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オンライン坐禅会 法話原稿 瞋拳不打笑面【しんけんしょうめんをたせず】

この記事は臨済宗青年僧の会のオンライン坐禅会で法話をさせていただいたときの原稿です。

※臨済宗青年僧の会 オンライン坐禅会についてはこちらをご覧ください。



600瞋拳不打笑面

瞋拳不打笑面 【しんけんしょうめんをたせず】



妻や娘は声を揃えて私の顔は怖いと言います。

そんなことはないだろうと思いながら鏡を見ると・・・

「確かに怖い」

と思ってしまいます。




東光寺の境内には保育園があります。


私もこの保育園で勤務をさせてもらっているので、お寺と保育園の往復をしています。


バタバタと仕事に追われているときの私はどんな顔なのでしょうか。


予想通り、もともと怖く見える顔なのに、さらに眉間にしわを寄せて口をへの字に曲げているので、とても怖い顔になっていることでしょう・・・


そんな私に園児達は無邪気に


「よこやませんせーだ」とか「あ、おしょうさんだ~」と笑顔で手を振ってくれます。


その声や笑顔を見ると、私の口角はあがり、かわいらしい園児達の笑顔を見ようと目を大きく開けるので、しわが寄っていた眉間も広がり、顔がおだやかになります。


それと同時に、私の心もおだやかになります。




禅の言葉に

瞋拳不打笑面
【しんけん しょうめんを たせず】


という言葉があります。



瞋拳【しんけん】とは、怒って握りしめた拳です。

笑面【しょうめん】は、笑顔であり、

不打【たせず】は、“打つことができない”を意味します。


つまり、「怒って拳を振り上げても、笑顔を打つことはできない。」


という意味です。


どんなに仕事が立て込んだり、理不尽なことがあったりしても、小さな子供が純真無垢な笑顔で声をかけながら手を振ってくれれば、その瞬間はこちらも笑顔になるものです。


もちろん禅の言葉ですので、言葉通りの意味以外にも受け取り方があります。



「笑面」を崇高な教え、

「瞋拳」は私のような凡人の振るまいだと考えるどうでしょうか。


崇高な教え、つまり仏教や禅の教えを体得された方に、私のような凡人が拳をあげて挑むように、何か言いがかりをつけようとしても、まったく相手になりません。



しかし、これは笑顔にはかなわないから、最初から拳を握ってはいけないということでもありません。


拳を握って相手と向き合うからこそ、笑顔で接する相手の大きさを実感することができるのです。


これは多くの世界に共通することではないでしょうか。




禅の問答、いわゆる禅問答も同じです。


師匠との禅問答では、師匠からいただいた問題に対する自分なりの精一杯の答えを持っていきます。


その答えが師匠の考えているぴったりと一致することもありますが、大半は間違っており再挑戦しなくてはなりません。


この時、間違った答えを師匠に示したことは決して無駄ではありません。無駄に思えるような積み重ねこそが瞋拳であり、拳を握ったからこそ師匠の笑面を感じることができるのです。

本当の”とらわれのない姿”  花無心招蝶

つつじの花が満開を迎えたとき

「きれいだ」

と感じました。

やがて、数日経つと花は枯れていきます。

「あぁ~、見ごろが過ぎちゃったなぁ」

と思っていました。


600満開を過ぎたつつじ20230601



満開の頃は、花の近くを通るたびに足を止めていたのに、花が枯れ始めたら足を止めることがなくなりました。


ところが・・・・


ある日、枯れ始めた花に蝶々がやってきたことに気がつきました。


満開を過ぎたら足を止めなくなった私とは違い、蝶々は満開か枯れかけているかは関係ないのです。


そこに花があるからやってくるのです。




禅の言葉に

花無心招蝶 蝶無心尋花

〔花は無心にして蝶を招き、蝶は無心にして花を尋ずぬ〕


という言葉があります。


花は無心だけれども蝶を招き寄せ、蝶は無心で花を尋ね飛ぶ。

という意味です。

もちろん、自然を観察しただけの言葉ではありません。

無心を示す言葉です。

とらわれ、はからいなど、心にかかるものが全くない世界を表現しています。



枯れかけた花に蝶がやってくる姿を見て、花に「美しい」とか「ピークを過ぎた」などと勝手な名前をつけてしまっている自分に気がつきました・・・


蝶は無心にして花を尋ね 私は無心になれず花を見る


反省です。

御宸翰と報恩と怨念 その3 【報恩と怨念】

600オンライン坐禅会 法話 一般向け 報恩 恩と怨 20230414


これまで、「御宸翰と報恩と怨念」について記事を書かせていただいています。


その1では「巡教・開教・御宸翰って何?」と題して御宸翰について紹介をしました。
記事はこちらです。

その2では「報恩と怨念」について、怨が恩に変わった瞬間を紹介しました。
記事はこちらです。





最後はその3として「報恩と恩返し」について紹介をさせていただきます。




その1で御宸翰(花園法皇が妙心寺を建立して欲しいと願った手紙)について、


禅の修行をされ、悟りを開かれた花園法皇様が願ったのは


「報恩謝徳」と仏教の教えを盛んにしたいという「仏法興隆」だったのです。



と紹介をしました。


「報恩謝徳」は「恩に報いて感謝をする」とも言い換えることができる言葉です。


では、恩に報いるとは何でしょうか。




私は前回の記事で紹介をさせていただいたように、看護師さんの暖かな手で怨みの心が「恩」の心に変わったことがあります。


「恩」をいただいたのです。


では、この「恩」に対して何をすればよいのでしょうか。


感謝をすれば良いのでしょうか。


もちろん感謝は必要です。


しかし、本当に必要なのは花園法皇様の御宸翰の中にもあった「報恩謝徳」です。


感謝して、恩に報いることが必要になってくるのです。


恩返しではありません。看護師さんに恩を返すのも大切なのですが、感謝をしても返しきれないこともあります。


それよりも、恩を返すだけでなく、「恩」を誰かのために使っていく・活かしていくことが報恩です。


私は看護師さんがそっと背中さすってくれた手で怨(おん)を恩に変えることができました。看護師さんの手という恩を受け取ったのですから、今度は自分の手を誰かのために使っていくことが報恩なのです。


困っている人がいれば、同じように手を添える。


それだけではありません。誰かのためにこの手を使い切っていく。


それが本当に大切なことだと、臨済宗妙心寺派の生活信条は3つの言葉で端的に表します。




生活信条 【臨済宗妙心寺派】

一日一度は静かに坐って、身体と呼吸と心を調えましょう。

人間の尊さにめざめ、自分の生活も他人の生活も大切にしましょう

生かされている自分を感謝し、報恩の行を積みましょう






最後に報恩の行を積みましょうとあります。


この3つの言葉を逆から読んでいくと、今何をしたら良いのかが分かります。



報恩の行を積むために、まず生かされている自分に感謝します。

自分の生活も他人の生活も大切することで、自然と自分が生かされていることを実感することができます。

人間(生きとし生きるもの)の尊さに気がつけば。自然と周囲の生活を大切にしていきます。

身体と呼吸を調える(整える)と自然と心が調います(整います)。

1日1度、静かに坐る習慣があれば身体と呼吸が調います。




1日1度、静かに坐る習慣はありますか。


多くの方がその習慣をすでに身につけています。


お仏壇の前に座って手を合わせる、食事の前に手を合わせる、そんなときに私達は自然と背中を伸ばしています。


背中が伸びれば自然とゆったりとした呼吸になる。


まさに、「一日一度は静かに坐って、身体と呼吸と心を調えましょう。」そのものです。




「いやいや、そんな習慣ないよ!」


という人もいることでしょう。実際に増えていると思います。


だったら習慣にしてみませんか。


この習慣を身につけて、後悔することはありません。


誰かを傷つけることもありません。


30秒でもいいんです。


まずは短い時間から、ゆったりと座ってみませんか。



それが、私達を生かしてくれている全ての生命に報いる第一歩です。

御宸翰と報恩と怨念 その2 【報恩と怨念】

前回の記事では「巡教・開教・御宸翰って何?」と題して、

・巡教 (各地を巡回して教えを説く)
・開教 (教えを聞く場を開く)
・御宸翰 (花園法皇のお手紙)

について紹介をしました。
※記事はこちらです。



今回は花園法皇・御宸翰に書かれた「報恩謝徳」という言葉、特に「報恩」を紹介させていただきます。



「報恩(ほうおん)」とは、恩(おん)に報(むく)いるという意味です。


「恩」とは、私達が受け取っている恵みのことであり、その恵みに報いることを「報恩」と言っています。


では、恩に報いるとは何でしょうか。


「恩」という言葉を聞くと、「恩返し」という言葉を思い出します。


恩返し = 報恩 


なのかと言えば、そうではありません。


私は、報恩という大きな袋の中に恩返しが入っていると考えています。




恩返しも報恩の1つではありますが、それが全てではありません。


私は以前、パソコンで作業をしているときに「恩」という文字を使いたいときに「おん」と入力をして変換したところ「怨」と出てきて、驚いたことがあります。


そして、驚くと同時に


同じ「おん」なのに「怨」と「恩」では、ずいぶん意味が違うけれど、漢字の成り立ちに何か意味があるのか気になりました。


そして、調べてみると漢字の成り立ちと、自分の体験がぴったりと合っていてさらに驚きました。



600オンライン坐禅会 法話 一般向け 報恩 恩と怨 20230411




「恩」という漢字の成り立ちは

因+心です。

因は「口」の中に「大」です。

「大」は象形文字で、手足を広げた人の姿と言われています。

「口」敷物を意味しています。

と言うことは、敷物(布団など)に人が手足を広げて寝ているのです。

手足を伸ばすのですから、安心した姿です。

その安心した姿に「心」をつけたのが「恩」なのです。




では、「怨」はという漢字はどうでしょうか。

「怨」は 夗+心 です。

「夗」は、丸くかがめ、曲げて押し込める様子を表す漢字です。

これに「心」をつけて、怨となります。


心を曲げて押し込められた状態ですので、精神的にとても苦しめられている状態です。

だからこそ、「うらみ」を示す言葉となるのです。






私は、自分の心が「怨」から「恩」に変化したことがあります。


それは、大腸の病気を患ったときのことです。


原因がいまだに特定されていない、難病になったことがあります。


なぜかわからないのですが、自分の免疫機能が暴走をして自分の大腸を攻撃してしますのです。


始めはお医者さんに食あたりと言われるくらいの腹痛から始まりましたが。


その痛みはどんどん激しさを増していきました。


結局最初の腹痛から入院するまでの5か月間は、日に日に増していく腹の痛みと、痛みとほぼ同時に襲ってくる下痢に悩まされ続けました。



最終的には入院することになりました。


入院するくらいですから、症状は悪く、様々な投薬などの治療をしましたが、良くはなりませんでした。


「なんで私がこんな病気になるだ!」


「何にも悪いことをしていないのに!!」


「俺より悪いことをしている奴 いっぱいいるじゃないか!!!」


入院中に考えること、自分や周囲への恨みばかりでした。


入院中、治療は基本的に点滴や投薬でした。


治療自体はつらくありませんでしたが、検査は非常につらかったです。


絶食をしているにも続く下痢。出るのは血液ばかりです。


そのため、腸内の見る検査をしなければなりませんでした。


大量の下剤を飲んで、大腸の中を空っぽにしてからカメラを大腸に入れます。


下剤は微妙に味がついていましたらが、8リットルを2時間で飲み干さなければならず、検査の準備で体調はどんどん悪化していました。


さらに、いよいよ検査と言うときには、体が様々な拒否反応を示し、信じられないほどの寒気と、震えに襲われました。


それでも、「せっかく準備をしたんだから がんばろう」と検査を進めようとする先生に心の中で


「なんでこんなに苦しい思いをしなければいけないんだ!!」


という誰にもぶつけられない恨みの心を持っていると


1人の看護師さんが私の背中にそっと手を置いてくれたのです。


手を置いてくれたことに気がついたとき、私は


「そんなことで楽になるなら、病院なんていらないだろ」


と心の中で思っていました。




しかし、違ったのです。その温かい手のぬくもりを感じているうちに、スーッと心が落ち着いてきたのです。


もちろん、痛いし、気持ち悪いのです。


それでも、心がスーッと軽くなったのは今でもよく覚えています。


私という人間が変わったわけではありません。


病気が治ったわけでもありません。


苦しんで受けた検査の結果が良かったわけでもありません。


まさに、「怨」が「恩」に変わった瞬間でした。




何かをきっかけに、自分の心が変わることで、「怨」が「恩」というように180度変わることがあることを実感した出来事でした。


(その3に続きます)

御宸翰と報恩と怨念 その1 【巡教・開教・御宸翰って何?】

臨済宗には巡教(じゅんきょう)という制度があり、臨済宗妙心寺派では、春と秋に巡教が行われます。


本山の教えを多くの方に伝えようとする行事で、禅の教えを伝える布教師という僧侶が、各寺院で法話をするのが巡教です。



そして、布教師を招いて檀信徒の皆様に法話を聞いていただくことを、開教(かいきょう)と言います。



「お寺の行事や法事、お葬式の後に、法話を聞いたことがあるよ!巡教とか開教と何が違うの?」



と感じる方もいらっしゃると思います。



少しでも、禅の教えや仏教の教えを伝えたいという思いに違いはありません。



ただ、日常の法話のときにはあまり見ないけれど、巡教のときには必ず登場するものがあります。



大きな違いはここにあるかもしれません。



それが、「花園法皇・御宸翰」です。



「はなぞのほうおう・ごしんかん」




600花園法皇御宸翰20230411




と読みます。



御宸翰とは天皇自筆の文書のことです。


花園法皇・御宸翰とは、650年以上前に書かれた、花園法皇様のお手紙です。


花園法皇という呼び方は、


花園天皇が退位された後、花園上皇になられ、その後禅の修行をされたため花園法皇とお呼びしています。




巡教・開教の際には必ず、この御宸翰を奉読させていただいています。


なぜ、手紙を読むのか?


このお手紙は、花園法皇様が妙心寺の最初の住職である関山上人禅室(関山慧玄禅師・かんざんえげんぜんじ)に宛てたものです。


そう言われると、ますます奉読する意味が分からないかもしれません。



しかし、もちろん意味があります。



実は、お手紙の内容が「禅の教えを伝えるためのお寺(妙心寺)を作って欲しい」と切に願うものなのです。



そして、この決して長くないお手紙を奉読したとき、私達は花園法皇様のどのような想いが関山慧玄禅師に伝えたかを感じることができるのです。





花園法皇御宸翰は次のように始まります。



往年(おうねん)先師(せんし)大燈国師(だいとうこくし)の所に在(あ)りて、この一段(いちだん)の事に於(お)いて休歇(きゅうけつ)を得たり。

特に衣鉢(えはつ)を伝持(でんじ)するの後、報恩謝徳(ほうおんしゃとく)の思い、興隆仏法(こうりゅう ぶっぽう)の志(こころざし)、寤寐(ごみ)にも忘ることなし。




現代語訳しますと



昔、私は師匠大燈国師の下で修行し、禅の奥義を究め大安心を得ました。


後継者と認められてからは、ご恩に報いる感謝の気持ちと、仏教を盛んにしたいという願いは、寝ても覚めても忘れたことはありません。



となります。


禅の修行をされ、悟りを開かれた花園法皇様が願ったのは


「報恩謝徳」と仏教の教えを盛んにしたいという「仏法興隆」だったのです。


「報恩謝徳」は「おかげさま」とも言い換えることができる、臨済宗妙心寺派では常に「おかげさま」を大切にしています。


このような今でも大切にしている「おかげさま」の源流とも言える御宸翰を奉読し、仏教の教えが広がる巡教・開教が始まるのです。





御宸翰は少し難しい言葉が続き、現代では使われない言葉も多く出てくるので、なかなか聞いているだけでは意味が分からないこともあると思います。

しかし、どこかで「花園法皇・御宸翰」に出会う機会がありましたら、


ご恩に報いる感謝の気持ちと、仏教を盛んにしたいという願いを感じながら、手を合わせて御拝聴いただければ幸いです。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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