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ファミコンのリセットボタンについて

600ファミコン






中学生の頃に、ある先生が


「ファミコンにリセットボタンはあるが、人生にリセットボタンはない。」


と話してくれました。


とても、説得力がある言葉ではありますが、中学生の私には、つらい言葉でした。


「リセットができない」という言葉は


自分がしてしまったミスは取り返しがつかないということをしめしています。


このことは悲しいことですが納得はできます。


しかし、「リセットできないと」いう言葉には


「生まれ持った理不尽な差を、どんなに努力をしても埋めることができない」


という意味も持っています。


どこに生まれたのか、どこで生活をしているのか。肌の色、髪の性質、誰に育てられたか・・・





変えたくても変えられないものはたくさんあります。


自分の意思とは関係なく、受け入れなくてはいけない現実があるのです。


これを「リセットできない」と断言されると、本当につらくなります・・・・




般若心経という和尚に


得阿耨多羅三藐三菩提 【とく あ のく たら さんみゃくさんぼだい】


という言葉があります。

日本語にすると


この上なく  正しく等しい 悟りがある


という意味になります。


臨済宗の和尚様で布教に尽力をされ続けた松原哲明師は著書の中で「得阿耨多羅三藐三菩提」について以下のように紹介をしています。


正しく等しい悟りなどというと、自分には関係なく、無縁なものだと思っている人もおられよう。


しかし、だれでも仏になれる仏性をもっているのである。そのことに気づくかどうかである。



それを気づかせてくれるのが、『般若心経』なのである。


人が仏性をもっている具体的な姿は、生まれたばかりの赤ん坊である。その無心な姿と心こそが悟った仏さまの心と同じなのである。


誰もが生まれたばかりの赤ん坊を体験しています。


誰もが無心な姿を体験しているのです。


と、言うことは




現状が辛くても、私達は「リセットボタン」を押すことで、誰もが体験した赤ん坊と言う無心な姿に戻ることができるのです。



そう考えると、



「ファミコンにリセットボタンはあるが、人生にリセットボタンはない。」



は言い方を変えることができるように思えます。



私なら

「ファミコンにリセットボタンはあるが、人生にリセットボタンはない。」


と言う言葉は

「ファミコンにリセットボタンはあるが、肉体にリセットボタンはない、しかし心のリセットボタンは、いつでも自分で押すことができる。」

と言い換えます。

補足 【渓声便是広長舌 山色豈非清浄身】:けいせい すなわち これ こうちょうぜつ  さんしょくあに しょうじょうしんに あらざんや

昨日の記事で「渓声便是広長舌 山色豈非清浄身」という禅語を紹介させていただきました。
※妻と私のやり取りを紹介した記事はこちらです。




600インスタ用 絵葉書 渓声便是広長舌 山色豈非清浄身4



今回の記事は前回の補足です。



妻に、「禅語は?読む気がうせるほど長いんだけど…」


と言わしめた

渓声便是広長舌 山色豈非清浄身
【けいせい すなわち これ こうちょうぜつ  さんしょくあに しょうじょうしんに あらざんや】

について補足をさせていただきます。


昨日の記事では


【渓声便是広長舌】
(けいせい すなわち これ こうちょうぜつ)


渓声は谷川の音と山々の色、広長舌は仏様の舌を表しています。
だから、【渓声便是広長舌】は「谷川で聞こえてくる川の音は仏の声である」という意味。


【山色豈非清浄身】
(さんしょくあに しょうじょうしんに あらざんや)
清浄身は汚れのない身体のことで、仏身を表しています。
だから、【山色豈非清浄身】は「山々の姿が、そのまま仏様の姿である」という意味です。



と紹介をさせていただきました。



この禅語にはとても有名な逸話があるのですが、昨日の記事では長くなるため紹介をすることができませんでしたので、ここで紹介をさせていただきます。




登場人物は中国の詩人、蘇東披(そとうば)です。


蘇東披は、役人であり詩人でした。


しかし、あるときに皇帝を批判したと濡れ衣を着せられて左遷されてしまいます。


左遷された蘇東披は仏教を学ぶようになります。


そして、照覚和尚と出会い、「無情説法の話」という問題を出されます。



この「無情説法の話」というのは次のような問答です。






ある修行僧が慧忠国師という師匠に質問をします。


修行僧
「無情、つまり山や川や石ころなどの無生物も法を説いているのでしょうか」

慧忠国師
「途切れることなく、いつもさかんに法を説いているよ」

修行僧
「それならば、どうして私には聞こえないのでしょうか」

慧忠国師
「それは君が勝手に聞かないだけのことで、無情が君に聞こえないようにしているのではないよ」

修行僧
「わかりません。それなら無情の説く法を誰なら聞くことができるのでしょうか」


慧忠国師
「聖人だちなら聞くことができるよ」


修行僧
「それならば和尚さん、あなたは聞いておりますか」


慧忠国師
「いや、私は聞いておらん」


修行僧
「あなたも聞いていないのに、どうして無情が説法しているのがわかるのですか」


慧忠国師
「私か聞いていないのは君にとって幸せだ。私かもし説法を聞く立場にいれば、私も聖人になってしまう。そうなれば木や石ころになって君に説いてやれず、君は私の説法を聞けなくなってしまうよ」


修行僧
「無情でなければ無情の説法が聞けないならば、私たち人間には法を聞く望みがないではないですか」


慧忠国師
「だからこそ、無情の立場に立つ私は人間のために話しているのであって、聖人のために説いているのではないよ」


修行僧
「それならば、人間が無情の説法を聞いたらどうなるのでしょうか」


慧忠国師
「それこそ人間ではない、無情だよ」





この「無情説法の話」という問題を与えられた蘇東城は理解することができません。


悩みに悩むのですが、理解できなかったのですが、別の場所へと移動しなければいけなくなりました。


そこで、移動をしているときに、ある渓谷にさしかかり、谷川のせせらぎの音を聞き、忽然と悟りを開き、そのときの感動をうだったのが、


【渓声便是広長舌】
(けいせい すなわち これ こうちょうぜつ)
「谷川で聞こえてくる川の音は仏の声である」


【山色豈非清浄身】
(さんしょくあに しょうじょうしんに あらざんや)
「山々の姿が、そのまま仏様の姿である」


だったのです。





蘇東披は渓谷の景色があまりにも美しかったので感動をしたのでしょうか。


そうではありません。


蘇東披の心が変化したからこそ、これまでにも見てきたはずの景色が違って見えた。


そのことに感動をしたのです。




知らず知らずのうちに、自分の知識や経験を通して物事を見るようになり、そのために見えなくなった景色があり、聞こえなくなった音があったのです。


私達も気づかないうちに心に耳栓をしてしまっているかもしれません。

しかし、耳栓を外せば、聞こえなかった音が聞こえるようになります。

同じように気づかないうちに心にアイマスクをつけてしまいます。
そんなアイマスクを外してみたら、見えなかった景色が見えるようになることを教えてくれているのです。


後は、それを実体験するだけです。


・・・そこは当然難しいのですが。

特別なことだけに目を向けていると 経営はなりたたない


600桜に学ぶ1902243




一般的に「経営」と言えば会社や事業を行うこと・営むことを意味する言葉です


御存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、経営という言葉は、もともと仏教の言葉です。



「経営」の「経」をよく見てください。


実は、「お経」の「経」です。


もともと「経」は「縦糸」を意味していましたが、それが転じて「経典」を意味するようになりました。


経典というのは、お釈迦様の教えであり、仏教の教えです。

「経営」の「経」は、過去、現在、未来を貫いて変わらない、縦糸のような大切な教えなのです。この大切な教えを営むと書いて「経営」と書きますので、


「経営」とは、大切な教えを縦糸として人生を営むこと、人生を生きていくことを示す言葉なのです。


ですから、「自分自身をどう生かすか」ということを問われる言葉でもあるのです。企業活動の意味で使われだしたのは後になってからだそうです。



なぜ、今月は「経営」という言葉を紹介させていただくかと言いますと、先日の強い雨がきっかけです。私が生活をしている東光寺の付近では1週間ほど前の朝にとても強い雨が降りました。

先日の雨は短時間にものすごく強い雨が降ったために、裏の水路があふれてしまいました。
※その際の記事はこちらです。





東光寺の境内には保育園があり、その保育園の裏の水路が、あまりに強い雨を受け止めきれずにあふれてしまったのです。


その際、普段は保育園の園庭に降った雨が、その水路に流れ込んでいましたが、水路があふれれば園庭内の水も行き場を失い園庭に水が溜まってしまいました。子供を送ってきた保護者ですら、園庭に溜まった水を越えることができず、駐車場から園舎に到着できないような状態でした。


そんな状態でも雨は降り続け、水路は氾濫した状態が続いており、もう少しで教室の中にまで水が入ってきてしまうかもしれないような水位になっていました。


そんなときに、私は何をしていたかと言いますと・・・




スマートフォンで写真の撮影をしていました。


もしも、このまま床上浸水などということになったときには、役所へ報告をしたり、保険を使って修理をしなくてはいけません。その際に、役所や保険屋さんに提出する報告書を作成するための写真が必要になるのです。


ですから、あふれた水路やその影響で水が溜まった場所などを撮影していました。




これは、仏教的な「経営判断」ではなく、社会の中で生きていくための「経営判断」だったように感じています。


不幸中の幸いと言うべきなのかもしれませんが、今回の強い雨はギリギリで止みましたので、保育園が浸水することはありませんでした。


実はあふれてしまった裏の水路は数年に一度は台風や、ゲリラ豪雨などの際にあふれそうになります。


以前も保育園は浸水を経験しているので、今回も雨が降っている間は


「また、浸水するのかもしれない!? なんでここの水路はあふれるんだ!」


と腹立たしい気持ちになりました。


しかし、雨が止むと驚くほどの速さで水路の水位が下がっていきました。


数時間後には驚くほどすっきりとしています。


実は、数年前に大雨が降った際にこの一帯が浸水することがありました。


その時に、多くの方が御尽力をされて、様々な手立てを講じてくれたおかげで、この水路を含めて多くの場所で水の流れが良くなっていたのです。その方法とは、この水路の約1km先の川の底を掘るというものです。




詳しく話をすると長くなるのですが、これまでよりも川底を掘り下げることで、川に流れ込むことができる水の量を増やしてくれていたのです。ですから、今回の大雨で保育園が浸水せずに済んだのです。もしも、1km先の川の底が深くなっていなかったら、もっと多くの水が行き場を失い、保育園の教室の中に入り込んだかもしれません。


雨脚が弱くなって急激に水位が下がった水路を見て、多くの方が地域を守るために尽力して下さっているという、とても大切なことを忘れて

「なんでここの水路はあふれるんだ!」

と言って腹を立てていた自分が恥ずかしいと思いました。




さらに、雨が降った数日後に、川底を削った川の土手を歩いているときに見た桜の木に大切なことを教えてもらった気がしたのです。


その桜の木は決して珍しいものではありません。ただ緑の葉っぱをたくさんつけた桜の木です。私はこの桜の木を見たときにハッとしました。


もしも、この桜の木を3月に見ていたとしたら、私は何をしたでしょうか。そうです、美しいピンクの花を写真に収めようとしたのだと思います。しかし、私は緑の葉に覆われた桜の木の写真を撮ろうとしなかったのです。



このことに気がついたときに自分の未熟さを痛感しました。



一般的な植物は花が咲くときには、葉っぱがあります。葉っぱで光合成をすることで栄養をつくり、その栄養で花を咲かせます。ですから桜の木のように樹全体が花だけに包まれる桜は珍しい存在です。しかし、桜の木は花が勝手に咲くわけではありません。前の年に葉が光合成を行い、作り出された栄養分を木が蓄えて、一気に花を咲かせています。


ですから、花に覆われた桜の木が存在するのは、葉に覆われた桜の木があるからです。





先ほど、「経営」の「経」はもともと縦糸を意味していたと紹介をしました。過去、現在、未来を貫いて変わらない、大切な教えだと紹介をしました。


過去から現在、そして未来へと途切れることなく受け継がれる大切な教えが「経営」の「経」であり、「お経」なのです。



つまり、大切なものを、決して途切れることなく心に持ち続けて生きていくことが「経営」でした。


私はこの「大切なもの」は「ありがたい」と奥底から感じることができる心だと思っています。




つまり、”今、自分が生かされている”ことを実感して「ありがとう」という気持ちを持って生きていくことが「経営」であり、そのように生きていく人が「経営者」なのです。



では、桜の花だけを美しいと感じて写真を撮る姿は「経営者」なのでしょうか。残念ながら違います。(現在)花が咲いた桜の木が美しいと感じて写真を撮るならば、(過去・未来)同じように葉に覆われた桜の木も美しいと感じて写真を撮らなければならないはずです。


あふれた水路の写真を撮ることが「経営者」なのでしょうか。こちらも違います。(現在)困った状態だけを写真にとるのではなく、(過去・未来)雨が降っても降らなくても、そこに存在してくれている水路に感謝し写真を撮っているのならば、水路があふれたときに写真を撮っても「経営者」と名乗ることができたかもしれません。




しかし、私のスマートフォンには、葉でおおわれている桜の木も、通常状態の水路の写真もありません。自分にとって都合の良い写真だけを選んで撮影された写真だけがスマートフォンに収められているのです。このような写真ばかりが収められ、”なにげない日常”に感謝をするような写真を撮影していない私は「経営者」になりきれていないと実感しています。

しかし、だからこそ「経営」という言葉の意味を少しでも多くの方に知ってもらうために、「経営」という言葉を紹介させていただくことで、自分自身への戒めとさせていただきました。



布を織るときには、縦糸と横糸が使われます。当然、縦糸が切れていれば丈夫な布は出来上がりません。縦糸には大切な役割はあるのですが、決して布の表に出てきて目立つことはありません。


見えないけれども、大切な存在なのが縦糸です。横糸をどんなにこだわって丈夫であったり目立つものにしたとしても、縦糸をおろそかにしてしまえば完成した布はたいしたものにはなりません。



同じように私達も、自分自身の中にある縦糸とも言われる経典をおろそかにすることなく営む「経営者」とならなくては、迷い・苦しみの世界へと入り込んでしまいます。



では、どうしたら良いのでしょうか。私はそのキーワードが「日常に感謝する」ことだと思っています。何か特別なことがあったときに「ありがたい」と感じることは難しくありません。しかし、都合が良いときだけ「ありがたい」と感じるのは、ぶつ切りにされた縦糸で布を織るようなものです。



何かあったときだけ、自分に都合の良いことがあったときだけ「ありがたい」と感じるのではなく、過去・現在・未来と途切れることなく「ありがたい」と感じることができれば仏教・禅的な「経営者」となることができます。



私は、光合成を一生懸命行っている、この季節の桜の木を見て、その中に満開の花を見出し、


なにげなく流れている水路を見て、その中に救われている多くの命を見出すような心で日常を過ごしていきたいと思っています。

摩擦係数と禅の言葉

畑の石を除去しています。


土をふるいにかけると大量の石が出てきます。



600畑の石と摩擦係数


すぐに一輪車はいっぱいになります。

これを動かそうにも、なかなか動きません。

しかし、力を込めて動かし始めると、先ほどまでのように重さを感じることなく移動させることができます。





この現象を理科では


動摩擦力 < 静止摩擦力
(動摩擦力の方が静止摩擦力よりも小さい)


と表現します。





このような現象を禅語では

南北東西活路通 【なんぼく とうざい かつろ つうず】


と表現することができます。



一回透過雲関了 南北東西活路通


一回雲関を透過し了って、南北東西活路通ず


一度「雲門の関」というとっても難しい禅問答(公案:こうあん)の答えに気がつけば、あらゆる方向に道が開ける


ということを表現する禅の言葉です。





「茶席の禅語」という書物の中では

悟りを得ることによって実現される、無礙自在の境地。大徳寺開山大燈国師(宗峰妙超)の大悟の偈の中に用いられる言葉。

とも書かれています。





同じ現象を見て、科学と禅がそれぞれ異なる言葉を発しています。


もちろん、


禅が正しくて 科学が間違っている訳でも、

科学が正しくて 禅が間違っている


という意味でもありません。





どちらも正しいのです。

どちらかを選択するのではなく、どちらも受け入れていくことの大切さを

動き始めるまでは大変だが、動き出せば多くの荷物を運ぶことができる一輪車に教えてもらっているように感じます。

日本とアメリカで同じ風が吹く

600日米首脳会談と千里同風




日米首脳会談のニュースを見たお坊さんの中には、私のように日本の首相でもアメリカの大統領でもなく

「千里同風」

という文字に目が行った人もいたのではないでしょうか。






私自身、この言葉が大好きで、昨年の年末には本堂の前に飾る竹灯籠に千里同風の文字を入れたほどです。
※その際の様子はこちらに紹介しています。

600竹灯り201231 9 (2)





600竹灯り201231 10 (2)


このブログで何度か紹介をさせていただいていますが、千里同風は

遠く離れた場所でも 同じ風が吹く

ことを意味する言葉です。






千里同風は1200年程前の中国で活躍された2人の和尚様の逸話に出てくる言葉です。


ある時に、師匠に手紙を出そうとした和尚様がいました。

当時は郵便というものが発達していませんので、手紙は誰かが直接届けなくてはいけません。

そこで、和尚様は自分の弟子に手紙を持たせたのです。

師匠は手紙を受け取ると、さっそく中を見てみました。

すると手紙には何も書かれていません!

師匠は手紙を届けた和尚様の弟子に、「これはどういうことか分かるか?」と聞きました。

弟子は何も答えられません。

師匠は、白紙の手紙を手に「君子千里同風」と説いたのです。






「千里同風」、は「千里離れた土地であっても、同じ風が吹いている」という意味ですある。同じ風は心を表します。


つまり、白紙の手紙を使って“同志というものは、遠く離れていても心が通じ合う”、しっかりと修行をすれば文字などなくても全ては通じるものだと説いてくださったのです。



日本とアメリカだけでなく、世界中のありとあらゆる人々が「千里同風」の心で過ごせることを切に願っています。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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