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今度は路上で坐禅をします!! 【すこやかなくらし展】

600すこやかなくらし展イラスト2022秋2



令和4年4月、清水駅前銀座で開催された「すこやかなくらし展」において法話をさせていただきました。

ざっくりと言いますと、商店街のイベントに自作の絵葉書を持って「お店」を出しました。

「お店」と言っても、仏教の言葉や禅の言葉を少しでも多くの方に紹介をしたいと思って参加をさせていただきます。

東光寺の写経会の際に作成した絵葉書を持参し、法話をさせていただきました。

これまでに経験したことがない刺激的な体験でした。


※前回の様子を紹介した記事はこちらです。


そしてこの度、ありがたい御縁をいただき、再び「すこやかなくらし展」に出店させていただけることになりました。



今回は


令和4年11月27日(日)の開催です。

※すこやかなくらし展についてはホームページ等をご覧ください。



そこで、せっかく出店をさせてもらうならば、今回はもっと仏教・禅を体験してもらいたいと考えて


「路上坐禅会」


のような形で出店をさせていただくことにしました。


皆さんが行き交う清水駅前商店街にイスを並べて”イス坐禅”を体験していただけるように準備を進めています。



時間は

10時30分 11時30分 13時 14時 の4回開催をします。




毎時間


10分 坐禅についての説明

10分 坐禅

5分〜7分 法話


その後 質疑応答

という流れで行っていきます。

人数は5人〜10人程度(申し込み順)で行います

参加費 500円 絵葉書のお土産付きです。


人数を把握したいので、参加してくださる方はこちらからお申し込みをお願いします。




とにかく楽しそうな企画・お店が出店しますので、お時間のある方は商店街へ出かけてみてはいかがでしょうか?

オンライン坐禅会 法話 【光陰可惜】

東光寺(静岡市清水区横砂)の境内には袖師保育園があります。


私は、この袖師保育園で勤務をしています。


そんな御縁で、この保育園が管理する「こどもの畑」でサツマイモなどを育てています。




先日もサツマイモの収穫に行ってきました。


これまでに畑で、タマネギ、トマト、ヒマワリ、サツマイモ、ジャガイモなど様々な作物を育ててきました。


そこで、はっきりと自覚したのが


「私には、自分が生きていくうえで必要なご飯を作り出すことができない」


と言うことです。


「サツマイモは簡単に栽培ができます」


という人もいますが、土を耕し、苗を作り、植え、草を取り、収穫をする・・・・


私はそのように感じません。


大変です。間違いなく大変です。そのことだけははっきりと言い切ることができます。



600オンライン坐禅会 法話 一般向け 禅語カルタ9 光陰可惜



さて、今日紹介をさせていただく禅語は「光陰可惜(こういんおしむべし)」です。


非常に有名な禅語ですので、知っている方もいると思いますが、


時間が過ぎ去っていくのを惜しまなければならない。一瞬たりとも無駄に過ごしてはならないという意味で、修行者に対する戒めの言葉です。


このような説明を受けると


「そうだよね、時間は大事に使わないとね! 効率的に生きていこう!!!」


と、思うかもしれません。しかし



光陰可惜 は 効率的に生きることを薦める言葉でありません。


禅宗では日常のすべてが修行であると説きます。



食事も修行です。 


食事のときは食事に集中します。効率化を考えるのなら、食事をしながらテレビを見て情報を入手しながら、誰かと喋って情報交換をした方が良いかもしれません。

しかし、それは禅の修行ではないのです。


ただ、食事と向き合うのです。


他のことには、わき目もふらず。食事と真摯に向き合うことが修行なのです。


一般的に見ると効率的ではないかもしれません。しかし、食事と向き合い「今」を大切にすることで、はっきりと自覚できることがあります。


一口一口をしっかりと噛みしめ、その食事がどのように自分の前に来たのかを受け止めたとき、はっきりと感謝の心が湧き上がってきます。そのことを、



食事の前にお唱えするお経である食事五観文は



一つには、 功の多少を計り彼の来処を量る

【ひとつには こうの たしょうを はかり かの らいしょうを はかる】。



この食事がどうしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝をいたします。


と表現するのです。


サツマイモひとつ満足に作れないのに、たくさんの食材を使った食事をすることができていることを自覚することは、自分を卑下することではありません。


できないことがあるからこそ、そんな自分を認めて、周囲に生かされていることに感謝しながらも、今できることを精一杯にしていくことが大切だということを光陰可惜(こういんおしむべし)と言う言葉は教えてくれています。



決して効率的に物事を進めていくことを推奨しているのではなく、今を精一杯生きていくことを説いていることを忘れてはいけません。

固い土の中にあるサツマイモに学ぶこと

600サツマイモの栽培 硬い土と柔らかい土3



前々回と前回の記事で、


サラサラだけど栄養が少ない土にサツマイモの苗を植えると、

サツマイモは栄養がない上辺の土ではなく、その下にある非常に固い土にまで根を伸ばします。

ですから、サツマイモが非常に固い土の部分にできたことを紹介させてもらいました。



前々回の記事「硬い土と柔らかい土」はこちら

前回の記事「サツマイモの花が教えてくれること」はこちらです。





禅の言葉に


随処作主 立処皆真  【随処に主となれば 立処皆真なり】 


というものがあります。臨済宗最初の和尚様である臨済禅師の教えをまとめた臨済録という書物に出てくる言葉です。



辞書などで調べると

 どのような状況に身を置いても全く自己の本性を乱すことなく無礙自在に行動すれば、いかなるところにおいても、そこが真実そのものの場となる。 

といったことが書いてあります。


 本来の自分を生かせば、周囲に振り回されることはない。


と表現することができる言葉です。






禅では

今、自分にできることを精一杯に行うことの尊さ

を様々な形で表現をします。随処作主 立処皆真【随処(ずいしょ)に主(しゅ)となれば 立処皆真(りっしょみなしん)なり】もその一つです。


自分の持てる力を精一杯に出し切る


言葉にすると、誰でも出来そうに感じますが、なかなかできることではありません。


しかし、身近に自分の持てる力を精一杯に出し切ることができているものがあります。



それがサツマイモです。


土の中に栄養分がなければ、迷うことなく下へ下へと根を伸ばすサツマイモの姿が”随処(ずいしょ)に主(しゅ)となる“なのです。

やがて、根は固い土の部分まで届くのですが、そこの土が固いか柔らかいかなど関係なく、根を膨らませてサツマイモへと成長していきます。


石も混ざった固い土ですので、サツマイモも思い通りに成長できません。曲がったり欠けたり、異様に長くなったり・・・様々な形で成長していきます。



出来上がったサツマイモの形が不揃いであっても、サツマイモ自身はそんなことにかまっていません。


その曲がったり欠けたりした姿が「自分の持てる力を精一杯に出し切る姿」そのものです。



今できることを 精一杯



実践は難しい。正しく大切なことなのに、うっかり忘れてしまうこともあります。

それでも、土の中で曲がろうが欠けようが、異様に長くなろうが、精一杯に成長しているサツマイモを見たり感じたりした時には、


随処作主 立処皆真【随処(ずいしょ)に主(しゅ)となれば 立処皆真(りっしょみなしん)なり】


という言葉を思い出していただければ幸いです。

オンライン坐禅会 法話 無位の真人

私は記憶をするという行為が得意ではありません。

うれしいこと、悲しいこと、いろいろなことを忘れてしまいます・・・・




毎月23日に東光寺では写経会を行っています。


その写経会では、自作の絵葉書を配布しています。


絵葉書を作り始めて間もなく8年になります。


この絵葉書もその中の1枚です。





写経会 絵葉書 7 一無位真人



しかし・・・・

この絵葉書を作ったときに、「なぜこの写真を使ったのか」などの記録は残っていません。


そして、私の記憶にも残っていません・・・ 




だからこそ、この絵葉書と向き合っていきたいと思います。


絵葉書には


一無位真人


と書いてあります。「いち むいの しんにん」と読みます。


「一」を省略して

「無位の真人」【むいのしんにん】とも言います。


臨済宗の最初の和尚様である臨済禅師の教えをまとめた臨済録に出てくる言葉であり、臨済録の中でも、とても大切にされている部分です。



赤肉団上に(しゃくにくだんじょう に)

無位の真人有り(むいの しんにん あり)

常に汝等諸人の(つねに なんじら しょにんの)

面門より出入す(めんもんより しゅつにゅうす)



このように記されています。


赤肉団とは赤い血が流れるこの体です。

真人とは仏様のような尊い心とも表現されるものです。


「赤肉団上に無位の真人有り」


つまり、私達の体には無位の真人があると言っているのです。


無位ですから位がない、階級などないのです。社長でもなければ社員でもない。男や女といった区別もない。年寄りだとか子供といったこともなく、経験が豊かだとか初心者だとか、学歴があるとかないとか、裕福な家庭で育ったか貧乏な家庭で育ったかでもなく、金を持っているか持っていない、ありとあらゆく区別を離れた無位の真人が誰の中にもいるのです。



忘れてはいけないのが無位の「無」が何をいみするのかです。



私達は「無」というと「有るか無いか」の「無い」と考えてしまいます。


ですから、無位というと位そのものを否定したくなるのですが、そういった意味だけではありません。


この「無」は「無い」だけではありません。


決まったものや決まった場所が無いのであり、真人という尊い心は「どこにでもある」ことを示しているのです。




そして、さらに「常に汝等諸人の面門より出入す。」と続くのです。


この真人は私達の体から自由に出たり入ったりしているのです。飛び出して虫の中に入ることもあれば山に入ることもあるのです。


そして、再び私達の中にも入ってくると説かれているのです。




つまり、自分だけが仏のような心を持つのではなく、今、目の前にいる人・生き物・自然・物、全てに仏のような心が出入りし、全ては一体なのだと説かれているのです。




では、なぜ過去の私は、この写真に一無位真人という禅語を加えたのでしょうか。


記録も記憶もありませんので、ここからは私の想像です。




写真は清水区内にある水族館で私が撮影したものです。


その美しい水槽を見たときに、水槽の中に海があると私は感じました。


水槽の中には様々な魚だけでなく、サンゴや大小さまざまな石がありました。


そして、それらが全て集まって一つの世界を作り出しています。


水槽の中には海水が入っています。では、魚たちはどこを泳いでいると思っているのでしょうか。


海でしょうか?


水槽でしょうか?


サンゴは自分がどこにいると思っているのでしょうか?


海でしょうか?


水槽でしょうか?


大きな石は?小さな石は?


魚もサンゴも石も、そんなことは気にしていないと思います。


今、ここに存在するから魚は泳ぎ、サンゴは呼吸をして生きている。


石も、海であろうが、小さな水槽の中であろうが、そんなことは関係ありません。ただ、そこにいます。



ただ、そこにある。


水槽の中の魚は、外にいるのが人間で、その人間に「魚」と呼ばれていることなど何も気にしていません。


しかし、そこには美しい世界が確かにあるのです。



この美しい世界は水槽の中のだけではありません。




今、私達が生きていいる世界も、まったく同じです。全てのものが、それぞれに、その瞬間を生きている。それが真人である。


だから世界は美しい。


そのことを臨済禅師は「一無位の真人」と教えてくれている。


そんな、思いでこの写真を使ったと思います。




一無位の真人


肩書など、全ての区別を取り払ったところに、尊い世界・尊い心があることを教えてくれている言葉です。


その、肩書を取り除くことができるのは自分自身しかいないことも忘れてはいけません。

オンライン坐禅会 法話 賓主互換

600紅白のお餅が教えてくれた賓主互換


紅白のお餅があります。

お寺ではあまり見かけないと思うかもしれません。


この紅白のお餅をお供えするのは法事です。

驚くかも知れませんが、本当です。

もちろん全ての法事にお供えするわけではありません。



この紅白のお餅をお供えするのは、50回忌・100回忌・150回忌・・・という風に50年ごとに行う法事の際に紅白のお餅をお供えしています。

一周忌・三回忌・七回忌と法事が続いていきますが、50年目を迎えた時に、この紅白のお餅をお供えします。

私自身この習慣を知った時に少し違和感を覚えました。

亡くなった方のための法要に紅白を使うとはどういうことだろうか。




疑問を感じていましたが、初めて50回忌の法要を務めさせて頂いた時に参加された方が

「50回忌ができて本当にありがたい、幸せです。」

と一言おっしゃられたのです。



この言葉を聞いた時、「法事とはそういうことなんだ!」と感じました。



法事は亡くなった方の安らかなることを願って、今を生きる私達が行うものです。



では、安らかになるのは亡くなった方だけなのでしょうか。

「本当にありがたい、幸せです」という言葉を聞いたときに、そうではなかったのだと感じたのです。


法事は亡くなった方だけのためにあるのではなく、今を生きる私達のためにもあるのです。


私達は亡くなった方に何をしたら安らかになるかを考えます。


しかし、同時に亡くなった方も、私達の心が安らかであることを願っています。


そのことをはっきりと自覚した方の言葉が


「本当にありがたい、幸せです」


だったのです。





禅の言葉に 賓主互換(ひんじゅごかん)というものがあります。


禅語を紹介する本には


ある時は主人が客の立場になり、ある時は客が主人の立場になること。
主人と客が互いに自由自在に入れ替わること。
修行によって高い力量を身につけた禅の修行者同士が問答をして、尋ねる者と答える者とが自由自在にその立場を変えること。





といったことが書いてあります。

客とは誰かの家に招かれた人、主人とは招いた人のことです。

一般的には、はっきりとした立場の違いがあります。

しかし、相手のことを考え、相手に成りきる心があれば、お互いの境がなくなり、自由自在に入れ替わることができると言うのです。

そして、この境地に達すると、「お互いを計らずも 高めあっていく世界」となるのです。



ただ入れ替わるのではなく、互いに理解しつくした上で、高め合っていく世界が賓主互換なのです。


供養していたつもりが 亡くなった人に長きにわたって支えてもらっていた。


そのことに気がつくことが 賓主互換 であり、「50回忌ができて本当にありがたい、幸せです」という心境だったのです。



そのことが、どれだけ尊いのかは言葉では表現しつくすことはできませんが、紅白のお餅が伝えてくれているようにも感じます。


禅の言葉が示す心境は坐禅だけでなく、法事などの習慣も大切にすることで感じることができるのかもしれません。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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