fc2ブログ

自己紹介やお知らせなど 【固定記事】

【東光寺の行事について】
冬休み子供坐禅会 開催
12月25日(土)~12月31日(金) 毎朝7時30分~
※詳しくはこちらをご覧ください


令和3年11月より 写経会再開しました!!
※詳しくはこちらをご覧ください。

【仏教豆知識シールの郵送について】
オンライン坐禅会開催にともない、みんなの坐禅会(子供坐禅会)で参加者に配布している坐禅手帳と仏教豆知識シールの郵送を始めました。詳しくはこちらの記事をご覧ください。


【自己紹介】
氏名:横山友宏 

東光寺 副住職 (静岡市清水区横砂)
袖師保育園事務職員

昭和54年(西暦1979年)誕生。高校まで静岡で過ごし科学にはまって理学部 物理学科卒業。科学の楽しさを伝えたくなり公立中学校勤務(理科担当 時々技術 部活は卓球部顧問)。その後いろいろあって現職です。

600ホームページ ブログ用ボタン 自己紹介
※自己紹介はこちらの記事で詳しくさせていただいています


【開催案内】
600ホームページ ブログ用ボタン 子供坐禅会 600ホームページ ブログ用ボタン オンライン坐禅会 600オンライン坐禅会 ロゴ作成等5 600ホームページ ブログ用ボタン セノバ カルチャー イス坐禅 600ホームページ ブログ用ボタン 寺子屋 中止

遺教経に学ぶ 【1-4】

600オンライン坐禅会 法話 遺教経 正方形1-4




これまで、

 釈迦牟尼仏、初に法輪を転じて、阿若憍陳如(あにゃきょぢんにょ)を度し、最後の説法に須跋陀羅(しゅばつだら)を度したもう。

という遺教経の一文について紹介をしてきました。


遺教経はお釈迦様が亡くなられる際に説いた最後の教えです。


この最後の教えを東光寺ではお通夜の際にお唱えします。


お通夜が始まる際に、まずお唱えするのが遺教経です。


その最初の言葉が


釈迦牟尼仏、初に法輪を転じて・・・


という一文です。


これは


 お釈迦様は、初めに5人の弟子に、そして最後にスバッタ教えを説き、悟らせた。


という言葉です。


そのまま見ていけば、お釈迦様の最初と最後の御弟子様を紹介しているだけのようにも見えますが、実際は違います。


以前の記事でも紹介をしているのですが、この一文は



・初めの5人の弟子からは、変わりゆくもののなかに大切な変わらないものがあること、


・最後の弟子からは、変わるときに年齢の制限などない、代わりたいと思ったときに人はいつでも変わることができる


ということを示してくれています。




私は、さらにこの一文を通夜の際にお唱えするときに感じることがあります。

それは、お釈迦様・弟子・悟らせた という言葉は 次のように置き換えることができるよう感じています。



お釈迦様 → 亡くなった親や子、家族、そして大切な人

弟子 → 私自身

悟らせた → 同じ境地になった



つまり


お釈迦様は、初めに5人の弟子に、そして最後にスバッタ教えを説き、悟らせた。


という一文は




大切な人と、出会ったときから今までに様々なことを教えてもらった。

そして同じ心になれることを知った。


同じ心になるということは、大切なあの人と一体になることであり、


これからもその心で一緒に生き続けることができるということ。





ということを思い出させてくれているように感じます。

手を合わせると、つけっぱなしの電気に気がつける!?

夕方頃から外で塔婆の炊き上げをしていたときのことです。


ひたすら、お経を読みながら塔婆を燃やしました。


ようやく炊き上げを終えた頃には日は沈み、周囲は真っ暗になっていました。



600障子と灯り

ふと本堂を見ると、事務机の電気がついたままになっていて光が外に漏れていました。



炊き上げを始めたときは夕方、周囲が明るいから電気がついたままになっていることに気がつきませんでした。



電気の光量に変化はありません。常に光続けていました。


周囲が暗くなったから光に気がつくことができたのです。



仏教の教えなどの”救い”を「光」に例えることが多くあります。

同様に迷いや苦しみを「暗闇」に例えます。


暗くなってつけっぱなしの電気に気がついたとき、


暗闇に落ちて初めて救いに気がつくことができると感じました。




私達は、つけっぱなしの電気と同様に、誰かを救い続けようとしている人のことになかなか気づくことができません。

電気のつけっぱなしはもったいないのと同じように、

救いに気がつかないのはもったいないことです。



電気のつけっぱなしに気がつくために「立ち止まって振り返る」ことが大切です。

同じように”救い”に気がつくためにも、「立ち止まって振り返る」ことが大切です。



私は普段の生活の中で合掌することを「立ち止まって振り返る」ことだと考えています。

分解と再生と環境

600合掌160126



テスト直前になって机の上や部屋の片づけを始めたことはありませんか。

私はよくやっていました・・・

「テスト勉強をする環境を整えるぞ!!」と自分に言い訳をして勉強から逃げていただけかもしれません・・・

でも、やっぱり環境は大切かもしれません。




先日からこのブログ
・絵葉書 松樹千年翠
※記事はこちらです。
・動的平衡 禅語「松樹千年翠」との共通点
※記事はこちらです。

という二つの記事の中で禅・坐禅の説明と生物学者福岡伸一氏の言葉の共通点について紹介をしてきました。

この中で、生命の説明として


「分解と再生を繰り返すことで環境の変化に適応できる」


という言葉を紹介してきました。



分解と再生を繰り返すことで環境の変化に適応できるということは、


分解と再生をしたときに、環境の変化に適応できる部分だけが残っていく




ということです。



分解と再生を繰り返したときに、AというものとBというものができたとしたら、環境に適応しているどちらかが残っていくということです。


ということは、分解と再生をする環境によって出来上がるものが違ってくるのです。



これが生命の本質なのだと思います。



そして、「環境」を「習慣」という言葉に変換すると、このことを普段の生活に当てはめることができます。



悪い習慣の中で分解と再生を繰り返せば、悪い部分が生き残り、

良い習慣の中では良い部分が残ると言えます。




ここで言う「良い習慣」、「悪い習慣」とはどういうことでしょうか。


それは、何か特別なことではありません。私達はすでに受け取っている習慣です。



その1つが「合掌」です。


合掌の心を


右ほとけ 左凡夫と合わす手の 中ぞゆかしき 南無の一声


と表します。


合掌をしたとき、私達の心は調っていきます。


合掌をして呼吸を調えれば、煩悩の心は少しだけ分解され、生まれ変わり仏の心が残ります。


こういったことから


「分解と再生を繰り返し環境の変化に適応できる」


という言葉に触れたとき、


合掌のような良い習慣「環境」によって 尊い心が目覚めるのは生命の本質だと私は感じます。

動的平衡 禅語「松樹千年翠」との共通点

先日、このブログでインスタ(インスタグラム・Instagram)に掲載した「松樹千年翠(しょうじゅ せんねんの みどり)」という禅語について紹介をしました。
※記事(絵葉書 松樹千年翠)はこちらです。


この中で、松が緑を保つために分解と再生を繰り返していると紹介をしました。この「分解と再生を繰り返す」ということは仏教や禅の中でしか使われない言葉ではありません。

むしろ科学の世界で使われる言葉かもしれません。




600本 動的平衡

生物学者の福岡伸一氏は著書 「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」 (木楽舎)の中で、生命について次のように紹介をしています。



サスティナブルなものは常に動いている。
(※サスティナブル = 持続可能な)

その動きは「流れ」、もしくは環境との大循環の輪の中にある。

サスティナブルは流れながらも環境との間に一定の動的平衡状態を保っている。

一輪車に乗ってバランスを保つときのように、むしろ小刻みに動いているからこそ、平衡を維持できるのだ。

サスティナブルは、動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を作り替えている。それゆえに環境の変化に適応でき、また自分の傷を癒すことができる。

このように考えると、サスティナブルであることとは、何かを物質的・制度的に保存したり、死守したりすることではないのがおのずと知れる。

サスティナブルなものは、一見、不変のように見えて、実は常に動きながら平衡を保ち、かつわずかながら変化し続けている。

その軌跡と運動のあり方を、ずっと後になって「進化」と呼べることに、私たちは気づくのだ。






松が絶えず緑色を保つことから、その変わらない姿の尊さを示す禅語「松樹千年翠」の紹介を読んでいるかのような文章だと感じました。


この文章を読んだとき、科学と宗教には共通する部分があることを改めて実感することができました。


さらに、


サスティナブル(持続可能なもの:生命)は、動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を作り替えている。それゆえに環境の変化に適応でき、また自分の傷を癒すことができる。


という言葉が印象的です。


分解と再生を繰り返すから環境の変化に適応できる。


この文章は坐禅の説明にも通じるように感じます。



坐禅は呼吸を大切にします。

全てを吐き出し、吐きつくしたら新鮮な空気を取り入れる。

この呼吸を繰り返すことで、心が静かになっていきます。

そして坐禅では、この呼吸一息の中に命の再生があると説きます。

吐ききることは死に切ること、吸うことで新しいいのちを実感することなのです。

この状態になったとき、「今、自分がいる場所こそが極楽浄土であった」と知ることができるのです。




改めて


「分解と再生を繰り返すことで環境の変化に適応できる」


という言葉は


「息を吐いて死に切り、息を吸って新しいいのちを実感することで、今ここが素晴らしい場所だと気がつく」


に通じています。



生命を科学的に突き詰めて説明したら、人の心のあり方をつきつめた禅語や坐禅の説明と同じになる。


当然といえば、当然かもしれませんが、とても興味深いことです。

人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

最新記事
カテゴリ
検索フォーム
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる