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ラジオ マリンパル 禅なはなし 【令和4年12月の原稿】

600富士山202212


毎月1回ラジオに出演させていただいています。

エフエムしみず・マリンパルで放送されている「マリンパルほっとライン」というお昼の番組です。
※マリンパルのホームページはこちらです。
※マリンパルほっとラインの紹介はこちらです。


ここでは毎週月曜日に「禅なはなし」と題して”禅”にまつわる放送があります。私も1ヶ月に1回登場をさせていただいています。


私は日常の中で使われている仏教の言葉をテーマに話をさせていただいています。

原稿もなしにしゃべることができる能力がないので、毎回原稿を作成し放送に臨んでいます。

・・・でも、原稿より放送の方が間違いなく面白くなります。

それは、パーソナリティの山下ともちさんが見事にいろいろなことを引き出してくれるからです!!


以下の文章は、パーソナリティの方との掛け合いがない原稿です・・・


ラジオを聞いてくださった方は、違いを楽しんでみてください!


ラジオを聞いていない方は、インターネットでも聞くことができますので、次回以降はラジオでお楽しみください。


※4,000字ほどありますので、時間と心にゆとりのある方だけがご覧ください





マリンパル禅なはなし2022年12月「安心」

~安心は自分の中にある~


皆さんは遅刻をしそうになったり、遅刻をしたりしたときにどうしますか。

私はとても慌てます。そして、いろいろなことを考えて、バタバタとあがいてしまいます。

遅刻をしたときには、多くの方が慌てるような行動をとったり、遅刻をしてしまった自分自身のことを責めたくなってしまうものです。

しかし先日、遅刻したときには、このような行動をすることが大切なんだと感じる出来事がありました。

その出来事を通して、私は「安心(あんしん)」という言葉と向き合ってみたいと感じましたので、今月は「安心」という言葉について話をさせていただきます。



お寺にいると「安心(あんしん)」という言葉をよく聞きます。

法事をされた方が「これで一安心(ひとあんしん)です。」ということもあります。

坐禅会や写経会に参加された方が「なんだか安心(あんしん)しました。」ということもあります。

お寺には「安心(あんしん)」が多くあるようです。

実は仏教や禅の言葉が由来なっている日常語はいろいろとありますが、この「安心(あんしん)」もその一つです。


先ほどから私も「安らかになる心」という漢字を「安心(あんしん)」と読んで使っていますが、禅では同じ漢字を書いて「安心(あんじん)」と読みます。

もともとは「あんじん」と読んでいたものが、時代の変化と共に一般的には「あんしん」と読むようになり、禅では「あんじん」と読み続けています。

読み方に違いがあるので、当然意味も違います。

禅の「安心(あんじん)」と一般的に使われている「安心(あんしん)」にはどのような違いがあるのでしょうか。

一般的に使われている「あんしん」を広辞苑で調べてみると

①安らかで危険のないこと.平穏無事.

②物事が損傷したり,危害をうけたりするおそれがないこと

と書いてあります。使い方の例として「列車で行くほうが車で行くより安心だ」といったような使い方をします。

一般的に使われている“あんしん”は外からの影響や、何かと比較したときに出現する心の動きです。


「列車で行くほうが車で行くより安心だ」は電車と車を比較しています。


「誰かに守ってもらっているから安心(あんしん)した」のように使う場合も、誰かに守ってもらうという外からの影響によって感じられるのが安心(あんしん)です。


これに対して禅が説く“あんじん”は自分の内側から湧き上がってくる心で、周囲の様子などに影響されない心です。「外が嵐でも心は安心(あんじん)している」のような使い方ができる大切な言葉です。



なぜ、安心(あんしん・あんじん)という言葉を紹介するのかと言えば、最近、遅刻をした女性の姿を見て「あ、この姿が安心(あんじん)の姿だ!」という光景に出会ったからなのです。




私が今いる東光寺に月に何度も来てくれる95歳の女性がいます。


東光寺ではコロナ前には毎月8日に薬師如来のお参り、17日に観音様のお参り、23日にお地蔵様のお参りと写経会が開催されており、さらに月に2回仏教の教えを、鈴などの楽器を鳴らしながら歌のようにお唱えする”御詠歌(ごえいか)”の練習がありました。


現在、コロナによって御詠歌の練習などは休止していますが、お参りは感染対策をしながら続けています。


95歳の女性はこのお参りや御詠歌に欠かさず来てくれている方です。さらに、ただお参りをするだけではなく観音様のお参りの際には観音様の御詠歌を、お地蔵様のお参りの際にはお地蔵様の御詠歌を、他の人達と一緒にお唱えしています。


この熱心にお参りをしてくださっている女性は町内に住んでおり、家族にお寺まで送ってきてもらうこともありますが、多くの場合は自分で歩いて来られ、歩いて帰っていきます。95歳という年齢ですので、歩くのは遅くなったりはしていますが、それでも欠かさずにお参りに来られる姿に、私はいつも感動していました。


ところが、先月のお地蔵様のお参りの日のことです。

時間になっても女性が現われなかったのです。

このお参りは申込制の行事ではありません。参加したい人が参加したいときにだけ参加すればよい法要です。

この女性も体調が悪かったり、用事があったりすれば、たまに欠席をしていたので、この日も「なにか用事があったんだな」と思って法要を始めました。

法要は、いつもお経を読んでお地蔵さまにお参りをした後、5分程の御詠歌をお唱えするという順番で行っています。

この日も、お経を読み、皆さんにご焼香をしてもらって、御詠歌が始まりました。そして、御詠歌が始まったときに女性が本堂に入ってこられたのです。この時、すでに御詠歌は半分くらい終わっていました。ここから女性が席について御詠歌の準備を始めても間に合いません。

女性も長く御詠歌をしていますので、状況が把握できたはずです。


もしも私が同じ状況になった場合、そのまま席についてやり過ごそうとしてしまいます。


しかし、女性は違いました。席に着くと、荷物の中から鈴などの御詠歌の道具を準備し始めたのです。

御詠歌は終盤です。

道具はいくつもあるので、どうみても準備が間に合いません。

それでも女性は慌てる様子もなく準備を続けたのです。

そして、準備が終わると同時に御詠歌は終わってしまいました。私は


「せっかく準備をしたのに、もったいない。あきらめて最初から準備をしなければよかったのに・・・」


と思ってしまいました。


しかし、それは大きな間違いでした。御詠歌が終わると最後に短い誓いの言葉を参列者全員でお唱えします。


私が、出足の部分をお唱えすると、続きの部分を全員が一斉に唱和するのです。

このときの女性の声や姿に遅刻をしたことや、御詠歌をお唱えできなかったことへの後悔や気まずさがなかったのです。

いつものように、一心に手を合わせて誓いの言葉をお唱えするその姿が美しかったのです。

その姿を見たときに、女性が御詠歌の準備をする際も慌てることなく落ち着いていて、いつも通りに準備をするその姿も美しかったことを思い出しました。


私達は日常の中で損得や効率を求めてしまいます。


準備をしても間に合わないなら、準備をするだけ無駄だと考えてしまいます。

しかし、女性は無駄か無駄じゃないかなど考えていませんでした。

ただ、御詠歌の準備だけに集中していたのです。慌てる様子もなく、今自分にできることをしっかりと行うその姿に、見ている私の心まで安らかになるような美しい光景でした。


私は、この女性の姿こそが安心(あんじん)だと思えたのです。




禅の逸話の中で「あんじん」という言葉出てくる有名な話があります。それが「達磨安心(だるまあんじん)」という話です。この話はダルマさん、ダルマ様と親しまれている、禅宗の宗祖(一番最初の僧侶)である達磨大師と弟子の問答です。

あるときに、達磨大師に弟子が

「私の心は、落ち着かないのです。師匠、私を安心(あんじん)させてください。」

と言いました。すると達磨大師は

「では、その心をここに出してみよ。私か安心させてあげよう。」

と言ったのです。

「心を出せ」と言われて、弟子は「自分の心はどこにあるのだろう?」と探します。しかし、「自分の苦しんでいる心はどこか」と探しても、「心」という物体はありません。どんなに探しても答えを見つけられません。そこで弟子は


「心を出すことができません。」


と答えます。すると達磨大師は、


「さあ、安心させ終わったぞ!」


と返したのです。


苦しむ心や悲しむ心、喜ぶ心は、状況によって現れるだけで、本来、そのような心の実体はないのです。


達磨大師は弟子にそのことを気づかせようとしたのです。

心を必死に探して見つからなかったときに弟子は、「あ、不安な心なんか初めからなかったんだ。不安なんてものは、自分が勝手に作っていただけなんだ!」と気がついたのです。


だからこそ、達磨大師は「安心させ終わった」と言ったのです。

有名な逸話なので知っている方もいらっしゃるかもしれません。
正直に言いますと私はこの逸話を初めて聞いたときには

不安だ → 不安を出してみろ → 出せません → じゃあ不安なんかない

「え・・・、屁理屈じゃない!?」

と感じました。と、言うよりもかなり長い時間納得できませんでした。

しかし、「靴を履く」という仏教の教えに出会ったときに、この達磨安心の話が納得できたのです。
「靴を履く」という教えは例え話です。


【靴を履く】

人間は、はだしで舗装されていない大地を歩けばケガをします。
そこで、人々は大地に柔らかい絨毯を敷こうとします。
それができればケガをすることがありません。
では、大地の全てに絨毯を敷くことはできるでしょうか。
絨毯を敷くには世界は広すぎます。莫大な時間、労力、お金がかかるので困難な作業です。

しかし、そんなことをしなくても、世界中の大地に絨毯を敷くことができるのです。
どうすればいいのでしょうか。
靴を履けばいいのです。
靴を履けば、どこへ行っても、常に足元に絨毯があるのです。


達磨大師と弟子の問答に似ているように感じます。


弟子は自分の不安な心を改善するために、周囲を変えようとしていたのです。


師匠に
「私の心は、落ち着かないのです。師匠、私を安心させてください。」
と自分以外に答えを求めています。


絨毯を敷いていない場所を見つけて


「師匠!あそこに絨毯がありません。このままじゃケガをしてしまいます。絨毯を敷いてください。」
と言っているようなものです。


この不安な気持ちを持っている弟子とは、まさに私達のことです。
何か嫌なことや辛いことがあったとき、私達はその相手や対象を変えようとしてしまいます。もちろん、それが悪いことではありません。しかし、それには限界があるのです。どこに行ってもケガをしないために世界中に絨毯を敷くようなものなのです。

しかし、達磨大師は「不安を出してみろ。出せないだろ。不安なんてものは自分が作っているんだ!」と弟子に伝えました。


「世界中に絨毯を敷こうとするな。自分が靴を履け!そうすればケガをしない。周囲を変えるじゃない、自分が変われば世界が変わるんだ!」


と言いたかったのだと私は考えています。

冒頭部分で


一般的に使われている“あんしん”は


外からの影響や、何かと比較したときに出現する心の動き。


これに対して禅が説く“あんじん”は自分の内側から湧き上がってくる心で、周囲の様子などに影響されない心


と言いました。




絨毯と靴の話にするのならば

大地に絨毯を敷いた場所にいることが、日常で使っている安心(あんしん)なのです。
靴を履いたような心で日常を過ごすのが、禅の安心(あんじん)です。


遅れてきた女性が
「今日は調子が悪かったから遅れてもしょうがないよ」と声をかけてもらって得られるのが日常で使う安心(あんしん)で、

今自分にできることをしっかりと行って、安らかな心で手を合わせるのが安心(あんじん)なのです。

安心(あんしん)と安心(あんじん)にはこのような違いがあります。


荒れ狂う日常で心を安らかに保ちたいと思ったとき、絨毯を敷いても良いのですが、靴を履く方が自由自在に動き回れます。



では、どうしたら心の靴を履けるのか。

達磨大師は9年間 壁に向かって坐禅をしたことでも有名です。

坐禅はもちろん大切です。


では、この女性は坐禅をしているのでしょうか。


なんと、これだけお寺の行事に参加してくれているのに、坐禅会には参加したことがありません。


しかし、心安らかな姿勢で参加することができました。それは、日常の中で良い習慣を大切にされているからだと私は考えています。


この女性は、日々のお参りや坐禅会以外のお寺の行事だけでなく、ご先祖様からいただいた習慣をとても大切にしています。私達がご先祖様からいただいた習慣というものは、「どうしたら、自分と周囲の人が心安らかに生活するための実践集であり、何度も改訂された究極のマニュアル」です。

そのような実践をされている方だからこそ、どんな時にでも、落ち着いて行動することができたのだと思います。


私もこの女性のように、その姿で周囲の人の心を安らかにできるように、まずは自分の心を安心(あんじん)していきたいと思います。

自己紹介やお知らせなど 【固定記事】

【自己紹介】
氏名:横山友宏 

東光寺 副住職 (静岡市清水区横砂)
袖師保育園事務職員

昭和54年(西暦1979年)誕生。高校まで静岡で過ごし科学にはまって理学部 物理学科卒業。科学の楽しさを伝えたくなり公立中学校勤務(理科担当 時々技術 部活は卓球部顧問)。その後いろいろあって現職です。

600ホームページ ブログ用ボタン 自己紹介
※自己紹介はこちらの記事で詳しくさせていただいています


【開催案内】
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親子でプチお寺体験 【写経と精進料理】
2022年7月17日

【仏教豆知識シールの郵送について】
オンライン坐禅会開催にともない、みんなの坐禅会(子供坐禅会)で参加者に配布している坐禅手帳と仏教豆知識シールの郵送を始めました。詳しくはこちらの記事をご覧ください。

昔話 ねずみの嫁入りに学ぶこと 【まとめ】

昔話シリーズ ねずみの嫁入り 正方形0


「ねずみの嫁入り」という昔話があります。



このお話は親ねずみが自慢の娘の幸せを願い、結婚相手を探すが、結局は一番近くに幸せがあったことに気がつく物語です。


この昔話からどんなことを学ぶことができるか、5回に分けて東光寺(静岡市清水区横砂)の子供坐禅会で話をさせてもらいました。




それぞれの話は下の絵をクリックしていただければお読みいただけます。興味のある方はぜひ!

※子供坐禅会(みんなの坐禅会)についてはこちらをご覧ください。




昔話シリーズ ねずみの嫁入り 正方形1

昔話 「ねずみの嫁入り」に学ぶ その1

遠くに求めていいの?





昔話シリーズ ねずみの嫁入り 正方形2

昔話 「ねずみの嫁入り」に学ぶ その2

雲が教えてくれること





昔話シリーズ ねずみの嫁入り 正方形3

昔話 「ねずみの嫁入り」に学ぶ その3

自由自在な風





昔話シリーズ ねずみの嫁入り 正方形4
昔話 「ねずみの嫁入り」に学ぶ その4

大切な壁





昔話シリーズ ねずみの嫁入り 正方形5

昔話 「ねずみの嫁入り」に学ぶ その5 

悪者がいない世界

昔話 「姥捨て山」に学ぶ  

600仏教豆知識シール 408-414 昔話シリーズ 姥捨て山 スライド用


みなさん「姥捨て山(うばすてやま)」という昔話を知っていますか?



東光寺(静岡市清水区横砂)では、地元の小学校の長期休暇に子供坐禅会(みんなの坐禅会)を行っています。


その際に、仏教に関係する話をさせてもらっています。


令和3年の冬休み(12月25日~31日)に開催した子供坐禅会では昔話の「姥捨て山」をテーマに話をしました。


これまでは「桃太郎」や「浦島太郎」などから学ぶことができる仏教の教えを紹介してきましたので、同じ流れで行こうと考えていました・・・・


まさか、初日にあんなことがあるなんて・・・・




6回に分けて姥捨て山の話をしようと考えていた初日、私に衝撃的な事実が知らされます。




私が


「これからみんなが知っている昔話の姥捨て山の話を紹介していきます。」


と言ったところ、参加者の反応が真っ二つに分かれたのです。





大人達は”うん、うん”とうなずくなど反応をしてくれました。


しかし、子供達の表情には明らかに「?」がいっぱい!!



私は慌てて


「姥捨て山の話を知っている人?」


と聞くと、子供は誰も手をあげませんでした。



なんと、話を聞いてほしい子供達の認知度が「0」だったのです!!




「実は、みんなが知っている姥捨て山の話は、お釈迦様が話して下さったことがもとになっているんだよ!」


などといった”つかみ”と言える豆知識は、ただの説明となってしまいました・・・・


一瞬、気持ちが折れかかりました。


しかし、姥捨て山はたくさんのことを私達に教えてくれています。



そのことを伝えたいと作成した仏教豆知識シールが以下の6枚です。


600仏教豆知識シール 408-414 昔話シリーズ 姥捨て山1



600仏教豆知識シール 408-414 昔話シリーズ 姥捨て山2



600仏教豆知識シール 408-414 昔話シリーズ 姥捨て山3



600仏教豆知識シール 408-414 昔話シリーズ 姥捨て山4



600仏教豆知識シール 408-414 昔話シリーズ 姥捨て山5



600仏教豆知識シール 408-414 昔話シリーズ 姥捨て山6





次回以降の記事で、どのような話をしたか紹介をさせていただきます。

二つに分けるのは人のはからいである

600グランシップからの富士山1
研修で、静岡市にあるグランシップという場所に行きました。

富士山がキレイに見える場所としても知られており、せっかくなので休憩時間に展望ルームへ行きました。

雲一つない良い天気と言うこともあって正面に富士山がキレイに見えました。

雲に隠されていない富士山を見ていると、

「そういえば1週間前に海の近くから見たときも雲がなくて富士山が丸見えだった!」

ということを思い出しました。

そこで、1週間前に撮影した丸見えの富士山の写真を見て驚きました。




600清水港からの富士山雲あり


雲があったのです!!


雲などないと記憶していたのに、しっかりと写っていました。


そこに存在する雲を私が見落としていたのです。


と、言うよりも「良い天気」という思い込みが、存在した雲を消してしまっていたのです。





仏教聖典の中に


二つに分けるのは人のはからいである


という言葉があります。この言葉の前後に


意味のないものと意味のあるものとの二つがあるのでなく、善いものと悪いものとの二つがあるのでもない。


二つに分けるのは人のはからいである



はからいを離れた智慧をもって照らせば、すべてはみな尊い意味を持つものとなる。


と言う文章があります。


私達は普段から

はからいを離れた智慧をもって周囲を照らさなければなりません。

しかし、「富士山に雲が何もかかっていない」という間違った思い込みをしてしまうほど、私達の頭は”はからい”を離れることができません。

しかし、”はからい”を離れる方法はいくつもあります。

その1つが坐禅です。

もちろん少しだけ坐禅をした瞬間に”はからい”がない心になるわけではありません。

でも、坐禅をしたときに頭の中に何かが激しく動いていることに気がつくことができます。

ここが大切です。

富士山に雲がかかっていることを正しく認識するように、

頭で考えてしまっていることを正しく認識することが今の私達にできることだと思います。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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