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食事五観文 その5 【いま生命あるは有難し】

みなさんは死にそうになったことはありますか?


私は小学生の頃に車にはねられて奇跡的に命が助かったことがあります。


・・・3か月ほどの入院中は、ベッドに固定されて動けず、退院間近になってようやく車椅子での移動ができるようになったほどです。




大人になってからも大きな病気をして「このまま死ぬのかな!?」なんて感じたこともありました。


10年前(2011年)の東日本大震災のときも、地震発生時には静岡にいましたが、お寺とは離れた場所にいたため急いで沿岸部の道路を走ってお寺に戻りました。


後からニュースで知ったのですが私が走っている、まさにその瞬間、その場所にほんのわずかですが小さな津波が到達していたのです。


まさか自分が走っているところに津波が来るなんて思ってもいませんでした。


たまたま津波が低かったので助かっただけで、”想定外”の津波が来ていれば私は確実に死んでいました。


事故のときのことを思い出したり、病気のこと、地震のことを思い出すと、今・ここで生きているということはどれだけありがたいことなのか改めて実感することがあります。



・・・しかし、今自分が生きていることを実感するのは「死にそうになった」ときだけでいいのでしょうか。


九死に一生を得るような劇的なときにしか自分の命を実感することができないのでしょうか。


もちろんそうではありません。







食事の前に「いただきます」と挨拶をしますが、禅宗ではもう少し丁寧な言葉があります。


それが食事の前にお唱えする食事五観文【しょくじごかんもん】というお経です。



食事五観文は食事をする際の誓いの言葉であり、5つの言葉から成り立っています。


その中に


仏道修行を完成するために、この食事をいただきます。


という意味の


五つには、道業を成ぜんが為に、まさにこの食を受くべし
【いつつには どうぎょうを じょうぜんが ために まさに このじきを うくべし】



という言葉があります。


みんなが幸せになるために この食事をいただきます


と言い換えることもできる言葉です。



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「みんなだ幸せ」とはどういうことでしょうか


私は「ありがとう」があふれる世界は「みんなが幸せ」な世界だと考えています。


では「ありがとう」があふれる世界とはなんでしょうか?



実は、仏教の大切な教えに


「いま生命あるは有難し」


という言葉があります。 この言葉は私達が普段からよく使う「ありがとう」の語源にもなっていると言われています。


今・ここに命が「有る」ことはとても「難しい」ことだと示す教えであり、生きているということは奇跡の積み重ねだと忘れてはいけないのです。


しかし、私たちはどうしても大きな出来事がない限りそのことを忘れてしまいます。



だからこそ、毎日の食事の際に


五つには、道業を成ぜんが為に、まさにこの食を受くべし


とお唱えし、生きているということは奇跡の積み重ねだと忘れずに、いただいた命を生かし切って生きていくことを誓う必要があるようです。


食事五観文 その4 【薬を飲むときには用法用量を守ります】

600食事五観文四



私は花粉症です。


そのため、寒い冬が終わり暖かくなって春を実感すると少しつらい気持ちになってきます。


しかし、だからといって手をこまねいているだけではいけませんので薬の力を借りるようにしています。


この季節は目薬と飲み薬を手放すことはできません。


もちろん用法用量を守って使っています。


目がかゆいからと言っていつもの2倍の量を点眼しても増えるわけではありません。


飲み薬も2倍飲んだからと言って2倍効くわけではありません。


かえって余分に飲むことで副作用が出てしまい体に負担をかけてしまうこともあります。


薬は決められた量を飲むことが大切だと言われて、「いやいや、俺はたくさん飲みたいんだ!」という人は多くありません。


決められた量を、決められた時間に飲むことが正しいことだと認識できているのです。






食事も同じです。


食事の前に「いただきます」と挨拶をしますが、禅宗ではもう少し丁寧な言葉があります。


それが食事の前にお唱えする食事五観文【しょくじごかんもん】というお経です。


食事五観文は食事をする際の誓いの言葉であり、5つの言葉から成り立っています。


その中に


この食事は、心と体の健康を保つ良薬と心得ていただきます。

という意味の


四つには、正に良薬を事とするは 形枯を療ぜんが為なり
【よつには まさに りょうやくを こととするは ぎょうこを りょうぜんが ためなり】



という言葉があります。


心と体の健康のために いただきます


と言い換えることもできる言葉です。



食事が私達の健康を支えるものであるならば、食事は薬であると言っても過言ではありません。


薬であれば用法用量を守らなくてはいけないのですが、どうしても 美味しいものは際限なく食べたくなり自分の好みに合わないものは排除したくなりがちです。


薬を飲むときに、「この薬はおいしいからたくさん飲もう。この薬は苦いから飲まないようにしよう」とは考えません。自分の健康のために、美味しくても苦手でもありがたく飲みます。


食事も同じです。


全ては自分自身を支えてくれるありがたいものなのだと実感しながらいただかなくてはいけないのです。


しかし、どうしてもそのことを忘れてしまうからこそ


食事の前に「四つには、正に良薬を事とするは 形枯を療ぜんが為なり」とお唱えするのです。





また、薬の効果を調べるときには


効き目のあるくすりを服用していると本人が思い込むことによって、病気がよくなる「プラセボ効果(偽薬)」ということも考えなくてはいけません。


私達の思考が体に直接影響を及ぼすこともあるのです。




薬の用法用量や偽薬のことを考えると


食事の前後で薬を服用する際には、目の前の食事も薬なのだと考えながらいただく。

薬を服用しなときには、食事そのものが薬なのだと感じながら食事をする。


これらの実践が私達の心と体の健康を支えてくれることは間違いありませんので、食事の際には手を合わせて「いただきます」というときに「この食事は 心と体の健康のためにいただきます」と思い出していただければ幸いです。

食事五観文 その3 【お米1粒に88の苦労、では半粒なら苦労は44!?】

600食事五観文四






私も家族の食事を作ることがありますが、食事を作るときに3人前を作るのも4人前作るのも苦労は同じだと思います。同じものを作るのであれば1人前だからといって苦労が減るわけではありません。


昔から、”米”という漢字の成り立ちを含めて「お米1粒を作るのに88(八十八)の苦労がある」と言われています。


では、1粒ではなく半粒だったら苦労は半分になるのでしょうか。


もちろんなりません。


88の苦労があります。


では、1/4粒なら!?


もちろん22の苦労ではなく88の苦労があります。


と、言うことは茶碗にこびりついてしまったお米にも88の苦労があるのです。






食事の前に「いただきます」と挨拶をしますが、禅宗ではもう少し丁寧な言葉があります。


それが食事の前にお唱えする食事五観文【しょくじごかんもん】というお経です。


食事五観文は食事をする際の誓いの言葉であり、5つの言葉から成り立っています。


その中に


心を正しく保ち、あやまった行いを避けるために、過ちを持たないことを誓います。


という意味の

三つには、心を防ぎ、過貧等を 離るるを 宗とす
【みつには しんをふせぎ とがとんとうを はなるるを しゅうとす】


という言葉があります。



心を正しく保ち、あやまった行いを避けるために、過ちを持たないことを誓います。


普段の生活でも大切にしなくていけないことですが、食事に目を向けたときには


「欲張らず、残さずいただきます」


と言い換えることもできます。



”残さず”というのは本当に難しいことです。

茶碗にこびりついたお米にも88の苦労が詰まっているのであれば、この1粒にも満たないこびりつきすら残してはいけないのです。



だからこそ禅宗の食事だけでなく、古くからの習慣として【洗鉢:せんぱつ】があるのです。


洗鉢とは、鉢を洗うことです。


鉢とは食事をする際に使う食器です。
※托鉢を受ける器も同じものです。


つまり、食器を洗うことです。


「え、食器を洗う!? 誰でも洗うよ!!」


と思うかもしれませんが、多くの方が想像する洗剤とスポンジを使って台所で行う食器洗いとは少し違います。



洗剤の代わりにお茶、又はお湯

スポンジの代わりにタクアンを使い、

洗う場所は台所ではなく、食事をした場所なのです。






食事が終わると、使っていた器にお茶を注ぎタクアンでこびりついたお米をそぎ落とし、お茶もタクアン、そぎ落としたお米も全てを飲み干しいただくのです。


この習慣には多くの意味が込められていますが、


「残さない」を徹底的に行った姿だと私は捉えています。


こびりついた部分にすらお米の”いのち”を感じて大切にするための習慣なのであり、「欲張らず、残さずいただく」ことの実践なのです。




こういった、大きい・小さいなどと言った形にこだわることなく全ての“いのち”を大切にする習慣こそが、「心を正しく保ち、あやまった行いを避ける」ために大切なことになるのです。



心を正しく保つために、


慣れない洗鉢を突然することは難しいかもしれませんが、徹底的な「残さない」に挑戦し、習慣になっていくことを願っています。

食事五観文 その2 【こぼれ落ちた稲穂のいのち】

600食事五観文二





以前、中学校の教員をしているときにバケツを使ったお米の栽培に挑戦をしたことがありました。


栽培用の説明書の通り生徒達と栽培をしたところ、無事に収穫をすることができました。


収穫した稲穂を乾燥させ、精米をする作業は理科室で行いました。


栽培を大変でしたが、機械などありませんので手作業での精米は予想以上に苦労をしました。


それらの作業も無事に終わって


ご飯が食べられることはとてもありがたいことだと実感をしたことをよく覚えています。





しかし、それよりも衝撃的だったのが何日かしてから理科室の水道を見たときです。


記憶にある方もいらっしゃるかもしれませんが理科室の水道の排水溝には常に水が溜まっています。


その溜まった水の中から1本の稲が顔を出していたのです。


精米作業中にポロリと1粒の稲穂が水道に落ちて発芽したのです。


この小さい一本の稲を見たときに、言葉では言い表せない感動に身体が震えました。


と、同時にお米を栽培することで苦労を知ったつもりになっていた自分が恥ずかしくなりました。


栽培して精米をするまでの私は「お米」をお米としか見ていなかったのです。


理科室の水道で芽吹いた稲も環境さえ調えば無数のいのちを育みます。


私はそのことがまったく見えていなかったのです。


目の前にあるお米の中にある無数の「いのち」に気がついていなかったのです。


だからこそ、芽吹いた緑の中に「いのち」を感じたときに、感動と今まで気づいていなかった恥ずかしさや後悔などの感情がいっぺんに押し寄せてきたのです。







食事の前に「いただきます」と挨拶をしますが、禅宗ではもう少し丁寧な言葉があります。


それが食事の前にお唱えする食事五観文【しょくじごかんもん】というお経です。


食事五観文は食事をする際の誓いの言葉であり、5つの言葉から成り立っています。



その中に


自分の日々の行いを反省してこの食事をいただきます。


という意味の


二つには、己が徳行の全けつを忖って供に応ず
【ふたつには おのれが とくぎょうの ぜんけつを はかって くにおうず】



という言葉があります。




私は、ポロリと落ちた1粒の稲穂が発芽した姿を目の当たりにしたとき、この言葉を思い出しました。


目の前にあるお米の中にある無数の「いのち」の存在を実感したとき、どんなに苦労をしたつもりでも、その「いのち」をいただけるだけのことをしたのか自分を省みなくてはいけません。


そして、省みればどのように生きていけば良いかが見えてきます。


そのときに初めて、いただいた「いのち」を無駄にすることなく生かし切る生き方を歩み始めることができるのだと感じました。


食事五観文をお唱えすることはできなくても


食事をする際に手を合わせたときに自分を振り返ってから「いただきます」と挨拶をするのも良いかもしれません。

給食を黙って食べることは「かわいそう」なのか

コロナウイルス感染拡大を抑えるために会食自粛が叫ばれています。


これは大人の世界だけではありません。


子供達の世界に同じことが求められています。


子供達の場合は「給食の時間に話しをしてはいけない」ということが求められています。



給食の時間におしゃべり禁止令が出ている学校は少なくないようですが、このようなことが行われていることを知った人の中には


「食事(給食)を黙って食べるなんてかわいそう」


という方もいます。



先日、そのような方の意見を拝読させていただきました。その方は教育関係のお仕事をされている方で、様々な著書も書かれている方でした。


その方が書かれた「黙って給食をたべること」に関する記事(論文!?)を見ていると、給食を食べる際には


「楽しく食べる・楽しい気持ちで食べる」ことがとても大切だと書かれていました。



600食事五観文 202101231




楽しく食べることができれば、自然と美味しく食べることができる。


美味しく食べることができれば給食の時間が楽しくなり、学校が楽しくなる。




その通りです。


もちろん、これは間違いないことです。



この方はさらに



だからこそ給食を黙って食べることはかわいそうなことであり、黙って食べる給食は楽しくない。楽しくないと給食は美味しく感じないし、学校もつまらなく感じてしまう。


と、言うのです。




お寺では食事の前に食事五観文【しょくじごかんもん】というお経をお唱えし、黙って食事をします。


個人的に、私はこの食事風景が美しく尊いものだと感じています。


食事五観文は食事をする際の誓いの言葉であり、




この食事がどうしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝をいたします。


という意味の


一つには、 功の多少を計り彼の来処を量る
【ひとつには こうの たしょうを はかり かの らいしょうを はかる】


と始まります。






600食事五観文 202101232

「おいしくいただく」、「楽しくいただく」ことは食事をする際に大切な要素です。


その他にも大切な要素はありますが、その全てを支えているのが「ありがたくいただく」ことなのです。





何か危機的な状況で自分の命を救ってくれた人に「ありがとう」とお礼を言うときに、テレビを見ながら御礼を言う人はいません。


隣の人とおしゃべりをしながら「ありがとね」という人もいません。


スマホをいじりながらも言いません。





目の前の食事をありがたくいただこうと考えたとき、


目の前の食事の中に存在する無数の命を目の当たりにしたとき、


目の前の食事がここに届くまでの多くの方の支えを感じたときに、


誰かと話したり、テレビを見たり、スマホをいじりながら、その食事と向き合えることができるのでしょうか。



そんなことはできません。


ただ、ありがたく感謝しながら食べることしかできないのです。


だからこそ、お寺の食事は”黙って食べる”こと美しくも尊いのです。



600食事五観文 202101233





せっかく黙って食事をする機会があるのならば


給食を黙って食べることがかわいそうと考えるよりも、


給食を黙って食べることは「全てもの感謝する」実践だと考えた方が幸せな食事になるのではないでしょうか。

人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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