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分解と再生と環境

600合掌160126



テスト直前になって机の上や部屋の片づけを始めたことはありませんか。

私はよくやっていました・・・

「テスト勉強をする環境を整えるぞ!!」と自分に言い訳をして勉強から逃げていただけかもしれません・・・

でも、やっぱり環境は大切かもしれません。




先日からこのブログ
・絵葉書 松樹千年翠
※記事はこちらです。
・動的平衡 禅語「松樹千年翠」との共通点
※記事はこちらです。

という二つの記事の中で禅・坐禅の説明と生物学者福岡伸一氏の言葉の共通点について紹介をしてきました。

この中で、生命の説明として


「分解と再生を繰り返すことで環境の変化に適応できる」


という言葉を紹介してきました。



分解と再生を繰り返すことで環境の変化に適応できるということは、


分解と再生をしたときに、環境の変化に適応できる部分だけが残っていく




ということです。



分解と再生を繰り返したときに、AというものとBというものができたとしたら、環境に適応しているどちらかが残っていくということです。


ということは、分解と再生をする環境によって出来上がるものが違ってくるのです。



これが生命の本質なのだと思います。



そして、「環境」を「習慣」という言葉に変換すると、このことを普段の生活に当てはめることができます。



悪い習慣の中で分解と再生を繰り返せば、悪い部分が生き残り、

良い習慣の中では良い部分が残ると言えます。




ここで言う「良い習慣」、「悪い習慣」とはどういうことでしょうか。


それは、何か特別なことではありません。私達はすでに受け取っている習慣です。



その1つが「合掌」です。


合掌の心を


右ほとけ 左凡夫と合わす手の 中ぞゆかしき 南無の一声


と表します。


合掌をしたとき、私達の心は調っていきます。


合掌をして呼吸を調えれば、煩悩の心は少しだけ分解され、生まれ変わり仏の心が残ります。


こういったことから


「分解と再生を繰り返し環境の変化に適応できる」


という言葉に触れたとき、


合掌のような良い習慣「環境」によって 尊い心が目覚めるのは生命の本質だと私は感じます。

動的平衡 禅語「松樹千年翠」との共通点

先日、このブログでインスタ(インスタグラム・Instagram)に掲載した「松樹千年翠(しょうじゅ せんねんの みどり)」という禅語について紹介をしました。
※記事(絵葉書 松樹千年翠)はこちらです。


この中で、松が緑を保つために分解と再生を繰り返していると紹介をしました。この「分解と再生を繰り返す」ということは仏教や禅の中でしか使われない言葉ではありません。

むしろ科学の世界で使われる言葉かもしれません。




600本 動的平衡

生物学者の福岡伸一氏は著書 「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」 (木楽舎)の中で、生命について次のように紹介をしています。



サスティナブルなものは常に動いている。
(※サスティナブル = 持続可能な)

その動きは「流れ」、もしくは環境との大循環の輪の中にある。

サスティナブルは流れながらも環境との間に一定の動的平衡状態を保っている。

一輪車に乗ってバランスを保つときのように、むしろ小刻みに動いているからこそ、平衡を維持できるのだ。

サスティナブルは、動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を作り替えている。それゆえに環境の変化に適応でき、また自分の傷を癒すことができる。

このように考えると、サスティナブルであることとは、何かを物質的・制度的に保存したり、死守したりすることではないのがおのずと知れる。

サスティナブルなものは、一見、不変のように見えて、実は常に動きながら平衡を保ち、かつわずかながら変化し続けている。

その軌跡と運動のあり方を、ずっと後になって「進化」と呼べることに、私たちは気づくのだ。






松が絶えず緑色を保つことから、その変わらない姿の尊さを示す禅語「松樹千年翠」の紹介を読んでいるかのような文章だと感じました。


この文章を読んだとき、科学と宗教には共通する部分があることを改めて実感することができました。


さらに、


サスティナブル(持続可能なもの:生命)は、動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を作り替えている。それゆえに環境の変化に適応でき、また自分の傷を癒すことができる。


という言葉が印象的です。


分解と再生を繰り返すから環境の変化に適応できる。


この文章は坐禅の説明にも通じるように感じます。



坐禅は呼吸を大切にします。

全てを吐き出し、吐きつくしたら新鮮な空気を取り入れる。

この呼吸を繰り返すことで、心が静かになっていきます。

そして坐禅では、この呼吸一息の中に命の再生があると説きます。

吐ききることは死に切ること、吸うことで新しいいのちを実感することなのです。

この状態になったとき、「今、自分がいる場所こそが極楽浄土であった」と知ることができるのです。




改めて


「分解と再生を繰り返すことで環境の変化に適応できる」


という言葉は


「息を吐いて死に切り、息を吸って新しいいのちを実感することで、今ここが素晴らしい場所だと気がつく」


に通じています。



生命を科学的に突き詰めて説明したら、人の心のあり方をつきつめた禅語や坐禅の説明と同じになる。


当然といえば、当然かもしれませんが、とても興味深いことです。

ラジオ マリンパル 禅なはなし 【令和4年1月の原稿】

600マリンパルあらの富士山202201



毎月1回ラジオに出演させていただいています。

エフエムしみず・マリンパルで放送されている「マリンパルほっとライン」というお昼の番組です。
※マリンパルのホームページはこちらです。
※マリンパルほっとラインの紹介はこちらです。


ここでは毎週月曜日に「禅なはなし」と題して”禅”にまつわる放送があります。私も1ヶ月に1回登場をさせていただいています。


私は日常の中で使われている仏教の言葉をテーマに話をさせていただいています。

原稿もなしにしゃべることができる能力がないので、毎回原稿を作成し放送に臨んでいます。

・・・でも、原稿より放送の方が間違いなく面白くなります。

それは、パーソナリティの山下ともちさんが見事にいろいろなことを引き出してくれるからです!!


以下の文章は、パーソナリティの方との掛け合いがない原稿です・・・


ラジオを聞いてくださった方は、違いを楽しんでみてください!


ラジオを聞いていない方は、インターネットでも聞くことができますので、次回以降はラジオでお楽しみください。


※4,000字ほどありますので、時間と心にゆとりのある方だけがご覧ください



マリンパル 禅なはなし 2022年1月 「無所得」



新しい年を迎えていかがお過ごしでしょうか。

今年の年末年始は、いろいろなことがあって、本当にバタバタしていました。

この年末にあったできごとを話し始めたら止まらなくなりそうなので、今回は一つにしぼって紹介をさせていただきます。


お寺での生活は基本的には「例年通り」というものが多くあります。これは、言い方を変えれば同じことの繰り返しです。ですから、この時期になったらこれを準備して、その後はあれをやって・・・

とすれば基本的には無事に行事が終わっていくはずです。


しかし今年は、というよりも去年からコロナの影響で行事がいつもどおりというわけにはいきません。


いつもと本質的には同じなのですが、内容が少し違うということが多く、準備も異なってきてしまいます。


そんな中で、今月は「無所得」という言葉を紹介したいと思う出来事がありましたので、今回は「無所得」という言葉を紹介させていただきます。


よくお唱えするお経に般若心経というお経があるかと思います。

この般若心経の中に

無所得【むしょとく】

という言葉が出てきます。



一般的に無所得と聞くと、収入がない状態と訳すことができます。

しかし、仏教の言葉としての無所得には違う意味があります。


無所得 を仏教語辞典で調べますと

・主観と客観の区別がないこと。

・執着【しゅうじゃく】がないこと。



と記されています。


執着がない と言われても少し難しく感じます。 

しかし、無所得や執着がない状態を表す言葉に


「空手【くうしゅ】にして帰る」

"吾等(われら)もとより空手にして、この世に来り、空手にして又帰る“



と言うものがあります。


 私たちは空手【くうしゅ】という何ものをも所有しない無一物でこの世に生まれてきた。そして、ご縁が尽きれば一切の所持品を遺して以前の世界に返っていくこと。


を表しています。



無所得とは、このように「収入がなくこまっている」という状況ではなく「何もかもを手放して、すっきりとしている」状態であり、このことにより「悩みや苦しみといったものからも解放された」姿なのです。


では、仏教や禅が説く無所得にはどうやったらなれるのでしょうか。



それが今回の大般若という法要の中で感じたことでした。


お寺の行事の一つに大般若という行事があります。これは大般若経という600巻あるお経を転読し、全ての方々幸せになることを祈る儀式です。


私が副住職をしている東光寺でも毎年1月7日に大般若を行っています。


普段ですと20人以上のお和尚様、100人以上の檀信徒の皆様でお祈りをさせて頂いています。しかし今はコロナの影響で“密”になっての行事は行いません。お寺にいるものだけで大般若の祈祷をしました。


その後、祈祷をした御札を皆様にお持ち帰りいただくというやり方でやらせて頂いています。


法要の内容は毎年と変わりません。般若心経を3回繰り返してお唱えした後、大般若というお経の本をパラパラと転読をしていきます。


600大般若20220107 6

転読とは


1.経典(お経の本)を一冊ずつ手に取り上げ、「大般若波羅蜜多経巻第○○ 唐三蔵法師玄奘奉詔訳」と大きな声で読み上げる。

2.そしてお経の本を、お経を唱えながら扇のようにパラパラとして、最後にまた大きな声で、「降伏一切大魔最勝成就(ごうぶくいっさいだいまさいしょうじょうじゅ)」と唱えることです。

唱えると言うよりも心から叫ぶと言った方が良いかもしれません。

降伏一切大魔最勝成就は全ての悪いことがなくなりますようにという願いです。


転読が終わるとまたお経をいくつか読んでいき最後に皆様の幸せを祈る回向をして法要は終わります。


法要自体は30分から1時間ぐらいの法要となっています。


このような法要を密になって行うわけにはいきませんので、先ほど言ったように少人数で行いました。


普段は20人以上の和尚様で行う法要ですが、今回は住職と副住職の二人です。


そして、住職は導師という立場になりますので転読はしません。


と、なると600冊の大般若経を私一人で転読することになるのです。


もちろん、全てをやりきれなくても、決められた時間の中で、精一杯転読をすれば良いのですが、


「せっかくの機会だから600冊を一人で転読してみよう」


と挑戦をすることにしました。


そして迎えた1月7日午前9時に法要が始まりました。例年通りの法要が終わった後、法要中に終わらなかった570冊の転読を始めました。お参りに来てくださる方のことを感じながらひたすらに転読をしていきました。


 妻がお参りに来た方への対応をしながら、”わんこそば”のように経本を次々に準備をしてくれたおかげで、約4時間で転読が終わりました。


終わったとき、「終わった~!」という達成感がありましたが、同時に感じたのは「無所得」の難しさでした。



大きな声で「大般若経~~」や「降伏一切大魔最勝成就(ごうぶくいっさいだいまさいしょうじょうじゅ)」と大きな声でお唱えしている瞬間には、その世界に没頭できているのですが、それ以外の時に、


「寒いな」、「のどが痛いな」「まだ、〇〇冊目か・・・ まだこんなにある・・・」


など、いろいろなことを考えてしまっていた自分に気づかされました。


無所得と無所得でない状態をいったりきたりしていたのです。




そのことを実感したのときに、数年前にお寺で坐禅を体験した保育園児のことを思い出したのです。


坐禅体験に来たその保育園児は坐禅の休憩中にふざけていて障子に穴を開けてしまいました・・・・


 穴を開けた瞬間を私は目撃しましたし、見られたことに気づいた男の子はすぐに


「ごめんなさい。」


と謝りました。私は悩みました。年中組の園児だし、すぐに謝罪したのだから許そうか、それとも叱るのか・・・


 私は彼のこれまでの行動も考え、引率してくださっている担任の先生の了解を得て坐禅体験終了後に彼に罰を与えることにしました。


 坐禅体験が終わり、障子に穴を開けてしまった園児だけを残し

・君が障子に開けてしまったので、和尚さんは障子を修理しなくてはいけません。

・和尚さんが障子を修理するのに10分ほどかかります。

・和尚さんは10分でみんなが坐禅をした座布団が片づけることができます。

 → 君がみんなの座布団を片づけてください。


 と話をしました。障子に穴を開けてしまった男の子はしょんぼりとしながら「うん」とうなずいて作業を始めました。


 作業を始めた男の子は一生懸命座布団を片づけます。5歳の彼には重たいであろう座布団を次々に運びます。そして、あっという間に片付けは終了しました。


片付け終わった彼に


「今日、なんで座布団の片づけをしたかわかるかい?」


 と質問をしました。


「ふざけていて障子に穴を開けてしまったからです。」


 との回答を期待していた私に彼は驚くべき返事をしました。


「楽しいからです!!」


 たしかに彼は作業中もニコニコしていました。どうやら本気の答えのようです・・・ 私は


「そっか、お疲れ様でした!」


と答えるのがやっとでした。



彼は罰として座布団の片づけをするように言われたのですが、一生懸命取り組むことにより
無所得の境地に入ったのでしょう。だからこそ「罰」だったはずの片付けが「楽しいこと」になったのです。
 

そもそも、私が期待した答えが無所得を離れていました。


知恵がついてくると


ふざけていた→障子に穴を開けてしまった→怒られた→罰を与えられた→座布団の片付け


と、いろいろと考えてしまいます。


そして、それが当然のことになってしまいます。


600冊の転読も同じでした。


つい、あれこれ考えてしまうのです。


座布団の片付けを「楽しいから」と言いきった保育園児のように、転読のことだけを考え、転読だけに集中することができていなかったからこそ、他のことを気にしてしまう”良くないゆとり”が生まれてしまったのです。


では、どうしたら座布団の片付けに集中できる保育園児の心境になれるのでしょうか。



まずは、集中できる環境を整えることは大切です。


転読中は目の前に経本があります。


そして、それを手に取って大きな声を出す。この瞬間は集中できています。


他のことは一切考えていません。


しかし、持っていた経本を置いて、別の経本を取るときには、いろいろ考えてしまいます。


これは”良くないゆとり”があるからです。


車を運転し始めたり、自転車に初めて乗れるようになったときには、周囲から話しかけられても「話しかけないで!」と集中できていたのに、慣れてくれば助手席の人と話をしながら運転ができるようになってきます。


でも、これは良いことなのでしょうか。


そうとは言い切れないこともあります。ゆとりがでてきて、油断がうまれ、ついついスマホを触ってしまう。そうすると・・・



同じように、日常の中で集中しきらずにいろいろと考えてしまうと、そこから苦しみが発生してしまうこともあるのです。


さきほど紹介した、園児がこれまでのことを忘れて座布団の片づけを楽しんだのは、車の例えて言うと、初めて車を運転する人が運転に集中している状態かもしれません。


車の運転ができるようになったときに、わざわざ初心者だったころのように運転が下手になる必要はありません。しかし、その頃と同じように運転に集中しようとすることはできます。



そこを子供の姿に学ぶべきだと私は考えています。


そうは言っても、どうしても集中しようとしたときに、余計なことを考えるのは、これまでに様々なことを経験してきた私達にとって当り前のことです。


大切なことは、余計なことを考えたときに集中できていない自分に気がつき、それを掘り下げないことです。


「考えたことを掘り下げる」とは「部屋の片づけをしようとした時に昔の写真が出てきたから、これらの写真を見始めてしまう」ようなものです。これをしてしまうと部屋は片付きません。


部屋の片づけをしようとしたら昔の写真が出てきたとしても、写真は後から楽しもうと、そっと横に置いておき、片づけに集中することが大切です。


禅宗ではこのことを


坐禅をするときには坐禅になりきる

写経をするときには写経と一体となる

お参りをするときには仏様と一つになる


と表現します。


難しいことではありますが、とても大切なことです。


これは、お寺の中のことだけではありません。日常の中で行っていく様々なことに共通する大切なことです。誰かと手をつなぎたいと思えば、持っているものを手放さなければなりません。何かと一つになるとき、余分なものを持っていれば一つになりにくいものです。


そのことを「無所得」とい言葉は教えてくれています。時々「無所得」と言う言葉を耳にすることがあるかと思います。そんな時には、「執着【しゅうじゃく】がないこと」、「何かを手放すことの大切さ」を思い出していただければ嬉しいです。

快晴の空と、仏教聖典が説く”空”

数日前にふと空を見ると雲一つない快晴でした。


6002青空と本堂20211


写真を撮ろうとしても、カメラがピントを合わせるのに苦労するほど何もない空が広がっていました。

このような時には、あえて空以外のものが入るようにします。


6002青空と本堂20212



すると、入ってきたものにピントが合って、その奥にある空の写真が撮りやすくなります。


そんな撮影の仕方をしている私に、仏教聖典の


さとってさとりにとどまらない。さとりのあるのはなお迷いだからである。


という言葉が突き刺さります。



「俺は一生懸命坐禅をして悟った!!」と感じているのは悟りではなく迷いだ


と言うのです。



この言葉が出てくる部分には次のような言葉もあります。


さとりにはきまった形やものがない。

迷いがあるからさとりというのであって、迷いがなくなればさとりもなくなる。迷いを離れてさとりはなく、さとりを離れて迷いはない。
 だから、さとりのあるのはなお、妨げとなる。闇があるから照らすということがあり、闇がなくなれば照らすということもなくなる。照らすことと照らされるものと、ともになくなってしまうのである。

まことに、道を修めるものは、さとってさとりにとどまらない。さとりのあるのは、なお迷いだからである。





私達はどうしても


悟り ←→ 迷い


と二つのものを比較して考えまい、



「悟り」そのものを見ることができず、迷いと比較することで悟りを探そうとしてしまいます。


これは先ほど紹介した「青空を撮影するために、あえて他の被写体を入れるようなもの」です。


便利な方法ではあるのですが、青空そのものを見ること、撮影することができていないのです。



さとりのあるのは、なお迷いだからである。

「悟ったと感じ続けるのは迷いである。悟ったと感じたことすらすてなさい」




という仏教聖典の教えが心に響きます。

ラジオ マリンパル 禅なはなし 【12月の原稿】

本日(12月13日)、ラジオに出演させていただきました。

6002マリンパルからみた富士山
今日は、スタジオの駐車場から見た富士山がとてもきれいでした。


600マリンパル


エフエムしみず・マリンパルで放送されている「マリンパルほっとライン」というお昼の番組です。
※マリンパルのホームページはこちらです。
※マリンパルほっとラインの紹介はこちらです。




ここでは毎週月曜日に「禅なはなし」と題して”禅”にまつわる放送があります。


私も1ヶ月に1回登場をさせていただいています。


私は日常の中で使われている仏教の言葉をテーマに話をさせていただいています。


原稿もなしにしゃべることができる能力がないので、毎回原稿を作成し放送に臨んでいます。





・・・でも、原稿より放送の方が間違いなく面白くなります。

それは、パーソナリティの山下ともちさんが見事にいろいろなことを引き出してくれるからです!!



以下の文章は、パーソナリティの方との掛け合いがない原稿です・・・

ラジオを聞いてくださった方は、違いを楽しんでみてください!

ラジオを聞いていない方は、インターネットでも聞くことができますので、次回以降はラジオでお楽しみください。

※4,000字ほどありますので、時間と心にゆとりのある方だけがご覧ください





 私が今いる東光寺の境内には保育園があり、私はそこの事務職員をしています。先日、この保育園で生活発表会が行われました。生活発表会とは一般的にはお遊戯会とも言われる楽器の演奏、歌や踊りを発表する行事です。私はこのとき記録係を担当しており、写真や動画の撮影をしていました。今年もいつものように撮影をしていたのですが、年長組が、一生懸命歌い楽器を演奏している姿を見たときに自然と涙が流れました。そしてこのときに「無念」という言葉を思い出しました。


 「無念」と聞くと、どのような情景をイメージしますか。
 一般的には残念無念といったように、残念がったり悔しがったりする情景を思い浮かべるかもしれません。また、私など「無念」という言葉を聞くと幼いころに見ていた時代劇で切り殺された人が「無念じゃ~」と言いながら亡くなっていく映像や、それを真似して友達とチャンバラごっこをしていた光景を思い出します。


 私達は普段の生活で、「無念」という言葉を良い意味で使うことはありません。しかし、仏教では「無念」を悪い意味ではなく良い意味・尊い姿を示す言葉として使います。


 ですから、保育園の園児の楽器の演奏や歌を聞いたときに感じたのは、残念無念の「無念」ではなく、良い意味での「無念」です。


 では、仏教・禅では「無念」をどのようにとらえているのでしょうか。「念」という漢字には、想いという意味もありますし、漢字をよく見ると


「今」という漢字と「心」という漢字が合わさっていますので今の心を示す言葉でもあります。


ですから、強引ではありますが「念 = 心」と置き換えることができます。


つまり、無念 = 無心 と言い換えることができます。





「無念」が「無心」になると急に悪い意味ではなくなるように感じませんか。


皆様ご存じの通り「無心」という言葉は「何も感じない・無関心・無気力」ということではありません。「無心」とは損得や、上手下手、好き嫌いといった分別の心を脱ぎ捨てた純真無垢な計らいの無い尊い心を示す言葉です。


私達、臨済宗の僧侶がいつもお唱えしている白隠禅師坐禅和讃というお経にも



無念の念を念として 【むねんのねん を ねんとして】

謡うも舞うも法の声 【うたうも まうも のりのこえ】




という一節があります。



「念」を「心」に置き換えますと

「無心の心」を「心」として

と捉えることができます。


“「無心の心」を「心」として”つまり、こだわりのない、素晴らしい心になったとき、歌ったり踊ったりすることを含めて全ての行動が仏法を表します。全てが仏様の姿なのです。

と、250年前に今の静岡県沼津で活躍された白隠禅師という和尚様は教えてくれています。



では、なぜ私が保育園児の発表を見て「無念」を感じたのかと言いますと、これには少し前置きがあります。


実は、私は僧侶になる前に中学校の教員をしていた時期がありました。初めて教員になったとき担当したのは2年生でした。様々な事件が毎日のように起こる学校でしたので本当に苦労をしました。翌年も3年生になったその学年を担当させてもらいました。3年生になっても本当に毎日のように事件が起こりました。ドラマ金八先生のような事件が毎日のように起こるのです。ドラマは週に1回1時間の放送ですが、こちらは毎日数時間ドラマのような出来事を体験するので肉体的にも精神的にもヘトヘトになっていました。もちろん、ただただ辛いだけではありません。濃厚な時間を過ごしていたので生徒や職員との関係も濃密になっていきました。


 この時、私は3年生の担任だけでなく生徒会も担当をしていました。私が勤務していたこの学校には生徒会が主催する「3年生を送る会」という行事が年度末に行われていました。生徒会が主催するので、私も「3年生を送る会」に携わります。この会では在校生が様々な企画を通して3年生に感謝の気持ちを伝えたり、3年間の写真をスライドにしたりと、3年間を振り返ってもらうものでした。


 その中に有志で在校生が手紙を読んだり、歌のプレゼントをしたりする企画もありました。この企画は在校生にも卒業生にも人気のある企画でした。そのため、この企画に出場したい在校生が多くいたのですが、会の時間も決まっていたので希望者全員は出場することができませんでした。そこで毎年、オーディションが行われていました。

 私も生徒会の担当と言うことで、そのオーディションに立ち会うことになりました。バンドを組んで人前で演奏したいと出てくるグループや、感謝の気持ちを手紙にしたいと出てくる生徒など、様々なものを見せてもらいました。


 このオーディションに参加しているグループの中に合唱部の2年生4人組がいました。この4人組はお世話になった先輩に歌のプレゼントを贈りたいとオーディションに参加していました。実はこの学校の合唱部は顧問の先生の厳しい指導によって徹底的に鍛えられており、全国大会に出場するほどの強豪校です。その中でも実力のある生徒4人がオーディションに参加していたのです。今でもはっきりと覚えているのですが、彼女たちは平原綾香のJupiter(ジュピター)披露してくれました。
 
あまりにも力強く繊細で素晴らしい歌をすぐ近くで歌われてしまい、その歌を通して様々なことがあった3年生と過ごした2年間を思い出し、私は彼女たちの歌が始まった直後から涙が止まらなくなってしまいました。もう一人3年生の担任をしていた先生が現場にいましたが、その先生も涙腺が崩壊してしまい、私とその先生は前を向くことができませんでした。この時は、他の学年の先生も一緒にいて、この先生は冷静に生徒の歌を聞き進行をしてくれたので無事にオーディションが終わりました。



 前置きが長くなってしまって申し訳ないのですが、今回保育園の園児が楽器の演奏をしたり歌を歌っている姿を見て自然と涙が流れたときに、10年以上経過しているこのオーディションのことを思い出したのです。
 
 
合唱部の後輩が先輩たちに贈った歌と園児の歌は技術的には雲泥の差があります。上手い歌を聞きたいと思えば、CDなどいくらでも上手な歌を聞くことができます。楽器の演奏でも教えている先生の方がよっぽど上手ですし、ピアノなど習っていない小学生でも保育園児より上手に演奏をすることができたと思います。しかし、私には園児達が必死に取り組むその姿に「無心」・「無念」に感じたのです。
  
彼らの必死の姿や真剣な目は「誰かを感動させてやろう」とか、「かっこ良く見せてやろう」と言うものではありませんでした。ただ目の
 
 
前のことに必死に取り組む「無心」・「無念」の姿だったのです。だからこそ、感動をして涙が流れたのです。




私達は普段の生活の中で、目の前の出来事に自分の「想い」を付け足したり、意味合いを求めたりしながら生活をしています。これは全てが悪いことではありません。
 
中学生の素晴らし歌声に自分自身の2年間の苦労を重ね合わせて感動の涙を流した10年以上前の私が悪いことをしているのかと言えばそうではありません。
 
しかし、時として私達が付け加える「想い」が負の感情を生み出すことも珍しくありません。好きな人が微笑んでいればこちらもうれしくなるが、嫌いな人が同じように微笑んでいても「なにあいつ、こっちを見てニヤニヤしている。気分が悪い!」となってしまいます。
 
 
“微笑み”という良いものですら、素直に微笑みと見ることが難しいように、私達は普段から「想い」を通して世界を見てしまうことで悩み苦しんでいます。
 
 そんな私が保育園児の演奏で涙を流したという事実に自分で気がついたときに園児達の「無心」とも言われる「無念」の姿には、ものすごい力があるように感じます。もちろん職員ですので園児達との関りはあります。しかし、担任や担任以外の保育士さん達と比べて、私は関りがあまりありません。つまり彼らの演奏に付け加える「想い」は大きくないはずです。しかし、そんな私の心にも響く力が「無念」にはあるのです。



まさに、先ほど紹介した250年前に沼津の地で活躍をされた臨済宗の僧侶である白隠禅師が説いた


無念の念を念として 【むねんのねん を ねんとして】
謡うも舞うも法の声 【うたうも まうも のりのこえ】


なのです。


無念の心、こだわりのない、素晴らしい心になったとき、歌ったり踊ったりすることを含めて全てが仏様の姿であり、その仏の姿に涙が流れたのです。


今回は「無念」という言葉について話をさせていただいていますが、冒頭に時代劇で殺される役者さんが「無念じゃ~」といって亡くなっていくと話をさせてもらいました。これを一般的にとらえると「残念が~、悔しい~」となります。無理やりですが、これを仏教・禅的にとらえると「無念じゃ~」は「亡くなることで、苦しみの世界から離れて、無心になる。」と言っているように感じることもできます。


しかし、これはもったいないことです。仏教や禅は、決して命を落として無心・無念になれとは説いていません。


「生きているうちに、生まれたときから私達には無心・無念という素晴らしい心を持っていることに気がつきなさい」


と説いています。



そして、そのために様々な実践があるのです。そうです、皆様が思い浮かべてくれた坐禅もその一つです。静かに坐って、姿勢を調え、呼吸を調える。そうすることによって徐々に心が調ってくる。何かがなくなるわけではありません。そこにある心を見つめることが無心・無念を実感することです。もちろん坐禅だけでしか、その心を実感することができないわけではありません。頭を剃って修行に行かなければできないことではありません。
 
 
読経や作務と言った掃除などの修行だけでなく食事や仕事、趣味などの日常の生活の中にも多くの学びがあります。実践しようとすると難しいことではありますが、他のことを一切捨て去って目の前のことに集中することこそが「無念」です。
園児達が懸命に取り組む姿を見て、改めて”亡くなってから「無念」になる”のではなく、生きているうちに「無念」になるべく精進していかなければならないと感じています。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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