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家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった

家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった (2)




家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった




私はこの言葉に救われました。


作家・岸田奈美さんの自伝的エッセイのタイトルです。


テレビドラマにもなっているので知っている方も多いかもしれません。


私も自分で信じられないほど涙を流しながら本を読ませていただきました。


そして、様々なことを思い出しました。





中学校の教員をしているときに、私は絶対に使わなかった言葉があります。


「家族を大切にしなさい」

「父親を大切にしなさい」

「母親を大切にしなさい」



一般的には問題のない言葉です。

どちらかと言えば、尊い言葉なのかもしれません。

しかし、私は絶対に使いませんでした。



家族を大切にしている大人がたくさんいることは理解しています。

しかし、全ての家庭がそうではありません。



多くの立派な「親」がいる一方、「親」という立場を利用して、傍若無人に振る舞う大人が確実に存在します。

すると、そのことに疲弊しながらも一緒にいることしか選択肢がない子供もいるのです。




そのことを知っているならば、大勢の前で

「親を大切にしなさい」などとは言えませんでした。

その一言が、どれだけ深く子供を痛めつけるかを想像することができたからです。



子供を人として扱わず、所有物や奴隷だと勘違いしている大人と同居するしかない子供に

「親を大切にしなさい」

などと言えるわけがありませんでした。


「家族」とは何か。

「親」とは何か。

「父」とは、「母」とは何か。


現代では血縁関係や、法的なつながりによって「家族」が認定をされています。

子供にとって自分の意思など何もないのです。




そんな、辛い環境にある子供に「家族や親を大切にしなさい」などと言えるはずもありませんでした。




仏教の教えの中に「家族」や「父」。「母」という言葉が出てきます。

父母恩重経【ぶもおんじゅきょう】という親の恩について説いたお経もあります。

しかし、何をもって「家族」であり「父」、「母」なのか。

私には明確に答えることができませんでした。

だからこそ、仏教の教えの中にある「家族」という言葉も避けてきました。





しかし、「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」この一言に、その答えが入っていました。

血縁、法律、習慣、そんなことではないのです。

「大切な人が家族」

これで、よかったんだ。そう思えたとき救われました。


これまで「家族」や「親」という言葉に悩んだ人に救いになる言葉のように感じます。

巡って教えを学ぶ旅(巡教)

春の巡教が終わりました。


大変、ありがたい御縁をいただき、本山である妙心寺より命を受けて巡教へ行かせていただきました。


【巡教とは】

毎年、春と秋に本山から巡教師が日本各地の臨済宗のお寺を周って教えを伝える、法話をするのが巡教(巡教)です。
臨済宗では、禅の教えを伝える僧侶を”布教師(ふきょうし)”と言います。
この布教師の中で研修を受けて各地のお寺に出向くことを本山に命じられる僧侶を”巡教師(じゅんきょうし)”と言います。





令和5年度は岡山県・広島県・大分県を合計18泊19日かけて巡らせていただきました。


巡教師は法話の準備はしますが、それ以外の準備は全て巡教師を受け入れてくださる開教寺院(かいきょうじいん)様がしてくださいます。

会場となるお寺や法要の準備だけでなく、聞いてくださる檀信徒を受け入れる準備、巡教師の宿や食事にいたるまで、全ての開教寺院様が尽力をしてくださるおかげで、巡教という制度が成り立っています。

どの会場へ行っても整っているのは本堂だけではありません。山門から本堂までの境内、中庭、駐車場に至るまで、その苦労は計り知れません。


そのような会場で法話をさせていただきますので、私のような未熟な者は緊張をしてしまいます。


しかし、法話を聞いてくださる多くの方がにこやかに微笑んでくださるので、話しやすい雰囲気を作ってくださるので安心して話をすることができました。



様々な寺院で話をさせていただくたびに、

檀信徒の皆様が微笑んでくださる姿は、開教寺院様の御住職やそのご家族様が普段から檀信徒の皆様に向けている表情だと私は感じています。



それぞれの寺院を取り巻く環境は、地域による違いだけではとうてい説明できないほど千差万別です。


しかし、どこのお寺様へお伺いしても、仏教の教えを伝えたい、尊い習慣を続けたいという僧侶や檀信徒の想いが様々な形となって表れておりました。


多くのことを学ばせていただく巡教の旅が終わることに寂しさもありますが、東光寺(静岡市清水区横砂)に戻った際に学んだことを生かせるように精進してまいります。


巡教で学んだことは、このブログでも少しずつ紹介をさせていただきますが、この記事では、各地の風景(宿泊させていただいた場所の近くで撮影したもの)を紹介させていただきます。


600巡教2023001
岡山県 児島 



600巡教2023002
岡山駅



600巡教2023003
広島県 三次



600巡教2023004
大分県 国東


600巡教2023005
大分県 国東


600巡教2023006
大分県 杵築

肩の力を抜く方法 「俺は最強だ! リラックス」に学ぶ

坐禅の坐りかたを説明するときに

「肩の力を抜いて、リラックスをしてください」

ということが多くあります。



しかし、実際に坐禅を始めようとして周囲を確認すると、肩に力が入っている人はいます。

私自身も、寒い時期には知らず知らずにのうちに肩に力が入ってしまいます。



では、肩の力を抜きたくても抜けないときにはどうした良いのでしょうか。

私が教えてもらって「これは使える!」と感じたのは

「力を抜きたいなら、力を入れる」

というものです。




力を抜きたいなら、逆にまずはできるだけ力を入れた方が良いと言うのです。

グーーーーっと肩に力を入れて、フッと力を緩める。

実際にやってみると、効果抜群です。






先日、プロ車いすテニスプレーヤー・国枝慎吾さんが現役引退を発表されました。


国枝慎吾さんは男子車いすテニス史上初となる「生涯グランドスラム(四大大会全制覇)」を達成した方であり、東京パラリンピックでも金メダルを獲得されているの、多くの方が御存じかと思います。


その国枝慎吾さんのラケットも有名です。




国枝氏のラケット 俺は最強だリラックス (2)

彼のラケットには


「俺は最強だ!」


と書かれています。


試合中の苦しい場面などで、その言葉を見て、これまでの練習や経験を思い出すそうです。

そして、それだけの練習をしてきたのだから負けるはずがないという気持ちで相手にぶつかっていくとインタビューに答えられていました。



そんな有名なラケットですから、インターネットや雑誌の記事にもよく登場します。

そして、そのラケットの画像を見ると、ときどき


「リラックス」


と書いてあるときがあります。



私はこの

「俺は最強だ! リラックス」

という心境は坐禅と共通すると感じています。




坐禅で力を抜くために、まずは力を入れる。するとリラックスができます。



そもそも、なぜ坐禅なのか。


それはお釈迦様の追体験です。



お釈迦様は6年という長い間、苦行をしてこられました。

しかし、このままでは悟ることができないと感じていました。

そこで、町娘のスジャータが差し出したお粥を食べました。

お粥を食べてリラックスをするお釈迦様を一緒に苦行をしてきた仲間からは、

「あいつは堕落した」

とさげすみます。

しかし、お釈迦様は苦行を離れて、ゆったりと坐られたのです。

お釈迦様はこの後、8日間坐られて悟りを開かれました。

この追体験を現代の私達も「坐禅」と名前をつけて行っています。



国枝氏は想像を絶する経験・練習をしたうえでリラックスをした。

お釈迦様は想像を絶する苦行をされて、坐禅をした。


さて、私は・・・

リラックスばかりを追い求めていないか反省しています。

涅槃図に学ぶ


「涅槃図に学ぶ」ことはたくさんある。

しかし、「涅槃図に学ぶ」ことは、「涅槃図も純粋な心で見る子供達に学ぶ」なのかもしれない。





お釈迦様は2月15日に亡くなったと言われています。

そのため、この日には多くの寺院でお釈迦様の遺徳に感謝する「涅槃会【ねはんえ】」という法要が行われます。

この涅槃会の際にかけられるのが涅槃図【ねはんず】です。



涅槃図はお釈迦様が亡くなった際の様子が描かれた掛け軸です。

非常に多くのものが描かれている涅槃図には、多くの物語や教えが込められています。





600涅槃会20230215

今年も東光寺の境内にある保育園の園児が涅槃会のお参りに来てくれました。

せっかくならお参りをした後に、近くで涅槃図を見てもらおうと準備をしました。

掛け軸を広げると、歓声があがりました。



「あ、象がいる!」

「あ、鬼がいる!」

「あ、泣いている人がいる!!」



彼らは目にしたものを次々に口に出す。

こちらが止めない限り、彼らは感じたことを口に出し続ける。

声の大きさなどから、彼らにとって、ひとつひとつが大発見だと感じていることが伝わってくる。



全てのものが大発見のように感じる彼らの姿を見ていると・・・

「学ぶ」ということは、目の前のことに「感動」することができる純粋な心だと改めて感じる。

雪は重い!!

600雪に学ぶ 雪を運ぶ 20230208 (2)





考えてみれば、これまでの人生で大量の雪を運んだことはありませんでした。



高校まで、そして僧侶となった後に暮らしている静岡では雪が降りません。

大学生活を過ごした神奈川県相模原市では雪は経験しましたが、何日も積もったり生活に支障をきたすことはありませんので除雪をしたことがありません。

教員生活を送った名古屋でも年に数回は雪が降りましたが、生徒が登校する前に歩きやすいように雪を隅に寄せるくらいしかしたことがありませんでした。



今回、駐車場の雪を運ぼうとして驚いたことがあります。


※なぜ、雪が降らない静岡市に雪があるのかについて紹介した記事はこちらです。
その1 清水に雪が降った!!!!?
その2 清水に積もった雪に学ぶ 【子供の声は何の声か】
その3 雪を溶かそうとして感じたこと



前回の記事(その3 雪を溶かそうとして感じたこと)にも書いたように、駐車場に車を停められるようするために大量の雪を溶かすことになりました。


雪を散らして溶かそうとする私に


「せっかくだから一部の雪を砂場に移動させて、少しでも園児が楽しめるようにしよう」


という、考えが出てきました。

・・・この後に起こる悲劇も考えず。

今となっては、そんな考えを起こした自分を叱りつけてやりたい気分です。




しかし、私には思ったことを後先考えずに実行してしまうクセがあります。

さっそく「収納かご」を用意しました。

畑の作業でよく使う黄色いカゴです。

スコップ(シャベル)で雪を砕き、カゴに入れて踏み固めました。



そして、雪がいっぱいになった収納かごを持ち上げようとしました。

その瞬間、驚くほどの重さに腰が悲鳴をあげました。

スーパーの買い物かごよりもひと回りだけ大きい黄色いカゴが持ち上がらないのです。




それでも、力を込めてカゴを持ち上げ10mほど離れた場所に雪を運びました。

1回だけ運んで、息切れをしながら考えました。



なんで、私はこんなに疲れているのか!?



答えは簡単です。

知識ばかりに頼って、実践をしていないからです。




静岡には雪が降りません。

もちろん積もりません。

当然、運ぶ経験もありません。

あるのは知識だけ。

雪の知識(イメージ)と言えば、空からハラハラと舞い降りてくる美しい映像ばかり。

そして、雪は溶けると見ずになり、水は1ccで1g、1Lで1kgあるということです。




雪の重さについては一応の知識もあったにも関わらず、ハラハラと舞い降りてくる映像が

「雪は軽くて美しい」

という思い込みを作り上げていたのです・・・

そして、その誤った知識によって私の体は悲鳴をあげたのです。





禅の言葉に冷暖自知【れいだんじち】という言葉があります。


冷暖自知とは、実感・実体験をすることの大切さを説く言葉です。


そこにあるものが、暖かいか冷たいか、どんなに議論をしてもわからない。

実際に触れば、その瞬間い冷たいか暖かいかわかる

同様に、悟りの体験はそれを得た人にだけが知ることができるもので、言葉では説明しきれないものがあることを伝えてくれる言葉です。



雪は水が凍ったもの。空からハラハラを振ってくる。水の重さは1ccで1g。

知識は大切です。

しかし、そんな知識よりも、一度持ち上げれば


雪の重さを体験し、その雪が溶けて水になるから服がビチョビチョになる


ということを一瞬で体験し学ぶことができます。


そして、雪を数時間運び続ければ、その日だけでなく、数日間は体が筋肉痛なる。


ということも体で覚えることができました。




冷暖自知、「知識だけでなく、体験することの大切さ」を、身をもって覚えることができました。




これから、雪に関するニュースを見たときに

「あ、大変だ」

という私の感想に少しだけ重みがでそうです。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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