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昔話に学ぶ 分福茶釜 特別編 【瓊瑶世界(けいようせかい)】

この記事は東光寺(静岡市清水区横砂)のみんなの坐禅会(子供坐禅会)と臨済宗青年僧の会で開催しているオンライン坐禅会(子供坐禅会)を同時開催で私が話した内容をまとめたものです。

※東光寺(静岡市清水区横砂)のみんなの坐禅会(子供坐禅会)についてはこちらをご覧ください。
※臨済宗青年僧の会 オンライン坐禅会についてはこちらをご覧ください。




昔話に学ぶ 分福茶釜 特別編 【瓊瑶世界(けいようせかい)】



600オンライン坐禅会 法話 一般向け 瓊瑶世界 20230330



分福茶釜シリーズ 特別編です。


これまで、昔話の分福茶釜を紹介しながら、その中にある仏教の教えや禅の教えを紹介してきました。
今回は特別編です。




令和5年・2023年春休みの子供坐禅会で昔話・分福茶釜を紹介しました。


この毎日開催した子供坐禅会の途中には、一般向けの坐禅会も担当をしました。

その一般向けに紹介した話です。



昔話には先人達の「大切なことを伝えたい」という気持ちが込められているように感じます。

言葉が難しくなってしまうので、小学生が参加してくれる子供坐禅会では紹介しませんでしたが・・・

私は、分福茶釜が瓊瑶世界【けいようせかい】を伝えてくれていると感じます。


今回、私は分福茶釜を紹介するに当たり改めて物語を読むまで「茶釜に化けたタヌキが芸をする話し」としか思っていませんでした。

でも、調べてみると分福茶釜はとても深い話であり、学ぶべきことが非常に多い奥深い物語でした。




分福茶釜は様々な結末があり、どの結末が正しいということはありません。

荒っぽくあらすじを紹介しますと


和尚が茶釜を手に入れる

不気味な茶釜だと感じる

茶釜をくず屋(リサイクルショップ)に渡す

分福茶釜こと、たぬきが化けた茶釜とくず屋が協力をして大儲け

分福茶釜引退

と言うものです。


しかし、私は「たぬきが化けた茶釜と、くず屋が協力をして大儲け」という部分に瓊瑶世界【けいようせかい】を感じます。


瓊も瑶も、それぞれ「美しい玉」を意味する言葉です。


瓊瑶世界【けいようせかい】とは


「瓊」「瑶」の二つの美しい玉が、お互いを照らし合い、さらに輝きを増して美しい世界が広がる。


という意味です。


2人の仏が互いを照らし合って輝きを増していく


とも理解することができる言葉です。


余談ですが・・・

 1643年に日本を訪れた朝鮮通信使の朴安期は、「瓊瑶世界」という書を静岡市清水区興津にある清見寺に残しました。この言葉は現在でも鐘楼に掛けられています。

 当時「瓊瑶世界」の二つの美しい玉とは、日本と朝鮮の二つの国を示したと考えることができます。異なる文化を持ち言葉は通じなくても、相手を照らし続けることが大切であるということ。お互いの信頼と真心が、美しく輝く平和な世界を築くことができると伝えてくれていると感じます。



分福茶釜は「たぬきが化けた茶釜と、くず屋が協力をして大儲け」という部分だけが印象に残っているかもしれません。

しかし、それは本質的な部分ではありません。


分福茶釜は仏と仏が拝み合っている物語です。

1人目の仏は分福茶釜。分福茶釜は茶釜に化けたタヌキです。

何か(人間や犬)に追いかけられて、慌てて茶釜に化けたのです。しかし、大きな恐怖に襲われながら化けたので元の姿に戻れなくなってしまい、辛い人生を送っていたタヌキなのです。

しかし、ひょんなことから”くず屋の男”と出会い、茶釜のお化けのような姿でも受け入れてもらえたことから、自分の運命や姿を受け入れることができたのです。

そして、自分の運命を受け入れて茶釜のくっついたタヌキとして生きていくだけでなく、その姿で多くの人を楽しませたのです。

過酷な運命を受け入れ、そして周囲を楽しませ、くず屋の男を救い、そして最後は茶釜の姿で亡くなっていく。それでも「自分は幸せだ」と伝えるのです。

まさに、仏の姿であります。


また、くず屋の男も尊い心を持っています。

こまったタヌキを差別することなく受入れ、お腹が空いていることを知れば自分の食事を施し、寝る場所を提供します。さらに、見世物小屋が成功しても、稼いだお金をタヌキが元に戻るための研究に使うのです。

まさに、仏の姿です。



この2人が、力を合わせて懸命に生きていく物語が「昔話・分福茶釜」なのです。


2人の仏が、互いを照らすからこそ、その姿を見ようと多くの人が見世物小屋に集まってきたのです。


そして、その2人の物語が、読んだ人の心も照らしていく。

まさに、美しい玉がお互いを照らし、照らされた光以上の光を出すことで、互いがさらに光っていく。

そして、その光は周囲の世界までも照らしていくという瓊瑶世界【けいようせかい】そのものです。



しかし、大切なことは分福茶釜だけが素晴らしいということではありません。


瓊瑶世界【けいようせかい】という世界は分福茶釜などの物語の中だけにあるのではありません。


今、ここにあるのです。

私達には合掌と言う習慣があります。

拝むときに手を合わせます。

その姿は、まさに仏です。

お互いが、本当に相手のことを思って手を合わせる姿は尊いものです。

その尊い姿は確実に周囲を照らしていきます。

これこそが瓊瑶世界【けいようせかい】の世界です。


分福茶釜を見たときに瓊瑶世界【けいようせかい】というお互いが拝み合う尊い世界があることを思い出していただきたいと願っています。

昔話に学ぶ 分福茶釜 その12 あふれだすお湯

この記事は東光寺(静岡市清水区横砂)のみんなの坐禅会(子供坐禅会)と臨済宗青年僧の会で開催しているオンライン坐禅会(子供坐禅会)を同時開催で私が話した内容をまとめたものです。

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昔話に学ぶ 分福茶釜 その12 あふれだすお湯



600【昔話】79分福茶釜





分福茶釜シリーズその12です。



これまで、昔話の分福茶釜を紹介しながら、その中にある仏教の教えや禅の教えを紹介してきました。


今回は最後の話しです。


実は、これまで紹介してきた分福茶釜は一般的に知られているお話でしたが、このお話の元になったお寺があります。


それは、現在の群馬県にある茂林寺というお寺なんです。


「え、しゃべる茶釜を気味悪がってくず屋にあげちゃった和尚さんが本当にいたんですか?」


と、思うかもしれませんが・・・


残念ながらそうではありません。



実際に”ある茶釜”が祀られているお寺なんです。


その茶釜をヒントにして、これまで紹介してきた昔話が誕生したのかもしれません。


では、どんな茶釜なのでしょうか。


お寺に伝わる話によると・・・


そのお寺の一番最初の和尚様といっしょに働いていた男がいたそうです。


その男はお寺の代々の住職に仕えました。


やがて、七代目の和尚様が茂林寺で千人が集まるお茶会を開催したそうです。


大勢の来客があるので大量の湯釜が必要となります。


その時、お寺を手伝ってきた男が、どこからか一つの茶釜を持ってきて、茶室に置いたそうです。


そして、なんと、この茶釜は不思議なことにいくら湯を汲んでも尽きることがなかったのです。


男はこの茶釜を、



福を分け与える「紫金銅分福茶釜」と名付け、この茶釜の湯で喉を潤す者は、開運出世・寿命長久等、八つの功徳に授かると言ったそうです。



男はその後もお寺を支え続けましたが、最初の和尚様がお寺に入ってから160年が経ったころ、お世話になった人々に源平屋島の合戦と釈迦の説法の二場面を再現して見せいなくなったそうです。


 後になってこのことが、明治・大正期の作家によってお伽噺「文福茶釜」として出版され、茶釜から顔や手足を出して綱渡りする狸の姿が、広く世に知られる事になったそうです。




原作とこれまで紹介してきた昔話に少し違いはありますが、原作も大切なことを教えてくれています。


分福茶釜の由来は千⼈が集まったとき、⼀昼夜汲み続けても釜の湯はなくならなかった茶釜です。


これは、何を伝えようとしているのでしょうか。


当然、そんな不思議な茶釜があることを伝えようとしているのではありません。


お湯が何かを示しています。


お湯は身体の内側から私達を温めてくれます。


私達を内側から温めてくれるものとはなんでしょうか。


それは心です。


普段から坐禅会でお唱えしている「白隠禅師坐禅和讃」は


衆生本来仏なり(しゅじょう ほんらい ほとけなり)


と始まります。


誰にでも 本当は 素晴らしい心がある


という禅の教えです。




その素晴らしい心は、どんなに使っても決して減ることはありません。

「心がすり減っていく」と感じることがあるかもしれません。

「心が辛くて立ち上がれない」と感じることがあるかもしれません。

そんなときは、ゆっくりと休んでみてください。

心は少し回復しませんか。

ゆったりと 身体と呼吸を調えると心は回復しませんか。

誰もが素晴らしい心を持っています。

茶釜のお湯を使っても、そのお湯が枯れることがなかったように、私達がもっている素晴らしい心も誰かのために枯れることはありません。

そのことを、茶釜は伝えてくれているのです。



分福茶釜の話を聞いたときには、これまで紹介してきたことと一緒に


「私達は誰もが素晴らしい心を持っていて、その心を誰かのために使っても枯れることはない」


ということを思い出して、たくさん、その心を使ってみてください。


そして、心が疲れたと感じたら、今日の坐禅と同じように背中を伸ばして身体をまっすぐにして、ゆっくりと呼吸をしてみてください。



そうすると、枯れることがない素晴らしい心が自分の中にあることを実感できるはずです。



600仏教豆知識シール 420-431 昔話シリーズ 分福茶釜12

昔話に学ぶ 分福茶釜 その11 茶釜を供養する


この記事は東光寺(静岡市清水区横砂)のみんなの坐禅会(子供坐禅会)と臨済宗青年僧の会で開催しているオンライン坐禅会(子供坐禅会)を同時開催で私が話した内容をまとめたものです。

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昔話に学ぶ 分福茶釜 その11 茶釜を供養する



600【昔話】78分福茶釜





分福茶釜シリーズその11です。


分福茶釜の物語を紹介するのも11回目となります。

これまでの流れをおさらいすると

・タヌキが襲われ、茶釜に化ける
・タヌキは襲われたことが、あまりに怖くて茶釜から元の姿に戻れなくなる
・茶釜の形のタヌキはある日お寺のお経に購入される
・しかし、茶釜がしゃべったり、動くので和尚は気味悪がって茶釜をくず屋さんにあげてしまう。
・くず屋さんは分福茶釜を受け入れて大成功
・くず屋さんは儲けたお金で分福茶釜を元の姿に戻そうと必死になる。
・分福茶釜はくず屋に感謝をするものの、体調をくずす。
・くず屋は分福茶釜を必死に看病し、分福茶釜も幸せを感じる
・くず屋が看病するが分福茶釜は死んでしまう。
。亡くなった分福茶釜を供養する。

このようになっています。

お葬式の後に、何をするか知っていますか?


そうです、納骨を行います。


亡くなった方の骨をお墓に納めます。


前回の話で、分福茶釜と共に過ごした男は、茶釜をお寺に納めました。


タヌキの亡骸ではなく、お骨でもない、茶釜です。


「タヌキが亡くなったんだから、お寺に納めてお参りをするのはお骨じゃないの?」


と思うかもしれません。


「お骨じゃないものを拝むなんてとんでもない!!」


と思うかもしれません。


しかし、そうではありません。


話しは2500年前のことになります。


お釈迦様(仏様)が亡くなったとき、仏様の亡骸は火葬されました。


多くの人がそのお骨を祀りたいと考えて、仏舎利塔を作りました。


しかし、仏舎利が足りません。


そこで、金銀財宝とお釈迦様のお骨を混ぜたそうです。


そして、お釈迦様のお骨と触れあった宝石を仏舎利塔に祀ったと言われています。


つまり、お釈迦様のことを想ってお参りをしようとしたときに、仏舎利塔の中にあるのはお骨ではなくて宝石の可能性があるのです。


もしも、そこにお骨がなかったら、そのときの「お参り」は意味がないものになってしまうのでしょうか。


もちろん、そんなことはありません。


手を合わせた、その先に何があるのかを探すことよりも、手を合わせたその姿こそが大切です。


そのことを、昔ばなし分福茶釜では



分福茶釜が亡くなった後の供養の場面で「タヌキの姿でもお骨でもなく茶釜を供養する場面」に現れているように感じます。



600仏教豆知識シール 420-431 昔話シリーズ 分福茶釜11

昔話に学ぶ 分福茶釜 その10 供養せずにはいられない

この記事は東光寺(静岡市清水区横砂)のみんなの坐禅会(子供坐禅会)と臨済宗青年僧の会で開催しているオンライン坐禅会(子供坐禅会)を同時開催で私が話した内容をまとめたものです。

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昔話に学ぶ 分福茶釜 その10 供養せずにはいられない



600【昔話】77分福茶釜





分福茶釜シリーズその10です。


分福茶釜の物語を紹介するのも10回目となります。

これまでの流れをおさらいしすると

・タヌキが襲われ、茶釜に化ける
・タヌキは襲われたことが、あまりに怖くて茶釜から元の姿に戻れなくなる
・茶釜の形のタヌキはある日お寺のお経に購入される
・しかし、茶釜がしゃべったり、動くので和尚は気味悪がって茶釜をくず屋さんにあげてしまう。
・くず屋さんは分福茶釜を受け入れて大成功
・くず屋さんは儲けたお金で分福茶釜を元の姿に戻そうと必死になる。
・分福茶釜はくず屋に感謝をするものの、体調をくずす。
・くず屋は分福茶釜を必死に看病し、分福茶釜も幸せを感じる
・くず屋が看病するが分福茶釜は死んでしまう。

このようになっています。



さて、突然ですが・・・

分福茶釜ではなく、私の話をさせてください。


私は小さい頃に学校で飼っている動物が亡くなるとお経を読まされました。


私がお寺で生活をしているから。


私の祖父や父親が僧侶だからです。


子供の世界と言うのは理不尽です。


親の仕事、生き方が、そのまま子供に投影されるのです。


「お前の親は政治家なんだから、お前が生徒会長だ」


と言う人がいたら変ですよね。



「お前の家は美容院なんだから、頭髪検査で引っかかったらお前が俺の髪の毛を切れ!」


と言う人も変ですよね。意味が分かりません。



「お前の親はスーパーで働いているんだから、調理実習の材料はお前が持ってこい!」


なんて言ったら、恐喝・強要で、犯罪です。




でも、教室の生き物が死んでしまったとき、僧侶の息子にお経を読ませることに多くの人は抵抗がないようです。


当時の担任の先生も止めることはしませんでした。


不思議な話です。


幼いころの私は


「こんなことが許されるなら、犯罪者の子供は何もしていなくても犯罪者になってしまう。」


と嫌な気持ちになりました。


嫌でしたが、今は同級生を恨んではいません。



それは大人になってみると、理不尽ではありますが同級生達に「供養せずにはいられない」という人間の本質があったように思うからです。


お寺にいると「お葬式」の変化を感じることがあります。


ここ(静岡市)は駅前に行くと大きな建物やお店があって都会的な部分もありますが、少し駅から離れると昔ながらの習慣が色濃く残っている場所も多くあります。


私も、これまでに様々なお葬式でお参りをさせていただいてきました。


「簡単にやってくれ」と故人が言っていましたので身内だけで、できるだけ簡単にお葬式をしてください。


と言われることもありますし、昔からの習慣を大切にしながらお葬式をされる方もいます。


どっちが正しいと言うつもりはありません。


ただ、お葬式の習慣は大切な方を失ったとき、どうしたら精一杯の供養ができるかを、その時代の中で必死に考えて作られてきたものだということは間違いありません。


お葬式について詳しく話をすると長くなるので、今回は省略をしますが


今でもお葬式をするたびに、尊い習慣や教えを大切にして 亡くなった人のために精一杯供養をしたいという気持ちを感じます。


その心が誰にでもあることを昔話が伝えてくれているように感じます。




昔話、分福茶釜はタヌキが亡くなって終わりではありません。


続きがあります。


嘆き悲しんだくず屋は茶釜をお寺に納めて供養をしてもらうことにしたのです。


最初は気味悪がって茶釜を捨てた和尚さんも、くず屋の話しを聞いて茶釜を大切にお祀りしてくれたそうです。


ここまで、昔話の中で描かれているのは、人には「供養をしなくちゃいけない」ではなく、「供養せずにいられない」という心があることを教えてくれているように感じます。


クラスで大切に飼っていた生き物が亡くなれば、手を合わせたくなる。手を合わせただけでなく、理不尽なお願いをしてでも丁寧に供養をしたくなります。


もちろん、供養の形は様々です。どの方法が正しくて、どの方法が間違っているということはありません。


しかし、私達にはそういった心があり、どんなに時代が変わっても、その心を大切にしていかなくてはいけないと、分福茶釜という昔話は教えてくれています。



600仏教豆知識シール 420-431 昔話シリーズ 分福茶釜10

昔話に学ぶ 分福茶釜 その9 大切だから涙が出る

この記事は東光寺(静岡市清水区横砂)のみんなの坐禅会(子供坐禅会)と臨済宗青年僧の会で開催しているオンライン坐禅会(子供坐禅会)を同時開催で私が話した内容をまとめたものです。

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昔話に学ぶ 分福茶釜 その9 大切だから涙が出る



600【昔話】76分福茶釜



「私は大切な人と5分間 会うことができるなら、例えみんなが高いと思うような金額でも交通費を払って、その人に会いに行きます。」


と言った方がいらっしゃいました。


「もしも大切な人が亡くなってしまった場合、どんなにお金を出してもその人には会うことができないから。」


と丁寧に理由も教えてくれました。この言葉を聞いたときに、”誰かと直接会うことができる”ということはかけがえのないことだと改めて感じました。



分福茶釜の物語を紹介するのも9回目となります。


これまでの流れをおさらいしすると

・タヌキが襲われ、茶釜に化ける
・タヌキは襲われたことが、あまりに怖くて茶釜から元の姿に戻れなくなる
・茶釜の形のタヌキはある日お寺のお経に購入される
・しかし、茶釜がしゃべったり、動くので和尚は気味悪がって茶釜をくず屋さんにあげてしまう。
・くず屋さんは分福茶釜を受入れて大成功
・くず屋さんは儲けたお金で分福茶釜を元の姿に戻そうと必死になる。
・分福茶釜はくず屋に感謝をするものの、体調をくずす。
・くず屋は分福茶釜を必死に看病し、分福茶釜も幸せを感じる

このようになっています。今回は、この続きです。





残念ながら、男の必死の看病にも関わらず分福茶釜は亡くなってしまいます。


非常に辛いできごとに、男は嘆き悲しみます。


昔から伝わる子供が読むような昔話にも、大切な人が亡くなってしまう場面が描かれることがあります。


「時代の流れ」と言ってしまえば、そうなのかもしれませんが 最近では昔から伝わるお話もハッピーエンドに変化させてしまうことがあります。


分福茶釜も


「幸せに暮らしましたとさ」と終わったり、病気が良くなって終わる話もあります。


または、見世物小屋が成功して終わってしまう話など様々な話が用意されています。


今回はあえて辛い場面があるものを紹介しています。


このお話は昭和の時代に放送された日本昔話に描かれていたものです。


なぜ昔話に「主人公の死」という辛い場面が描かれているのでしょうか。


それは、この話しに触れた人達が、しっかりと「今を生きてほしい」という願いが込められています。


「死」としっかり向き合うから、「生(生命)」と向き合うことができる


という言葉があります。





私は僧侶として多くの葬儀に携わらせていただいています。その葬儀に参列される方の中には”初めて参列する”という方がもちろんいらっしゃいます。


そのことは珍しいことではありませんが、私よりも経験が豊富な和尚様方は口をそろえて


「”初めて”お葬式に参列する人の年齢が上がっている」


と言うのです。


以前でしたら、幼少期のうちに身内や親戚が亡くなり”初めてのお葬式”を経験する方がほとんどでした。


しかし、現代は医療の発達によって長生きの方が増えたことや、親戚付き合いが減少したため、お葬式を経験することなく成人する方が増えているのです。


さらに、「お葬式」と「子供の学校や習い事」を天秤にかけて、学校や習い事を優先する家庭もあります。


その結果、知っている人や、大切な方を失うという経験や実感を持たずに大きくなることが増えてきているのです。


もちろん、長生きすることや学校や習い事を一生懸命することは素晴らしいことです。


しかし、自分がいただいた「いのち・生命」と向き合おうと考えたときには「自分の命の終わり」を意識することが大切なのは誰でも分かります。


その「命の終わり」と向き合う機会が年々減ってしまっているのです。




だからと言って、時代の流れを変えることはできません。


でも、昔のことを知ることはできます。


昔の習慣を学ぶことはできます。


昔のことを知り、習慣を学ぶことで、大切なことを感じ取ることができます。


だからこそ、昔話が現代にまで伝わっているのだと思います。


分福茶釜では精一杯に生きたタヌキが残念ながら亡くなります。

話を聞いているだけでも、読んだだけでも辛い気持ちになります。


その辛く悲しい別れを感じることで、何を大切にしなくてはいけないかが見えてきます。


今、自分のいのちがここにあることが、どれほど有難いことなのかを感じることができます。


そのことを、分福茶釜は教えてくれているように感じます。



600仏教豆知識シール 420-431 昔話シリーズ 分福茶釜9
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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