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なぜ、お葬式やお通夜で剃髪をするの?

600【葬儀】剃髪の儀




葬儀・葬式(仏式)では、剃髪【ていはつ】を行うことがあります。



東光寺(静岡市清水区横砂)は臨済宗妙心寺派のお寺です。


臨済宗の葬儀でも剃髪の儀を行います。


地域によって習慣は様々で、実際に髪を剃る地域もあるそうですが、東光寺では儀式のみを行います。




剃髪の儀を行うときには剃髪偈【ていはつげ】というお経を唱えます。

剃髪偈は

剃除鬚髪(ていじょしゅはつ)
当願衆生(とうがんしゅじょう)
永離煩悩(ようりぼんのう)
究竟寂滅(くぎょうじゃくめつ)



というお経であり、意味は


髪や髭を剃るときに
私はありとあらゆるもののために願います
皆が煩悩から離れることを
そして、心静かな世界へとたどり着くことを



となります。




この剃髪偈というお経は、私達僧侶は普段から髪を剃るときにお唱えしていますのでなじみ深いものです。



しかし、一般の方で普段から髪を剃る人は多くありませんし、剃髪偈を唱えながら髪を剃っている人はかなり少ないと思います。



なぜ、なじみがない剃髪偈を唱えるのでしょうか。





私は葬儀で剃髪をする理由を


「亡くなられた方は、お釈迦様の御弟子様として旅立ちます。ですから剃髪を行います。実際に剃る地方もありますが、このあたりでは儀式としています。」


と説明をしてきました。



では、その際になぜ剃髪偈を唱えるのでしょうか。

それは、ある願いを込めるためだと私は考えています。




大切な方を亡くした私達がこのお経に込める願いとはなんでしょうか。


大切なお経を私のような未熟者が勝手に訳してはいけないのかもしれませんが、私は





剃除鬚髪(ていじょしゅはつ)
髪も髭も伸びなくなり、剃り落とす必要が亡くなってしまった


当願衆生(とうがんしゅじょう)
大切なあなたのために願います。


永離煩悩(ようりぼんのう)
あなたの心が煩悩の苦しみから永遠に離れ


究竟寂滅(くぎょうじゃくめつ)
いつまでも安らかであることを

 


という思いでお唱えしています。



そして日常に戻ったとき、剃髪偈が伝えてくれる、「私達自身が煩悩から離れることの大切さ」を忘れることがなければ、亡くなった大切な方の心と同じ心になれるのです。



同じ心となるのですから、心を一つにすることができるのです。これが、


「亡き人の 美しい心を 受け継ぐことが 供養である」


とも表現される供養の心だと私は考えています。


そして、この心になるからこそ大切な方のことを、忘れないで共に生きていくことができるのだと信じています。

北枕は縁起が悪いって本当なの!?

600こまめ 涅槃シリーズ 涅槃仏 カラー



北枕は縁起が悪いという人がいます。


亡くなった人を北枕にするからだというのです。




今、坐禅を体験したいと考える人が増えています。そういった方の中に

坐禅=足を組む

と思っている人がいます。

もちろん正解です。

しかし、本当は身体(姿勢)と呼吸と心を調えるのが坐禅です。

では身体を調えるためになぜ足を組むのか?

それは、お釈迦様が足を組んで坐ったからだとも言われています。


お釈迦様が坐禅をして悟りを開かれたので、後世の人達もお釈迦様の追体験をしている。

尊い方と同じことをすることで、悟りを得ようとしているのです。





では北枕は!?

亡くなった方は何で北枕なのでしょうか!?

それは、お釈迦様が亡くなったとき、頭を北に向けられたからなのです。

その後、大切な方が亡くなったときに尊いお釈迦様と同じように送りたいという思い、

そして、大切な方がお釈迦様の追体験ができるようにと北枕にしたのです。


お釈迦様が亡くなる = 北枕 = 大切な方が亡くなった


ではなぜ縁起が悪いと感じる人がいるのでしょうか。

それは、


北枕 = 亡くなった


となってしまったから。

お釈迦様だけでなく「大切な方」が無くなってしまった・・・



さらに


亡くなった = 縁起が悪い(死を忌み嫌う) = 北枕


となり、


北枕 = 縁起が悪い


となってしまったのです。


なぜ、このような誤解が生じてしまったのでしょうか。





それは、「生」と「死」の分別、区別が原因だと私は思います。


区別・分別をすると、どうしても善と悪に分けたくなります。


縁起が良い・縁起が悪いと分けたくなるのです。


「生」と「死」も「生」が良くて「死」が悪いものと分けてしまうからこそ、


「死」= 悪い 


となり、


「死」 = 北枕 


に「死」= 悪い を代入すると


北枕 = 悪い 


となってしまうのです。




禅・坐禅では 区別・分別 離れることを説きます。

「生」と「死」も分けることはありません。

死を考えることは生きることを考えることであるように、二つを分けて考えることはできないことを示す


「生死一如」



という言葉もあります。


結局、縁起が良い・悪いということは自分が決めていることであり、自分に振り回されているだけのことかもしれません。




以前、法話会でご一緒したことがある、臨済宗 建長寺派 東学禅寺(神奈川県小田原市) 住職 笠龍桂和尚は寺報(お寺の新聞)で次のように生死一如を紹介されていました。

素晴らしい言葉ですので引用させていただきます。



私たちは、とかく「生」と「死」を別に考えがちだが、「生死」は表裏一体であり、「生」の中にある「死」を見つめることによって、「生死」の分別を超える境地を自覚するのが、禅の教え「生死一如」である。


だから、生と死を分離して考えることは禅の教えになく、したかって「死を克服」する必要もないのである。

   
あえて「死を克服する禅の教え」があるとすれば、「生と死」この「過去と未来」を前後際断した、「今の命」を精一杯生きる、ということである。




葬式仏教から 仏教の未来を考える 【その2】 先祖を敬うのに 宗教を信じないのはなぜ?

600お棺の前





葬式仏教から 仏教の未来を考える 【その2】 

~先祖を敬うのに 宗教を信じないのはなぜ?~

※【その1】本来の葬儀とは何か はこちらをクリックするとご覧いただけます。





寺院デザイン代表取締役の薄井秀夫氏が複数の資料を提示してくださいました


資料1 日本人の宗教を信じる人の割合

宗教を信じる  26% 
宗教を信じない 71%
※ただし、宗教を信じると答え人の多くは新興宗教やキリスト教を信じているため“仏教を信じている”と答える人はごくわずか


資料2 日本人で先祖を敬う心を持っていると答える人の割合

先祖を敬う心を持っている  約94%
先祖を敬う心を持っていない 約5%



この資料を見て、薄井氏は


“宗教”というと“なんだか怖い”というイメージを持っている人が多いため、信じるとは言い切れない。

しかし、“ご先祖様”には素直に手を合わせることができるのが日本で暮らす人々の感覚である。

日本で暮らす人々がこの心を忘れなければお葬式が無くなることはない。

葬式仏教と悪口を言う人もいますが、私はこの言葉は悪い言葉ではなく、僧侶を含めた宗教者こそが人々の一番の苦しみに対して手を差し伸べて救える存在だということ示した言葉だと考えている。仏教は求められており強い。



このように話してくださったように記憶しています。





この言葉を聞いて少しだけ安心すると共に、かなりの危険性を私は感じました。


ほとんど人が先祖を敬う心を持っているにも関わらず仏教とのつながりを持っていないという現実が、71%の人が「宗教を信じない」と答えたアンケート結果にあるのだと思います。



仏教は確かに強い。

仏教のことを学べば学ぶほどそのように感じます。

お葬式も亡くなった方を大切に想う気持ちが多く詰め込まれた素晴らしい儀式です。

しかし、そのことを伝えきれていないからこそ、「宗教を信じない 71%」という結果が出ているように感じます。そしてその結果が私に


「仏教の教えを伝える立場であるお前の姿は仏教者として恥ずかしくないのか!」


と訴えかけてきているように感じます。





先祖供養は大切にするのにお葬式をしないのは仏教の教えを伝える僧侶への信頼不足だとすれば仏教聖典の




衣を着ているから出家なのではなく

托鉢しているから出家なのではなく

経を誦んでいるから出家なのではなく

外形がただ出家であるのみ

ただそれだけのことである


形がととのっても、煩悩をなくすことはできない

赤子に衣を着けさせても出家とよぶことはできない。


心を正しく統一し、智慧を明らかにし、煩悩をなくして、ひたすらさとりに向かう出家本来の道を歩く者でなければ、まことの出家とはよばれない。





という一文を今一度見つめ直す必要があると感じます。

葬式仏教から 仏教の未来を考える 【その1】 本来の葬儀とは何か

600葬儀出棺


“自分はできている!” と思い込んでいました・・・・




先日、寺院デザイン代表取締役の薄井秀夫氏が臨済宗の僧侶の勉強会で「葬式仏教から仏教の未来を考える」と題して講演をしてくださいました。




その中で、僧侶でない薄井氏は僧侶に向かって


「私は葬儀のときに睡魔と戦っています。何かありがたいことをしてくれていると感じてはいるものの何をやっているのか分からない!だから退屈だし眠くなるのです。」


と言った発言をされました。




心の中で私は

「そうですよね、説明が必要ですね。私は葬儀のときに説明していますよ。」

と答えます。




すると薄井氏は

「皆さんの中には説明をしている方もいるようですが、ほとんどの和尚様が説明をされず葬儀を進めている。」

と続けます。




再び心の中で私は

「うん、うん。みんな説明をしましょうよ。」

と相槌をうちます。




そんな私の相槌を知ってか知らずか、

「皆さん、本来の葬儀って何だと思いますか?」

と問題を投げかけてきます。




心の中で私は

「本来の葬儀は供養する気持ちを中心とした大切な儀式でしょう。説明も含めて!!」

大きな声で答えました。





ところが、薄井氏は

「参列者が和尚様と一緒に亡くなった方を送る儀式です。参列者が参加するのが葬儀です。」

と言ったのです。





これまでの私は、葬儀は亡くなった方を供養し残された私達がこれからどのように生きていくかを学ぶ大切な儀式であり、僧侶として参列される方々に説明責任を果たしたい。この素晴らしい儀式についてもっと多くの方に知って欲しい。


だからこそ、葬儀の際には「これから○○をします。これは□□と言った意味があります。」と説明をしてきました。


しかし、このような実践をしていたために大切なことを見失い“自分はできている!” と思い込んでいました。





大切なことは参加者が“参加していると実感しながら亡くなった方を送る”ことだったと教えていただきました。







薄井氏は講演の中で



葬儀の役割には

・社会的処理 (死の告知 別れの式)
・遺体の処理
・霊魂な処理(宗教的儀式)
・悲嘆の処理 (カウンセリングも含む)
・様々な感情の処理 (共同体に与える畏怖の軽減)



という5つがある。


そして葬儀がなくても社会的な処理や遺体の処理はできるが、・霊魂な処理(宗教的儀式)、悲嘆の処理、様々な感情の処理 (共同体に与える畏怖の軽減)は代わりを見つけることが難しいと話してくださいました。





葬儀をすることによって得られるこれらの安心には参列者が葬儀に参加したという実感が必要不可欠です。


“実感”をするために、私自身ができることはこれまでしてきた説明を見直すことだと感じています。


参列者と共に送ることを大切にしながら


「これから○○をします。これは□□と言った意味があります。」


だけではなく


「ですから、皆様は亡くなった方の△△な一面を思い出しながら一緒に手を合わせてお参りください。」


といった一言をよく考えて付け加えていきたいと感じました。

涅槃【ねはん】を学ぶ

先日、お世話になっている和尚様に


「お葬式のことについて 私達僧侶はもっと勉強しなくてはいけない」


と一冊の本を紹介していただきました。





その本とは




600涅槃経 平川師200117



自在に生きる 【涅槃経】 著者:平川彰


です。






涅槃経【ねはんぎょう】とは


涅槃経は、詳しくは「大般涅槃経【だいはつねはんぎょう】」と言います。「涅槃経」とは「完全な涅槃」という意味でして、お釈迦さまが肉体を捨てて、無余依涅槃【むよえねはん】に入られたことをいうのです。

これは凡人で言えば「死の記録」と言うような意味になるでしょう。お釈迦様が死に際して、どのような死にかたをなさったかということを示した経典です。



※本文より






私は以前、子供坐禅会でお釈迦様が亡くなるときの様子が描かれた涅槃図について話したことがあります。

※涅槃図についてまとめたページはこちらです。



自在に生きる 【涅槃経】 (著者:平川彰)はその際に手にすることがありませんでした。

まだ、全てを読んだわけではありませんが、興味深い箇所も多くあり、少しでも多くのことを学んでいきたいと感じる1冊に出会うことができました。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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