     


という一句を紹介したくて作成したものです。



生きとし生けるもの(衆生) 誰にでも 仏様の心があります。



と250年前に大活躍をした白隠禅師という和尚様が語りかけてくれています。





私が初めてこの言葉を知ったのは、大人になってからです。


正確に言いますと、子供の頃からお唱えしていましたので言葉は知っていました。


しかし、意味は知りませんでした。




私が「衆生本来仏なり」と初めて向き合ったのは大人になってからです。


私は中学校の教員をしていましたが、ある日突然、自分が生まれ育ったお寺に戻らなくてはいけないのではないかと悩むようになりました。

しかし、 私は幼少期からの思い出のせいで、お寺という場所は非常に嫌な場所だと当時は思っていました。

今となっては非常にもったいない話ではありますが、お寺という場所から少しでも離れたいと思っていました。

また、なぜ学校の先生になったかと言いますと、それは小学校5、6年生の時の担任の先生の影響が強くあります。

この先生は「遊ぶ宿題」を非常によく出してくれました。

「遊ぶ宿題」というのは毎回違う仲間と遊びなさいという宿題でした。

そして、この宿題は遊ぶだけでは終わりません。

遊んだ後 日記を書くのです。

日記の内容は一緒に遊んだ仲間の良い部分を書くというものでした

一緒に遊んだ仲間の名前を書き、そこにそれぞれの良さを書いていくのです。

最初のうちは戸惑いましたが、だんだん 初めて遊んだ仲間の良いところもすぐに見つけられるようになりこの宿題が楽しくなっていきました。

そして、この日記を提出すると先生が全員の日記を読み、それぞれの良いところを朝の会や帰りの会で紹介してくれたのです。

お寺で生活をしていると叱られることが多くあり、褒められることはほとんどありませんでしたが、小学校5、6年生の時はたくさん褒めてもらえる。さらに友達の良さもすぐ見つけられるようになる。

本当にありがたい経験をしたなと感じると同時に、自分もそのような経験をたくさんの人にしてほしいと思うようになって、お寺を離れて教員を目指すようになりました。




そして運よく教員採用試験に合格し中学校の教員をしていたわけですが、様々なご縁によって

「自分が育ったお寺をお寺に戻らなくてはいけないのかもしれない」

と悩む時期が来ました。

自分は中学校の教員として非常に充実した毎日を過ごしておりましたが、

自分のやりたいことだけをやっていていいのか。

自分を育ててくれたお寺をほっておいていいのか。

育ててくれた地域に戻らなくていいのか。

育ててくれた地域を無視しながら自分のやりたいことだけをやっている人間が教壇に立っていいのか。

本当に悩みました。




そんな時期に御縁をいただいて 老大師と呼ばれる和尚様と話す機会がありました。

老大師というのは禅の修行を積まれた徳の高い和尚様です。

その老大師と1対1で話をさせていただくことになった時、老大師が私に言ったのです。



「あなたは白隠禅師坐禅和讃というお経を知っていますか」



まだ禅の修行を何もしていない私でしたが、たまたま 幼少期からこのお経をお唱えしていたので、


「はい 知っています」


と答えました すると 老大師は


「このお経の一番最初になんて書いてありますか」


と聞くのです。私は今思うと恥ずかしいくらい堂々と


「衆生本来仏なりと書いてあります」


と答えました


すると 老大師は


「それはどういう意味ですか」


と聞くのです。


私は、はっとしました。そこで初めて気がついたのです。


私は、これまで何度もお唱えしてきたお経の意味を何も知らなかったことに。


何も答えられず 戸惑っている私に老大師は優しく語りかけてくれました。


「衆生というのは 生きとし生きるもの みんな ということです。

衆生本来仏なり、 生きとし生きるもの みんな 本当は 仏様なんですよ。 あなたも 仏様 私も 仏様。

禅の修行というのは、このことに気がついていくことなんですよ。」


そうおっしゃったのです


私はこの言葉をきっかけにしてお寺・禅というものを改めて見直すようになりました。



幼少期の私は、“お寺は叱られる場所 嫌な場所”と思い込んでいました。そして反対に、“学校は人の良さを見つける場所 自分の良さに気がつく場所” そう思っていました。


だからこそ お寺ではなく学校という場所で過ごしたい。


教員として生きていきたい。


そう考えていたのです。


しかし、私は小学校 5、6年生の担任の先生に教えていただく前に


「誰もが素晴らしいものを持っている」という教えに出会っていたのです。


衆生本来仏なり


小学校1年生の頃にはもう お唱えしていました。


しかし 意味を 意味が分かっていなかった


だからこそ仏教の大切な教えというものを見逃して自分の勝手な思い込みでお寺を見ていたのです。


本当に恥ずかしい思い出ですが、老大師の言葉によって、自分がどれだけ思い込みを握りしめて生きてきたのかを知ったとき、もっとお寺のことや禅と向き合っていこうと決心がつきました。






三浦梅園の言葉に


知識というものは それが学習者の心に同化し 
かつその人の性格に 表れる時のみ 真の知識となる。



という言葉があります。反論のしようがない納得の言葉です。


これは、「衆生本来仏なり」という大切な教えと向きあう心に通じるものがあります。



三浦梅園の言葉の


「知識」は「教え」
「学習者」は「修行者」
「心に同化」は「信仰」
「人の性格に 表れる」は「実感する」


と読み取れば、


教えを 修行者が 信仰し 実感したとき 真の教えとなる


と読み取れるのです。三浦梅園は学んだことを自分の中に落とし込んだものを知識と呼んでいます。



仏教の教えも同じです。ただ、言葉の解釈として


衆生本来仏なりは、生きとし生きるもの みんな 本当は 仏様


と知っていても意味がありません。


それを、自分の中に落とし込む、心から信じ切るから教えとなるのです。




では、どうしたら良いのか。


それは「坐禅和讃」ですから、坐禅です。


身体と呼吸を調え、心を調える。

自分の心が調えば、自分と周囲の素晴らしさに気がつくことができる。

周囲の素晴らしさに気がついたとき、自分は生かされていると実感できる。

生かされている実感こそが、衆生本来仏なりを自分の中に落とし込んだ姿だと私は思っています。



さぁ、一緒に身体と呼吸と心を調えていきましょう。
2回目の坐禅を始めます。

「オンラインでもできる」から「オンラインだからできる」 その3

「オンラインでもできる」から「オンラインだからできる」 その3


臨済宗青年僧の会の機関紙「不二(ふに)」にオンライン坐禅会についての記事を書かせていただきました。
僧侶が読む機関紙ではありますが、少しでも多くの方に読んでいただきたいと考え、ブログで紹介をさせていただきます。少し長い文章になりますので3回に分けて紹介をさせていただきます。



その1 オンライン坐禅会とは
 
その2 分身ロボット

その3 「でも」から「だから」




「でも」から「だから」


600オンライン坐禅会20210607



オンライン坐禅会を開催し始めた頃、 「オンライン 〝でも”坐禅会が開催できる」と考えていました。

あくまでも、お寺で開催する坐禅会の代用品がオンライン坐禅会だと自分自身が感じていた部分がありました。


しかし、実際に開催を続けていくことで、参加者から

「距離があって坐禅会をやっているお寺に行くことができないけれどオンラインなら参加ができる」

「子供が動いてしまうので、他の人が一緒に坐る坐禅会には参加しずらいけど、オンラインなら安心して参加ができる」

などの声をいただき、さらに坐禅会を担当する僧侶からも

「お寺の用事で県外へ行かなければいけないのだが、宿泊先からでも坐禅会を開催することができた。 」

などの声を聞くと

「オンライン〝だから”開催できる坐禅会」があると感じるようになっていきました。




そして、 「テクノロジーによって、人々の新しい社会参加の形の実現」がすぐそこにまで来ていることを感じた時、身体的な理由によってお寺に来ることができなかった方にも仏教や禅との出会いを作り出すことができると確信しています。


オンライン坐禅会だからこそできることがあるのです。



そのことを忘れずに、今後も活動を続けてまいります。

今後もこれまで通りのオンライン坐禅会は継続しながら、様々な方法を模索し、より多くの方に禅や坐禅の魅力を伝えていきたいと考えています。

そのためには、一緒にオンライン坐禅会の運営に携わっていただける方や直日を担当し坐禅会を開催してくださる和尚様の存在が必要不可欠です。


「青年僧の会」が主催ではありますが直日を担当していただく方の年齢は問いません。御自身でオンライン坐禅会の開催を検討している和尚様がいらっしゃいましたら、予期せぬトラブルへの対応だけでなく、互いに刺激し合い切磋琢磨できる臨済宗青年僧の会のオンライン坐禅会で一緒に坐禅会を開催しませんか。

皆様からの連絡をお待ちしています!

「オンラインでもできる」から「オンラインだからできる」 その2

「オンラインでもできる」から「オンラインだからできる」 その2

臨済宗青年僧の会の機関紙「不二(ふに)」にオンライン坐禅会についての記事を書かせていただきました。
僧侶が読む機関紙ではありますが、少しでも多くの方に読んでいただきたいと考え、ブログで紹介をさせていただきます。少し長い文章になりますので3回に分けて紹介をさせていただきます。



その1 オンライン坐禅会とは
 
その2 分身ロボット

その3 「でも」から「だから」





分身ロボット


600分身ロボットカフェ



日本でコロナウイルスの感染が始まって三年が経とうとしています。多くの行事が中止や縮小に追い込まれ「不要不急」という言葉に心を乱されていましたが、少しずつコロナウイルスへの対応方法を模索することで、多くの行事が開催されるようになってきました。そんなときに聞こえてきたのが

「やっぱり対面が一番だよね。」

という言葉でした。私自身、久しぶりに直接お会いすることができた方と食事をしながら「直接会うのが一番だね。」と言葉を交わしたことがありました。

しかし、何気なく使っているこの言葉が本当に正しかったのか。 「対面(直接会うこと)が一番」という言葉が誰かを傷つけているのではないかと考えさせられることがありました。


そのきっかけは、東京・日本橋にある「分身ロボットカフェ」へ行ってロボットに接客をしてもらったことです。昨今では、ファミリーレストランなどでも配膳をする機械が登場して話題になっているので「ロボットカフェ」と聞くと、全てが機械化されたカフェを想像する方もいるかもしれません。

しかし、日本橋にある 「分身ロボットカフェ」は様々なものが機械化された施設ではありません。 〝分身”という言葉にあるように、人間の分身としてロボットが働くカフェなのです。そして、このロボットを操作するのは、病気など様々な理由で外出することが困難な人達なのです。

実際にカフェを訪ねると車椅子での生活を余儀なくされた方や、寝たきりの生活をされている方などが自宅にいながらロボットを操作し、飲み物や食事を運ぶだけでなく、注文を取ったり商品の説明をするなど一般的なカフェで働く人と同じ役割をされていました。


私がカフェを訪れた際に対応してくれた店員さんは九州地方で暮らす方でしたが、普段は病気のため車椅子生活で、働くことが難しいと思っていたときに、分身ロボットカフェの存在をしり、迷うことなく働くことを希望したと話してくれました。

また、食事中に話しかけてくれた別の店員さんは、生まれたときからの病気の影響で寝たきりの生活を続けている方でした。この方も、自分がまさか働くことができるとは想像もしていなかったのですが、 「外に出て働くことができてとてもやりがいを感じている」と教えてくれました。


もちろん、やりたいと言う気持ちだけで働くことができるわけでありません。わずかに動く指と視線で入力をするパソコンを使用し、自宅で機器を操縦しているそうです。しかし、そう言った苦労を見せずに積極的に客である私に話しかけるその姿は、ロボットの形はしているものの、その中に確かな人間性を感じることができる存在だったのです。


この分身ロボットカフェはホームページに「テクノロジーによって、人々の新しい社会参加の形の実現を目指しています。ぜひ、少し先の未来を体験しに来てください!(ホームページより) 」と書いてあるように、今までにない新しい形で多くの人が社会に出られる環境を作ろうとしていますし、すぐそこに、確かな人間性を感じることができました。



私はこの経験をしたときに、 「直接会うとは何なのか」と問われているように感じました。私自身が何気なく使っていた「人と人は直接会うことが一番だね」ということは、このカフェで働く方が、自分自身の力ではどうすることもできないことだったのです。


様々な機器の発達によって私達が何気なく発した言葉が、想像を超える早さで多くの人に伝わる時代になりました。時には意図しない範囲にまで自分の声が伝わることもあり、それが結果として相手を傷つけることになることがあるのです。


外に出たくても出ることができない方にとって、私が何気なく発した「人と人は直接会うことが一番だね」といった言葉はどのように受け取られたのでしょうか。



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「オンラインでもできる」から「オンラインだからできる」 その1

「オンラインでもできる」から「オンラインだからできる」 その1


臨済宗青年僧の会の機関紙「不二(ふに)」にオンライン坐禅会についての記事を書かせていただきました。
僧侶が読む機関紙ではありますが、少しでも多くの方に読んでいただきたいと考え、ブログで紹介をさせていただきます。少し長い文章になりますので3回に分けて紹介をさせていただきます。



その1 オンライン坐禅会とは
 
その2 分身ロボット

その3 「でも」から「だから」


600オンライン坐禅会担当 202211




その1 オンライン坐禅会とは



臨済宗青年僧の会では「オンライン坐禅会」を令和二年四月二十六日に始めました。


そして一日も休むことなく開催を続け、始めた頃は十人にも満たない参加者数が少しずつ増えていき、最大で百六十人を越えるまでになりました。


これまでに約千九百回開催し、十三万人以上の方が参加をされています。(令和四年十一月現在)


以前も不二で紹介をさせていただいた「オンライン坐禅会」ですが、今回の記事では百回以上坐禅会の直日を務めた四人の僧侶が二年半の活動を振り返ると共に、オンライン坐禅会の開催を通して感じた、これからのインターネットやオンラインと仏教・禅の関わり方について紹介をさせていただきます。


臨済宗青年僧の会が開催しているオンライン坐禅会とは禅僧が直日(修行道場の坐禅堂の取締)として坐禅会を開催し、一般の参加者が集まって坐禅をするものです。


これまでに臨済宗・黄檗宗だけでなく、曹洞宗の僧侶も直日を務めています。考え方としては臨済宗青年僧の会がインターネット上に坐禅をするための会場を設置・運営し、ここに坐禅を指導してくださる僧侶と坐禅をしたい一般の方が集まっていただくというのが臨済宗青年僧の会が主催するオンライン坐禅です。


きっかけはコロナウイルス感染拡大の影響です。臨済宗青年僧の会の総会や定例会を、Zoom アプリを用いて各人が自らの寺にいながらにして催すことになったことと、日本全国に緊急事態宣言が発出した日にマレーシア在住の日本人から臨済宗青年僧の会の事務局員である私のもとに一通のメールが届いたことが始まりです


その方は数年前に私が運営する寺子屋体験・子供坐禅会(一日かけてお寺の体験をする子供向けの行事)にお子様を参加させた方でした。マレーシアも外出禁止令が出ているため家に閉じこもっているときに、以前子供が坐禅会に参加したことを思い出し、生活リズムが崩れがちな子供と一緒に坐禅をしたいと考え、オンラインで坐禅を教えてくれないかとお話をいただきました。


そこで、さっそく Zoom アプリを使った子供坐禅会を開催しました。最終的には依頼者が友人達に声をかけ十二家族が参加してくださり、マレーシア、東京、静岡、アメリカの方々と坐禅を共にすることができました。この体験で、画面を通して空間を共有できる Zoom アプリでの坐禅会は大きく発展していく可能性を感じました。さらに、特別な機材を購入することなく、現在使用しているパソコンやスマートフォンなどの機器で十分に開催可能なのも魅力のひとつでした。




〜開催して感じたこと〜

オンライン坐禅会を始めると協力いただける和尚様が多くいること、そして参加してくださる一般の方が非常に多くいらっしゃることを実感しました。


一般参加者の中には「お寺の坐禅会に参加していたけれど、コロナで中止になったのでオンライン坐禅会に参加した」という方もいらっしゃいますが、 「お寺の坐禅会に参加したことはないけれど、オンラインなら参加できそうなので参加した」という方が非常に多くいらっしゃいました。


このことは、一般の方の中には今まで身近に坐禅会と出会う機会がなかっただけで、坐禅会・禅の教えを求めている方が多いことを示しています。今まで私はそのような期待に応えきれていなかったということを肌で感じ、インターネットを活用した坐禅会だけでなく様々な形での布教の形を模索し始めるきっかけになりました。



今後は、 「オンライン坐禅会」という坐禅や禅の教えに一般の方が触れる機会や場所を提供できる状態を継続すること、そしてこの取り組みを多くの方に知ってもらうことが大切だと考えています。


さらに、オンライン坐禅会には多くの可能性があると感じています。私はオンラインとオフラインの融合に魅力を感じています。 「オンライン」にだけこだわるのではなく、「オフライン」 (従来の坐禅会)をオンラインで結び、お寺での坐禅会に参加できる方はお寺へ、お寺には行けないけれど坐禅会に参加したい方はオンラインで一緒に坐禅ができる会も考えています。



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人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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