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薩埵峠と「草木国土 悉皆成仏」

静岡県外に住む知人が静岡に遊びに来ることになったとき、どこを案内するか悩みます。

やはり「富士山」は人気です。

静岡には富士山が美しく見える場所が多くありますので紹介したい場所はたくさんあるのですが・・・

曇りや雨だと富士山が見えなくなってしまうので悩むのです・・・



薩埵峠から見た美しい景色




そんな、富士山が美しく見える場所で有名なのが薩埵峠【さったとうげ】です。


静岡市内、と言うよりも同じ清水区内ですし、高校時代は毎日電車で通過した場所ですので私自身も大好きな場所の一つです。


何十年も前のことですが、初めて薩埵峠からの美しい景色を見たときの感動はいまだに覚えています。




なぜ富士山や薩埵峠の話をしているのか、それは「草木国土 悉皆成仏:そうもくこくど しっかいじょうぶつ」という言葉を紹介したいからです。


実は、約250年前に、この薩埵峠からの景色を眺めて「草木国土 悉皆成仏とはとはまさにこのことだ!」と言った方の記録が残っています。

それが、”庵原の平四郎”です。




平四郎は禅の修行をする僧侶ではなく、一般の方でした。

しかし、あるきっかけがあり必死に坐禅をしたそうです。

そして、ある日、坐禅を続けると自分が「悟った」と感じたそうです。

そこで、本当に悟っているのか確認をしたいと、何度も通った薩埵峠を越え、原(現在の沼津)という場所にいる有名な白隠禅師という和尚様に聞きに行こうとしたのです。


その時見たのが、富士山と山々の緑と海が作り出す素晴らしい景色でした。

平四郎は薩埵峠を越えるとき思わず

 草木国土 悉皆成仏【そうもくこくど しっかいじょうぶつ】とはまさにこのことだ!

と言ったと記録に残っています。



この記録を残したのが白隠禅師なのです。

白隠禅師は平四郎と会って問答することで、平四郎の悟りを認めたのです。そして、世の中にはこんなすごい人がいるものだと記録を残したのです。




神戸市にある修行僧のための専門道場である祥福僧堂で長きにわたって修行僧を指導してこられた河野太通老師は著書の中で「草木国土悉皆成仏」について



お釈迦さまはお悟りになって「草木国土悉皆成仏-草も木も、土や石にいたるまでのすべてが仏である」といわれました。つまり、お釈迦さまは草木や石にいたるまでのすべのものに真実をごらんになったということです。



と書かれています。さらに、同じ意味を持つ「山川草木悉皆成仏」について


本当の仏さまというのは、お寺の本堂にお祀りしてあるあの仏像ではありません。あれは本当の仏さんを姿に表わして象徴したものです。本当の仏さんではない。本当の仏さんというのは「山川草木悉皆成仏」です。山も川も、草も木も、すべてのものは、これ仏の姿であったと、こう見てとることのできる、その心を仏というのです。その心でお寺の本堂の仏像を見るならば、それこそその仏像もまことの仏として拝むことができます。要は、仏の眼を自分が持つということ、これが肝心です。

と教えてくれています。




薩埵峠の景色は変わりません。


晴れていれば、そこに富士山があり、海があり、緑がある。


美しい景色です。





平四郎も坐禅に取り組む前から何度も通過をした場所です。


しかし、その時には「山も川も、草も木も、すべてのものは、これ仏の姿であった」とは思っていません。


坐禅に取り組むことで、「山も川も、草も木も、すべてのものは、これ仏の姿であった」と感じるようになったからこそ、


草木国土 悉皆成仏【そうもくこくど しっかいじょうぶつ】とはまさにこのことだ!


と言ったのです。




私は、理不尽なことや嫌なことを言われたりされたりしたときに、つい言ってきたりやってきたりする相手を変えようとしてしまいます。


自分にとって都合の良い意見で相手の言動を変えようとしてしまうのです。


しかし、変えなくてはいけないのは周囲の人間ではなく自分自身の心です。


そのことを、平四郎の言葉や、変わることのない薩埵峠から見た美しい景色が思い出させてくれます。




そして、「全てのもの草木や石にいたるまでのすべのものに真実見る」心になるためには、これからも坐禅を続けていくことの大切さを改めて感じています。

禅語って何? 【断捨離って放下著【ほうげじゃく】ですか? その2】

600オンライン坐禅会 法話 断捨離は禅語ですか?2


先日の記事で

断捨離って放下著【ほうげじゃく】ですか?

という質問に対する答えを書きました。

※記事はこちらです。



その中で、


断捨離と放下著【ほうげじゃく】の違いについて



断捨離は「自分のものを捨てる」ことであり、
放下著【ほうげじゃく】は「自分のもの」という概念を捨てるのです。
「自分のもの」とは「自我」などと表現される煩悩や執着の原因です。

もちろん、断捨離をすることで煩悩や執着の原因となる「自我」を捨てることができるならば、放下著と同じなのですが、「自分の生活が豊かになる・自分のために」と“自分”がついているようなら『断捨離と放下著は違う意味』と答えるしかないと私は思います。





と、紹介しました。

しかし、この部分は補足が必要です。





最初の質問は

断捨離って放下著【ほうげじゃく】ですか?

と言うものです。この質問は言い換えると

断捨離って禅の教えですか?

とも言えます。




では、禅語とは何でしょうか。


禅の教えを端的に表現したものが禅語と言われています。


修行を積まれた僧侶が、禅の教えを、それぞれの言葉で表現をしたのが禅語ですので、必然的に禅語は非常に多くなります。




禅語の辞書のような書物を開けば最初に紹介されるのは

「阿(あ)」

であったり

「一(いち)」

であったりします。


では、日常で使われている「一」が全て禅語なのかと言えば、そうではありません。

「一」を発したらときの状況などによって解釈は異なります。


同様に断捨離も、断捨離によって煩悩や執着の原因となる「自我」を取り去るような表現をすれば禅の教えを端的に示した言葉になるのかもしれません。

断捨離って放下著【ほうげじゃく】ですか?

600オンライン坐禅会 法話 断捨離は禅語ですか?



断捨離って放下著【ほうげじゃく】ですか?


と聞かれたことがあります。


放下著【ほうげじゃく】という禅の言葉を紹介したときに質問をしてもらいましたが、その際には断捨離について調べたことがなかったので上手く答えることができませんでした。


断捨離については今でも詳しくないのですが、調べてみると次のよう説明ができそうです。




断捨離とは



・沖正弘が提唱したヨーガの思想。1976年の著書において「断捨離」という語が使用されている。
・作家のやましたひでこが提唱し、商標登録している、不要な物を減らし、生活に調和をもたらそうとする思想。

断捨離の「断」は
新たに手に入りそうな不要なものを断る

断捨離の「捨」は
家にずっとある不要な物を捨てる。

断捨離の「離」は
物への執着から離れる。

という意味があるそうです。




そのために、自分が必要なものを見極めて、不要なものを手放していくのが断捨離とのことです。




ただし、注意点として


「家族を含めて他人のものを勝手に捨てるのは断捨離ではない」

「同居人に対し協力を期待したり説得しないこと」

「同じ居住空間を共有する者は価値観の折り合いをつけていくことが大事」

「断捨離とは自分と自分の所有物に行うものである。」



とも書いてありました。





では、放下著【ほうげじゃく】はどうでしょうか。





放下著【ほうげじゃく】とは




煩悩妄想だけでなく、仏や悟りまでも捨て去り、すべての執着を捨て去る。


ことを意味しており、1000年以上前の問答に出てくる言葉です。



ある修行者が趙州和尚【じょうしゅう おしょう】に質問をします。


「何もかも捨てて、手ぶらのときはどうしたらいいのですか?」

”何もかも捨てて”とは煩悩や執着から離れたことを意味する言葉です。自分は煩悩や執着から離れたと思った修行者が質問をしたのです。


趙州和尚(七七八年~八九七年)は

「放下著」(捨ててしまえ)

と答えます。

修行者は

「捨ててしまえと言われても手ぶらで何も持っていないから、捨てようもない」

と返答します。


すると趙州和尚は

「そいつを担いでゆけ」
(何も持たぬというその意識をも捨ててしまえ)


何も持っていないと思い込んでいる、その心が煩悩や執着の原因となると厳しく指摘しています。



仏教では「捨てる・手放すこと」を大切にします。



宗門安心章(臨済宗)というお経の中にも次のような一節があります。

倫盗【ちゅうとう】するなかれ。吾等【われら】もとより空手【くうしゅ】にして、この世に来り、空手にして又帰る。一紙半銭【いっし はんせん】たりと雖も【いえども】、元来吾等に所有なし。わずかに可得【かとく】の見【けん】あらば、すなわち盗むと示されぬ。


現在の言葉にすると


私たちはもともと何も持たずにこの世に生まれてきたのです。そして生きるご緑が尽きれば何も持たずにあの世に帰って行くのです。紙一枚、お金半銭も、もともと自分のものではありません。少しでも自分のものとして持ちたいという執着心があれば、ただちにそれは盗みとなります。



という意味です。仏教・禅では


何も持っていない、持っていると思うなら、それは盗みだ。


というのです。


そのことを短く表現したのが放下著【ほうげじゃく】なのです。





では、断捨離は放下著【ほうげじゃく】なのでしょうか?


私は違うと思います。


断捨離は「自分のものを捨てる」ことであり、

放下著は「自分のもの」という概念を捨てるのです。



「自分のもの」とは「自我」などと表現される煩悩や執着の原因です。

もちろん、断捨離をすることで煩悩や執着の原因となる「自我」を捨てることができるならば、放下著と同じなのですが、「自分の生活が豊かになる・自分のために」と“自分”がついているようなら

断捨離と放下著は違う意味

と答えるしかないと私は思います。

私達の心には柔軟性がある 柔軟心【にゅうなんしん】その2

600【坐禅和讃】18 戯論を離れたり



先日のブログで、「お坊さんの仕事は早いもの順」という言葉を紹介しました。
※記事はこちらです。




私にはもう一つ大切にしている言葉があります。

それが

「僧侶として頼まれた仕事は断らない」

ということです。



僧侶の先輩方が自分を律するために常々使っている言葉です。

これも「お坊さんの仕事は早いもの順」と同様に“分別・選り好みをしない”ことの実践です。



ところで、「柔軟【じゅうなん】」という言葉を御存じでしょうか?

柔軟という言葉は日常で非常によく使われる言葉です。

その名の通り”やわらかい”ことを意味する言葉です。

禅では、心がやわらかく、しなやかに生きることを「柔軟な心」と書いて

「柔軟心【じゅうなんしん・にゅうなんしん】」

と言うのです。


お経の中にも

自ら自の柔軟心に帰依して、自なく他なく一切衆生と和敬随順(わけい ずいじゅん)するを帰依僧和合尊(きえそう わごうそん)という

という言葉があります。

自分の中にある柔軟でしなやかな心を大切にすることで、自分や他人という区別がなくなり、全ての生きとし生けるものと、仲良く一体となって生きていくことができる。このことを帰依僧和合尊と言います。



という意味であり、柔らかい心を大切にしていることが分かります。




禅の話をするときに、私達の心を水と氷に例えることが良くあります。
仏さまと同じ素晴らしい心のことを、自由自在に形を変えて、どんな器にも収まる水に例え、
悩み苦しむ心を、固まって動くことができず、入る器を選り好みする氷に例えます。

このように、仏教では柔軟な心を大切にしており、それを柔軟心【にゅうなんしん】と大切にしていますし、この柔らかな心が仏そのものだと説くのです。



先ほど紹介した「仕事を断るな」とこういう言葉は私が僧侶になりたての約10年前に頂いた言葉です。

「分別をしてはいけない、だからこそ、いただいた仕事は多少忙しくてもしっかりと受け取ってやりなさい」

と、教えていただきました。私はこの言葉を10年間信じてきました。もちろん仕事を断らないということはとても大変なことです。忙しい時に限って、あれもこれもと仕事を頼まれます。

しかし、そんなときでも

「私が断らない事によって、自分自身が学ぶことがたくさんある」

そう思って、先輩の言葉を思い出しながら仕事に取り組んできました。

人前で法話をする仕事があれば、断らずに原稿を作成して法話をしてきました。

原稿を作れば、その際に様々なことを勉強し自分自身の成長に繋がるとそういうことを繰り返し感じてきました。




「仕事を断るな」という言葉を教えていただいてから10年以上が経過したころ、その言葉を教えてくれた和尚様と話をする機会がありました。


驚くことに10年以上たって「仕事を断るな」には続きがあることを教えてもらったのです。

「仕事は断っちゃだめだよ、今どんどん忙しくなってきているかもしれないけれども、そういう時にこそ頼まれた仕事は精一杯やりなさい。」

「ただし大変だと思った時には半歩前を行く先輩、一歩先を進んでいる先輩を頼りなさい。」


と、言ったのです。この言葉を聞いた時に本当に衝撃を受けました。


あーそうか、私は仕事を引き受けたなら、その仕事を一生懸命することだけに固執していたように感じたのです。そしてそれは、周りのことが見えず一人で息切れをしているような状態だったように感じました。


しかし、この状態は決して良い状態ではありません。


「一生懸命やる、そして誰かを頼る。」


これが本当に大切なことだったと感じました。

そして、これに必要なのが柔軟な心「柔軟心」なのです。


自分だけが頑張っていく、これには無理があります。

「自分だけで頑張って、自分だけで成果を上げたんだ。」

そうやって思い込んで行くということは自分と他人との間に壁を作ることであり、決して仏教・禅の目指す世界ではありません。


誰かに頼ること、誰かに任せることも非常に大切なことです。ただし自分が受け取った仕事を他人に全て丸投げにしろということでは決してありません。


私達の心は、もともとしなやかに生きることができる柔軟性を持っています。そのことを仏教・禅では「柔軟心」「衆生本来仏なり」など様々な言葉で表現しています。


しかし、そのような素晴らしい心の存在を忘れてしまうことが多くあります。


私は柔軟な心という言葉は知っていました。そして、そのことを仏教がとても大切にしている心境だということも理解していました。


どちらかと言えば、自分もそういった世界を目指して普段から心を柔らかくしようと努力をしたり、「柔らかくすることは大切ですよ」とお伝えしてきました。


しかし、「仕事は断っちゃいけないよ。でも、できない時には前を行く人に助けてもらいなさい」


その一言を聞いた時に、周囲の人を認めて頼る心の柔らかさがなくなっていたことに気がつきました。

自分だけががんばっていると勘違いをして、心が凝り固まった状態だったことを教えてくれる一言でした。



何かをがんばることは決して間違いではありません。しかし、周囲のことが何も見えなく程集中し、周囲を頼る心のゆとりを失うことは自己中心的な考え方である「自我」を発生させる原因となってしまいます。

「柔軟」という言葉は日常の中でよく使う言葉です。「柔軟」という言葉を聞いたり使ったりしたときに、「自分の心の柔軟性」について見つめ直していただければ、硬くなりかけている自分の心に気がつき、早めに対応ができるかもしれません。

私達の心には柔軟性がある 柔軟心【にゅうなんしん】

こまめ 確認します





仕事をするときに大切にしていることはありますか。



私は僧侶になる前に公務員をしていましたが、採用試験を受けたり、実際に働いているときに何度も憲法に記載されている


「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者で はない」


という言葉を聞き、”自分の考え”に固執することなく、少しでも広い視点で対応することを大切にしてきました。




公務員を辞めて僧侶になりましたが、「全体の奉仕者」という概念は大切ですし、仏教の教えとも相通じるものがあるので今でも大切にしています。


そして、僧侶になったときにお世話になった和尚様方に教えてもらった言葉で今でも大切にしているものがあります。



それが、


「お坊さんの仕事は早いもの順」


ということ、そして「僧侶として頼まれた仕事は断らない」ということです。




「お坊さんの仕事は早いもの順」というのは、仕事の責任や大きさ、収入などで仕事を選んではいけなということです。民間企業や一般の社会では利益を優先して考えることが多くあると思います。


しかし、仏教・禅では「分別をしない・選り好みをしない」ということを大切にしています。


分別・選り好みが完全に悪いことと言うわけではありません。時には大切です。



しかし、分別・選り好みをするのは「自分」であり、これを繰り返していくといつの間には「自分」という存在が大きくなってしまいます。


そして「自分と他人」を比較し傲慢さや偏見が発生してしまうことがあるのです。


ですから、禅では「分別をしない・選り好みをしない」を大切にしており、仕事の予定を決めるときにも、例え周囲から見たら”小さい仕事”が先に入っていたら、どんなに”大きな仕事”や、”やりがいのある仕事”が入っていても、先に入っている仕事を断って後から入った仕事を優先すると言うことはありません。


※私達僧侶を日常的に支えてくださっている檀信徒の葬儀や本山の仕事は別になってきます。


人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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