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自己紹介やお知らせなど 【固定記事】

【自己紹介】
氏名:横山友宏 

東光寺 副住職 (静岡市清水区横砂)
袖師保育園事務職員

昭和54年(西暦1979年)誕生。高校まで静岡で過ごし科学にはまって理学部 物理学科卒業。科学の楽しさを伝えたくなり公立中学校勤務(理科担当 時々技術 部活は卓球部顧問)。その後いろいろあって現職です。

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※自己紹介はこちらの記事で詳しくさせていただいています


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ファミコンのリセットボタンとPCの再起動

600更新プログラム 20220623





先日ファミコンをリセットボタンについて記事を書きました。
※記事はこちらです。



このときに、


ファミコンにリセットボタンはあるが

肉体にリセットボタンはない

しかし心のリセットボタンは

いつでも自分で押すことができる




という言葉を書きました。





実は、この言葉はオンライン坐禅会で話した内容です。


その坐禅会に参加している方から、





今の時代だと、リセットボタン というより→再起動ボタン かもですね。 パソコンに「再起動」ボタンがあるように、人生にも再起動ボタンはある。 くれぐれも、シャットダウンボタンを押さないように・・・ですね。






という感想をいただきました。


まさに、その通りだと思いましたし、この言葉に「更新プログラム」を加えたくなりました。




パソコンは再起動ができるが

肉体は再起動できない

しかし心の再起動は

いつでも自分ですることができる

仏法と言う更新プログラムを受け取り再起動することもできる




ファミコンのリセットボタンについて

600ファミコン






中学生の頃に、ある先生が


「ファミコンにリセットボタンはあるが、人生にリセットボタンはない。」


と話してくれました。


とても、説得力がある言葉ではありますが、中学生の私には、つらい言葉でした。


「リセットができない」という言葉は


自分がしてしまったミスは取り返しがつかないということをしめしています。


このことは悲しいことですが納得はできます。


しかし、「リセットできないと」いう言葉には


「生まれ持った理不尽な差を、どんなに努力をしても埋めることができない」


という意味も持っています。


どこに生まれたのか、どこで生活をしているのか。肌の色、髪の性質、誰に育てられたか・・・





変えたくても変えられないものはたくさんあります。


自分の意思とは関係なく、受け入れなくてはいけない現実があるのです。


これを「リセットできない」と断言されると、本当につらくなります・・・・




般若心経という和尚に


得阿耨多羅三藐三菩提 【とく あ のく たら さんみゃくさんぼだい】


という言葉があります。

日本語にすると


この上なく  正しく等しい 悟りがある


という意味になります。


臨済宗の和尚様で布教に尽力をされ続けた松原哲明師は著書の中で「得阿耨多羅三藐三菩提」について以下のように紹介をしています。


正しく等しい悟りなどというと、自分には関係なく、無縁なものだと思っている人もおられよう。


しかし、だれでも仏になれる仏性をもっているのである。そのことに気づくかどうかである。



それを気づかせてくれるのが、『般若心経』なのである。


人が仏性をもっている具体的な姿は、生まれたばかりの赤ん坊である。その無心な姿と心こそが悟った仏さまの心と同じなのである。


誰もが生まれたばかりの赤ん坊を体験しています。


誰もが無心な姿を体験しているのです。


と、言うことは




現状が辛くても、私達は「リセットボタン」を押すことで、誰もが体験した赤ん坊と言う無心な姿に戻ることができるのです。



そう考えると、



「ファミコンにリセットボタンはあるが、人生にリセットボタンはない。」



は言い方を変えることができるように思えます。



私なら

「ファミコンにリセットボタンはあるが、人生にリセットボタンはない。」


と言う言葉は

「ファミコンにリセットボタンはあるが、肉体にリセットボタンはない、しかし心のリセットボタンは、いつでも自分で押すことができる。」

と言い換えます。

補足 【渓声便是広長舌 山色豈非清浄身】:けいせい すなわち これ こうちょうぜつ  さんしょくあに しょうじょうしんに あらざんや

昨日の記事で「渓声便是広長舌 山色豈非清浄身」という禅語を紹介させていただきました。
※妻と私のやり取りを紹介した記事はこちらです。




600インスタ用 絵葉書 渓声便是広長舌 山色豈非清浄身4



今回の記事は前回の補足です。



妻に、「禅語は?読む気がうせるほど長いんだけど…」


と言わしめた

渓声便是広長舌 山色豈非清浄身
【けいせい すなわち これ こうちょうぜつ  さんしょくあに しょうじょうしんに あらざんや】

について補足をさせていただきます。


昨日の記事では


【渓声便是広長舌】
(けいせい すなわち これ こうちょうぜつ)


渓声は谷川の音と山々の色、広長舌は仏様の舌を表しています。
だから、【渓声便是広長舌】は「谷川で聞こえてくる川の音は仏の声である」という意味。


【山色豈非清浄身】
(さんしょくあに しょうじょうしんに あらざんや)
清浄身は汚れのない身体のことで、仏身を表しています。
だから、【山色豈非清浄身】は「山々の姿が、そのまま仏様の姿である」という意味です。



と紹介をさせていただきました。



この禅語にはとても有名な逸話があるのですが、昨日の記事では長くなるため紹介をすることができませんでしたので、ここで紹介をさせていただきます。




登場人物は中国の詩人、蘇東披(そとうば)です。


蘇東披は、役人であり詩人でした。


しかし、あるときに皇帝を批判したと濡れ衣を着せられて左遷されてしまいます。


左遷された蘇東披は仏教を学ぶようになります。


そして、照覚和尚と出会い、「無情説法の話」という問題を出されます。



この「無情説法の話」というのは次のような問答です。






ある修行僧が慧忠国師という師匠に質問をします。


修行僧
「無情、つまり山や川や石ころなどの無生物も法を説いているのでしょうか」

慧忠国師
「途切れることなく、いつもさかんに法を説いているよ」

修行僧
「それならば、どうして私には聞こえないのでしょうか」

慧忠国師
「それは君が勝手に聞かないだけのことで、無情が君に聞こえないようにしているのではないよ」

修行僧
「わかりません。それなら無情の説く法を誰なら聞くことができるのでしょうか」


慧忠国師
「聖人だちなら聞くことができるよ」


修行僧
「それならば和尚さん、あなたは聞いておりますか」


慧忠国師
「いや、私は聞いておらん」


修行僧
「あなたも聞いていないのに、どうして無情が説法しているのがわかるのですか」


慧忠国師
「私か聞いていないのは君にとって幸せだ。私かもし説法を聞く立場にいれば、私も聖人になってしまう。そうなれば木や石ころになって君に説いてやれず、君は私の説法を聞けなくなってしまうよ」


修行僧
「無情でなければ無情の説法が聞けないならば、私たち人間には法を聞く望みがないではないですか」


慧忠国師
「だからこそ、無情の立場に立つ私は人間のために話しているのであって、聖人のために説いているのではないよ」


修行僧
「それならば、人間が無情の説法を聞いたらどうなるのでしょうか」


慧忠国師
「それこそ人間ではない、無情だよ」





この「無情説法の話」という問題を与えられた蘇東城は理解することができません。


悩みに悩むのですが、理解できなかったのですが、別の場所へと移動しなければいけなくなりました。


そこで、移動をしているときに、ある渓谷にさしかかり、谷川のせせらぎの音を聞き、忽然と悟りを開き、そのときの感動をうだったのが、


【渓声便是広長舌】
(けいせい すなわち これ こうちょうぜつ)
「谷川で聞こえてくる川の音は仏の声である」


【山色豈非清浄身】
(さんしょくあに しょうじょうしんに あらざんや)
「山々の姿が、そのまま仏様の姿である」


だったのです。





蘇東披は渓谷の景色があまりにも美しかったので感動をしたのでしょうか。


そうではありません。


蘇東披の心が変化したからこそ、これまでにも見てきたはずの景色が違って見えた。


そのことに感動をしたのです。




知らず知らずのうちに、自分の知識や経験を通して物事を見るようになり、そのために見えなくなった景色があり、聞こえなくなった音があったのです。


私達も気づかないうちに心に耳栓をしてしまっているかもしれません。

しかし、耳栓を外せば、聞こえなかった音が聞こえるようになります。

同じように気づかないうちに心にアイマスクをつけてしまいます。
そんなアイマスクを外してみたら、見えなかった景色が見えるようになることを教えてくれているのです。


後は、それを実体験するだけです。


・・・そこは当然難しいのですが。

毎週土曜日はインスタの日  渓声便是広長舌 山色豈非清浄身 

 【毎週土曜日はインスタの日】



毎週土曜曜日にインスタ(Instagram・インスタグラム)を更新し、その内容をブログにも掲載しています。



Instagram(インスタ・インスタグラム)はこちらです
※これまでの記事はこちらです。


写経会で配布する絵葉書を作成しました。



600【絵葉書】大日如来



今回は


【渓声便是広長舌】
(けいせい すなわち これ こうちょうぜつ)
 
【山色豈非清浄身】
(さんしょくあに しょうじょうしんに あらざんや)


と言う禅語を紹介したくて、妻に大日如来を描いてもらい、


「私は間違ってない」を捨てたとき 聞こえる音がある。見える景色がある。


という言葉を加えました。


この絵葉書について妻と会話をして、その内容をインスタにアップしました。




600インスタ用 絵葉書 渓声便是広長舌 山色豈非清浄身2
600インスタ用 絵葉書 渓声便是広長舌 山色豈非清浄身3
600インスタ用 絵葉書 渓声便是広長舌 山色豈非清浄身4
600インスタ用 絵葉書 渓声便是広長舌 山色豈非清浄身5
600インスタ用 絵葉書 渓声便是広長舌 山色豈非清浄身6
600インスタ用 絵葉書 渓声便是広長舌 山色豈非清浄身7
600インスタ用 絵葉書 渓声便是広長舌 山色豈非清浄身8
600インスタ用 絵葉書 渓声便是広長舌 山色豈非清浄身9
600インスタ用 絵葉書 渓声便是広長舌 山色豈非清浄身10



大日如来、という仏さんを言われるがままに描いてみました!如来だけど飾りいっぱいで珍しいんだよね。



そうですね、書いてもらいました。ありがとうございました。



この仏さんのこともよくわからないし、めっちゃ長い禅語もちらっと書いてあるけど、これもわからない…。今回わからないことだらけっす。



ですねよ。
説明不足で申し訳ありません。
大日如来は仏教で大切にされていている仏様で、宇宙の真理を現し、宇宙そのものを指すと言われているんだよ。
個人的にはウィキペディアの「仏の悟りの境地そのものである法身は、色も形もなく、説法もしないとされるが、大日如来は法身でありながら説法を行う」という説明が好きです。この説明が今回の絵葉書の禅語の説明と共通する部分があるんだよね。



ってことは、悟りってほんとはカタチには見えないけど、あえて見えるカタチにして、しかもしゃべっちゃうよ、ってのが大日如来ってことかー。



上手な説明ですね。その通りです。



ありがとさん。
で、禅語は?読む気がうせるほど長いんだけど…



確かに、長いね~

【渓声便是広長舌】
(けいせい すなわち これ こうちょうぜつ)

【山色豈非清浄身】
(さんしょくあに しょうじょうしんに あらざんや)

実は、短縮版もあるんだよ。
【渓声山色】ってね。



キムタク、とか、逃げ恥、みたいな短縮の仕方だわ~




!!!
渓声は谷川の音と山々の色、広長舌は仏様の舌を表しています。
だから、【渓声便是広長舌】は「谷川で聞こえてくる川の音は仏の声である」という意味。

同じように清浄身は汚れのない身体のことで、仏身を表しています。
だから、【山色豈非清浄身】は「山々の姿が、そのまま仏様の姿である」という意味です。



声と姿を表していたのか!


昔の和尚さんが悟りとは何かを悩みに悩んだ末に、ある渓谷にさしかかって、谷川のせせらぎの音を聞きハッと悟りを開き、そのときの感動を「川の音が仏の声で、山が仏の姿。いつでも、どこでも仏の声が聞こえ、仏に出会っていた」と言葉にしたんだよ。



感動ダダ洩れだ!



この感動と、大日如来の「仏の悟りの境地そのものである法身は、色も形もなく、説法もしないとされるが、大日如来は法身でありながら説法を行う」という説明は同じことを教えてくれているように感じるんだよね~。



ここでつながるのかー
やっと納得。描いてるときは全然わからんかったけど(笑)

でも、川のせせらぎを仏の声と感じるには相当修行つまなきゃダメっしょ?



そうだね、せせらぎを聞いた瞬間に、ハッと悟るには相当な修行が必要だね。でも、私達にも今すぐできる修行があるよ。
その1つが、自我とも言われる「私は間違ってない」という感情を捨てること。自分自身が「私は間違っていない・私だけが正しい」という耳栓をしていたり、アイマスクをしていることに気がつかないで、大切なことが聞こえなくなったり見えなくなることはよくあるからね。




そうだねー。私は自分の価値観だいぶ押し付けちゃうとこあるからな。ここを疑ってみるのって難しいけど、必要なんだよね。




と、私も自分に言い聞かせています。





東光寺ではこのようなイラストの絵葉書を写経会のお土産として差し上げています!

東光寺写経会は
毎月23日 10時~

詳しくはこちらをご覧ください。

人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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