fc2ブログ

御宸翰と報恩と怨念 その3 【報恩と怨念】

600オンライン坐禅会 法話 一般向け 報恩 恩と怨 20230414


これまで、「御宸翰と報恩と怨念」について記事を書かせていただいています。


その1では「巡教・開教・御宸翰って何?」と題して御宸翰について紹介をしました。
記事はこちらです。

その2では「報恩と怨念」について、怨が恩に変わった瞬間を紹介しました。
記事はこちらです。





最後はその3として「報恩と恩返し」について紹介をさせていただきます。




その1で御宸翰(花園法皇が妙心寺を建立して欲しいと願った手紙)について、


禅の修行をされ、悟りを開かれた花園法皇様が願ったのは


「報恩謝徳」と仏教の教えを盛んにしたいという「仏法興隆」だったのです。



と紹介をしました。


「報恩謝徳」は「恩に報いて感謝をする」とも言い換えることができる言葉です。


では、恩に報いるとは何でしょうか。




私は前回の記事で紹介をさせていただいたように、看護師さんの暖かな手で怨みの心が「恩」の心に変わったことがあります。


「恩」をいただいたのです。


では、この「恩」に対して何をすればよいのでしょうか。


感謝をすれば良いのでしょうか。


もちろん感謝は必要です。


しかし、本当に必要なのは花園法皇様の御宸翰の中にもあった「報恩謝徳」です。


感謝して、恩に報いることが必要になってくるのです。


恩返しではありません。看護師さんに恩を返すのも大切なのですが、感謝をしても返しきれないこともあります。


それよりも、恩を返すだけでなく、「恩」を誰かのために使っていく・活かしていくことが報恩です。


私は看護師さんがそっと背中さすってくれた手で怨(おん)を恩に変えることができました。看護師さんの手という恩を受け取ったのですから、今度は自分の手を誰かのために使っていくことが報恩なのです。


困っている人がいれば、同じように手を添える。


それだけではありません。誰かのためにこの手を使い切っていく。


それが本当に大切なことだと、臨済宗妙心寺派の生活信条は3つの言葉で端的に表します。




生活信条 【臨済宗妙心寺派】

一日一度は静かに坐って、身体と呼吸と心を調えましょう。

人間の尊さにめざめ、自分の生活も他人の生活も大切にしましょう

生かされている自分を感謝し、報恩の行を積みましょう






最後に報恩の行を積みましょうとあります。


この3つの言葉を逆から読んでいくと、今何をしたら良いのかが分かります。



報恩の行を積むために、まず生かされている自分に感謝します。

自分の生活も他人の生活も大切することで、自然と自分が生かされていることを実感することができます。

人間(生きとし生きるもの)の尊さに気がつけば。自然と周囲の生活を大切にしていきます。

身体と呼吸を調える(整える)と自然と心が調います(整います)。

1日1度、静かに坐る習慣があれば身体と呼吸が調います。




1日1度、静かに坐る習慣はありますか。


多くの方がその習慣をすでに身につけています。


お仏壇の前に座って手を合わせる、食事の前に手を合わせる、そんなときに私達は自然と背中を伸ばしています。


背中が伸びれば自然とゆったりとした呼吸になる。


まさに、「一日一度は静かに坐って、身体と呼吸と心を調えましょう。」そのものです。




「いやいや、そんな習慣ないよ!」


という人もいることでしょう。実際に増えていると思います。


だったら習慣にしてみませんか。


この習慣を身につけて、後悔することはありません。


誰かを傷つけることもありません。


30秒でもいいんです。


まずは短い時間から、ゆったりと座ってみませんか。



それが、私達を生かしてくれている全ての生命に報いる第一歩です。

御宸翰と報恩と怨念 その2 【報恩と怨念】

前回の記事では「巡教・開教・御宸翰って何?」と題して、

・巡教 (各地を巡回して教えを説く)
・開教 (教えを聞く場を開く)
・御宸翰 (花園法皇のお手紙)

について紹介をしました。
※記事はこちらです。



今回は花園法皇・御宸翰に書かれた「報恩謝徳」という言葉、特に「報恩」を紹介させていただきます。



「報恩(ほうおん)」とは、恩(おん)に報(むく)いるという意味です。


「恩」とは、私達が受け取っている恵みのことであり、その恵みに報いることを「報恩」と言っています。


では、恩に報いるとは何でしょうか。


「恩」という言葉を聞くと、「恩返し」という言葉を思い出します。


恩返し = 報恩 


なのかと言えば、そうではありません。


私は、報恩という大きな袋の中に恩返しが入っていると考えています。




恩返しも報恩の1つではありますが、それが全てではありません。


私は以前、パソコンで作業をしているときに「恩」という文字を使いたいときに「おん」と入力をして変換したところ「怨」と出てきて、驚いたことがあります。


そして、驚くと同時に


同じ「おん」なのに「怨」と「恩」では、ずいぶん意味が違うけれど、漢字の成り立ちに何か意味があるのか気になりました。


そして、調べてみると漢字の成り立ちと、自分の体験がぴったりと合っていてさらに驚きました。



600オンライン坐禅会 法話 一般向け 報恩 恩と怨 20230411




「恩」という漢字の成り立ちは

因+心です。

因は「口」の中に「大」です。

「大」は象形文字で、手足を広げた人の姿と言われています。

「口」敷物を意味しています。

と言うことは、敷物(布団など)に人が手足を広げて寝ているのです。

手足を伸ばすのですから、安心した姿です。

その安心した姿に「心」をつけたのが「恩」なのです。




では、「怨」はという漢字はどうでしょうか。

「怨」は 夗+心 です。

「夗」は、丸くかがめ、曲げて押し込める様子を表す漢字です。

これに「心」をつけて、怨となります。


心を曲げて押し込められた状態ですので、精神的にとても苦しめられている状態です。

だからこそ、「うらみ」を示す言葉となるのです。






私は、自分の心が「怨」から「恩」に変化したことがあります。


それは、大腸の病気を患ったときのことです。


原因がいまだに特定されていない、難病になったことがあります。


なぜかわからないのですが、自分の免疫機能が暴走をして自分の大腸を攻撃してしますのです。


始めはお医者さんに食あたりと言われるくらいの腹痛から始まりましたが。


その痛みはどんどん激しさを増していきました。


結局最初の腹痛から入院するまでの5か月間は、日に日に増していく腹の痛みと、痛みとほぼ同時に襲ってくる下痢に悩まされ続けました。



最終的には入院することになりました。


入院するくらいですから、症状は悪く、様々な投薬などの治療をしましたが、良くはなりませんでした。


「なんで私がこんな病気になるだ!」


「何にも悪いことをしていないのに!!」


「俺より悪いことをしている奴 いっぱいいるじゃないか!!!」


入院中に考えること、自分や周囲への恨みばかりでした。


入院中、治療は基本的に点滴や投薬でした。


治療自体はつらくありませんでしたが、検査は非常につらかったです。


絶食をしているにも続く下痢。出るのは血液ばかりです。


そのため、腸内の見る検査をしなければなりませんでした。


大量の下剤を飲んで、大腸の中を空っぽにしてからカメラを大腸に入れます。


下剤は微妙に味がついていましたらが、8リットルを2時間で飲み干さなければならず、検査の準備で体調はどんどん悪化していました。


さらに、いよいよ検査と言うときには、体が様々な拒否反応を示し、信じられないほどの寒気と、震えに襲われました。


それでも、「せっかく準備をしたんだから がんばろう」と検査を進めようとする先生に心の中で


「なんでこんなに苦しい思いをしなければいけないんだ!!」


という誰にもぶつけられない恨みの心を持っていると


1人の看護師さんが私の背中にそっと手を置いてくれたのです。


手を置いてくれたことに気がついたとき、私は


「そんなことで楽になるなら、病院なんていらないだろ」


と心の中で思っていました。




しかし、違ったのです。その温かい手のぬくもりを感じているうちに、スーッと心が落ち着いてきたのです。


もちろん、痛いし、気持ち悪いのです。


それでも、心がスーッと軽くなったのは今でもよく覚えています。


私という人間が変わったわけではありません。


病気が治ったわけでもありません。


苦しんで受けた検査の結果が良かったわけでもありません。


まさに、「怨」が「恩」に変わった瞬間でした。




何かをきっかけに、自分の心が変わることで、「怨」が「恩」というように180度変わることがあることを実感した出来事でした。


(その3に続きます)

御宸翰と報恩と怨念 その1 【巡教・開教・御宸翰って何?】

臨済宗には巡教(じゅんきょう)という制度があり、臨済宗妙心寺派では、春と秋に巡教が行われます。


本山の教えを多くの方に伝えようとする行事で、禅の教えを伝える布教師という僧侶が、各寺院で法話をするのが巡教です。



そして、布教師を招いて檀信徒の皆様に法話を聞いていただくことを、開教(かいきょう)と言います。



「お寺の行事や法事、お葬式の後に、法話を聞いたことがあるよ!巡教とか開教と何が違うの?」



と感じる方もいらっしゃると思います。



少しでも、禅の教えや仏教の教えを伝えたいという思いに違いはありません。



ただ、日常の法話のときにはあまり見ないけれど、巡教のときには必ず登場するものがあります。



大きな違いはここにあるかもしれません。



それが、「花園法皇・御宸翰」です。



「はなぞのほうおう・ごしんかん」




600花園法皇御宸翰20230411




と読みます。



御宸翰とは天皇自筆の文書のことです。


花園法皇・御宸翰とは、650年以上前に書かれた、花園法皇様のお手紙です。


花園法皇という呼び方は、


花園天皇が退位された後、花園上皇になられ、その後禅の修行をされたため花園法皇とお呼びしています。




巡教・開教の際には必ず、この御宸翰を奉読させていただいています。


なぜ、手紙を読むのか?


このお手紙は、花園法皇様が妙心寺の最初の住職である関山上人禅室(関山慧玄禅師・かんざんえげんぜんじ)に宛てたものです。


そう言われると、ますます奉読する意味が分からないかもしれません。



しかし、もちろん意味があります。



実は、お手紙の内容が「禅の教えを伝えるためのお寺(妙心寺)を作って欲しい」と切に願うものなのです。



そして、この決して長くないお手紙を奉読したとき、私達は花園法皇様のどのような想いが関山慧玄禅師に伝えたかを感じることができるのです。





花園法皇御宸翰は次のように始まります。



往年(おうねん)先師(せんし)大燈国師(だいとうこくし)の所に在(あ)りて、この一段(いちだん)の事に於(お)いて休歇(きゅうけつ)を得たり。

特に衣鉢(えはつ)を伝持(でんじ)するの後、報恩謝徳(ほうおんしゃとく)の思い、興隆仏法(こうりゅう ぶっぽう)の志(こころざし)、寤寐(ごみ)にも忘ることなし。




現代語訳しますと



昔、私は師匠大燈国師の下で修行し、禅の奥義を究め大安心を得ました。


後継者と認められてからは、ご恩に報いる感謝の気持ちと、仏教を盛んにしたいという願いは、寝ても覚めても忘れたことはありません。



となります。


禅の修行をされ、悟りを開かれた花園法皇様が願ったのは


「報恩謝徳」と仏教の教えを盛んにしたいという「仏法興隆」だったのです。


「報恩謝徳」は「おかげさま」とも言い換えることができる、臨済宗妙心寺派では常に「おかげさま」を大切にしています。


このような今でも大切にしている「おかげさま」の源流とも言える御宸翰を奉読し、仏教の教えが広がる巡教・開教が始まるのです。





御宸翰は少し難しい言葉が続き、現代では使われない言葉も多く出てくるので、なかなか聞いているだけでは意味が分からないこともあると思います。

しかし、どこかで「花園法皇・御宸翰」に出会う機会がありましたら、


ご恩に報いる感謝の気持ちと、仏教を盛んにしたいという願いを感じながら、手を合わせて御拝聴いただければ幸いです。

大本山・妙心寺にパンダが!!

東光寺(静岡市清水区横砂)の本山である妙心寺にパンダが出没しているようです。



当然、本物のパンダがいるわけではありません。




以前もこのブログ等で紹介をさせていただいた


絵本・パンダはどこにいる?


が妙心寺の冊子に取り上げられていました。


パンダはどこ





600花園 202304 表紙



今回紹介されたのは、なんと裏表紙!



600花園 202304 裏表紙



しかも、妙心寺の直売所の宣伝に載っているではありませんか。


つまり、本山で販売しているということです。


と、いうことで・・・・


本山・妙心寺にパンダが現われた・・・・






この絵本は鎌倉・円覚寺の横田南嶺老師が作られた絵本です。


そして驚くことに、この絵本の絵を妻が担当させていただきました。





【紹介文より】

みんなが大好きなパンダを一目見たいと、動物園の行列に並んだパンダ。
でも、「パンダなんだから、パンダを見るためにならぶひつようはないですよ」と行列から押し出されてしまいます。がっかりしたパンダは、なんとか自分もパンダになりたいと修行を始めて……。

自分も周囲も心地よい生き方のヒントを、やさしい言葉で伝える一冊です。







演若達多(えんにゃだった)という大変な美男子が、裏返しにした鏡に自分が映っていないことに驚いて、頭がなくなったと思い込み右往左往するが、周囲の人に頭があると教えられ頭を触って安心をする。

という、禅の話が絵本になったものです。




少しでも、多くの方にこの絵本が届くことを祈っています。

手放した手でつかむものは何か。

臨済宗青年僧の会ではオンライン坐禅会を実施しています。私も時々ですが坐禅を担当させていただいています。
※オンライン坐禅会のホームページはこちらです。


その際に話した内容を備忘録として記しておこうと考えています。

この原稿は2023年3月26日のオンライン坐禅会で話した内容です。




手放した手でつかむものは何か。


ここに一枚の絵があります。




600手を広げて手をつなぐ



たくさんの生命が互いに手を取り合っています。


私はこの絵が好きです。


そして、この絵は私達が目指すべき姿だとも感じます。




先日、あるホテルに宿泊をさせていただきました。

私のような未熟な者が宿泊してはいけないような立派なホテルで、大きな入り口から入ったときから緊張の連続でした。

フロントで受付の際に、翌日の朝食の説明をしてくれました。

「朝食は洋食のビュッフェ形式でございます。」

そんな言葉を聞いて、パン好きな私は小躍りしなら部屋に入りました。



その日は1人で宿泊することになっていたので夕食は近くのスーパーでバナナと飲み物を買って済ませました。

だって、朝食は食べ放題。どんなに食べても値段は同じ。

夕食を軽く済ませれば、きっとたくさん食べられるはずだ。

そんな思いが働いていました。




翌朝、開店前に並ぶのは少し恥ずかしいので、朝食会場の始まる時間に部屋を出発。

5分程で朝食会場に到着すると、すでに何人かは食事を始めていました。

会場を見ると、所狭しとおいしそうな食事が並んでいます。

どれも魅力的な食事です。


あれも欲しい、これも欲しいとウロウロしていると、アッと言う間に席は埋まり、会場が混雑してきました。

何度もお代わりをしようと思っていましたが、混雑した会場で何度も席を立つのは面倒なので、お盆に詰められるだけ詰めて席に戻りました。

他の人達は何を選んでいるのか気になったので、席について食事をしながら皆さんが食事を選んでいる場所を眺めていました。




そのとき、印象的な出来事が起こりました。


1人の女性が、お盆にいっぱい詰め込んだ食事を手にしながら、前を歩いている子供に

「ちょっと、どいてよ!」

と強い口調で叫んだのです。

すると、近くにいた男性の大きな手が子供をそっと包むように移動させてくれたのでした。

その後、女性、子供、男性はそれぞれ別の席へと戻っていきました。




そのとき、私はなんだか恥ずかしい気持ちになりました。


自分が食べたいものをいっぱい詰め込んだお盆を、離すまいと握りしめ、その食事を安全に運ぶために、目の前の知らない子供に大きな声を出す女性は、先ほどまであそこにいた私の姿そのものだと感じたのです。


私は小心者なので「ちょっと、どいてよ!」などとは言えませんが、食事を持っているときに子供が前を歩いていたら「どうにかして、この子の前に移動したい」と考えていたはずです。


子供に何の罪もありません。ただ食事を選んでいただけです。


そんな子供を怖がらせたのは、自分のお盆をギュウッと手を握りしめた人でした。


そして、その子供を助けたのは、広げた手でした。


なぜ男性は手を広げることができたのか。彼も食事を選んでいました。しかし、手を広げて子供を助けました。


単純なことでした。


食事をいったん置いたのです。


そして、空いた手で子供を包み込んだ。


子供は安心をして食事選びに戻っていきました。



前日から食事を減らして、朝食に気合を入れていた私の手は、お盆を握りしめていた手なのか、それとも子供を救う手だったのか。


それを考えたら、恥ずかしくなりました。



臨済宗妙心寺派の令和5年のテーマは

「おかげさま 迷いの中に光を見出す ~煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)~」

です。

このテーマについて書かれた妙心寺派管長猊下の言葉を先日の記事で紹介させていただきました。
※その記事はこちらです。


管長猊下は


人間である限り、煩悩を無くすことはできません。断ち切っても尽きることなく湧いてくるのが煩悩であります。

しかしご安心ください。私たちには、生まれながらにして仏心という光が具わっています。この光を頼りに人生を歩めば、煩悩はあっても暗闇に迷うことはありません。




と、おっしゃっています。



煩悩とは私達を悩ます心の働きです。

あれも欲しい、これも欲しいと欲張る心も煩悩です。

食事を欲する心の全てが煩悩というわけではありません。

食事をしなければ、私達は生命を保つことができません。

しかし、必要以上に欲しがる心が湧いてくるのです。そして、この欲張る心が結果的に自分自身を惑わすのです。



ホテルの朝食会場で子供をどかそうとした人の手は握りしめられ、

子供を救った手は、広げられて何も持っていませんでした。



管長猊下が言う通り

「人間である限り、煩悩を無くすことはできません。断ち切っても尽きることなく湧いてくるのが煩悩であります。」

しかし、私たちには、生まれながらにして仏心という光が具わっているのです。

欲張ってしまった手を広げることができるのです。

人間である限り、手を握らずにはいられません。どうしても握ってしまうのです。しかし、私たちはその手をはなすことができるのです。そして、その手で誰かを包むことができるのです。



その瞬間を目の当たりにしたときに、自分があの場面で手を広げることができたかを考えたとき、私は恥ずかしい気持ちになったのです。



冒頭に1枚の絵を紹介しました。


全員が手をつないでいます。


手をつなぐためには、まず手を広げます。


ギューっと握りしめた手を開いたとき、私達は何を握ったら良いのでしょうか。


私は、”誰か”を限定することなく、差別することなく、ただ手をつなぎたい。





大切な答えがこの絵には込められています。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

最新記事
カテゴリ
検索フォーム
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる