この記事は東光寺(静岡市清水区横砂)のみんなの坐禅会(子供坐禅会)と臨済宗青年僧の会で開催しているオンライン坐禅会(子供坐禅会)を同時開催で私が話した内容をまとめたものです。
※東光寺(静岡市清水区横砂)のみんなの坐禅会(子供坐禅会)についてはこちらをご覧ください。
※臨済宗青年僧の会 オンライン坐禅会についてはこちらをご覧ください。
ある言葉に救われたことがあります。
4人で会議をしているときに、とっても失礼な発言をされと時のことです。
3人が思わず引いてしまうくらいの言葉でした。
私は、あまりに失礼な発言だったので、対抗して文句を言ってやろうと考えました。相手の言っていることはただの悪口でしたし、反論すれば相手を言い負かすこともできると思っていると・・・
その姿を見た方が私に
「相手と同じ土俵に立ってはいけないよ」
と止めてくれたのです。その言葉を聞いて「私は、悪口を言う人と同じことをしようよしていたのかもしれない」と気がついてハッとしました。
冷静になって考えてみると、とても失礼な発言をした人の心は“道を見失って、暗闇をさまようような辛い状態”だったのです。
その人が道を見失って暗闇をさまよっているからといって、自分も一緒に暗闇に落ちる必要はない。あなたはその人を照らす光とならなくてはいけないと教えてくれたのです。

人は簡単に道を見失います。
この写真は何を撮影したものか分かりますか?
実は、道です。
東光寺には観音山という頂上に観音様が祀られている小さな山があります。
しかし、日当たりの良い場所はしばらく放置をすると・・・・
この通り。雑草が生い茂って道が見えなくなってしまいます。
でも道が無くなったわけではありません。
道が見えないだけなのです。
このように道を見失った状態を、仏教では「無明【むみょう】」と呼びます。

見えなくなった道ですが、草を刈れば道は見えてきます。
私達の迷い苦しむ心も同じです。
無明という暗闇の中にも光は差し込みます。
真実に気づかずに悩み苦しむ「無明」を照らしてくれる光は何でしょう。

仏教聖典という書物に
「無明とは無知のことで、 ものの道理をわきまえないことである。」
と、書いてあります。さらに
正しい智慧のない状態をいう。迷いの根本である無知を指す。煩悩を煩悩たらしめる原動力のようなものととらえられている。
とも書いてあります。
草だらけのこの状態、つまり すぐそこにあるコンクリートの道が見えない状態が「無明」と言います。
そこにあるものを見つけることができず、自分が進むべき道を見失ってしまっているのです。
コンクリートがあると認識できれば その道の周辺にある草を刈っていくことができます。
しかしコンクリートがあることに気がついていないとすれば、そこから動くことができません。
これを仏教の話にすると、
生まれたときから誰しもが仏様のような尊い心をもっていることを知らない、否定することなのです。
般若心経というお経の中に
是大明呪【ぜいだいみょうしゅ】という言葉があります。般若心経というお経の素晴らしさを伝える言葉であり、
般若心経の教えは不動明王が闇を照らすような私達を照らす光明である。
と受け取ることができます。

般若心経の教えを実践することが、自分の心を照らすことになる。とも言うことができます。
草だらけの道の草を刈れば道を見つけて歩き出すことができる。
心が暗闇になったとき、そこを照らす光が必要です。
その光はどこにあるのか、もちろん誰かに照らしてもらうこともあります。
しかし、自分自身で照らすことができる、それも とっても強い光で照らすことができると般若心経は是大明呪【ぜいだいみょうしゅ】という言葉で教えてくれています。
般若心経の実践の1つが、やはり坐禅です。
生まれたときから持っている素晴らしい心を見つめ直して調えていく実践が坐禅です。
身体を調え、呼吸を調えることで、心が調っていくことを実感するのが坐禅です。
さぁ、一緒に身体を調え、呼吸を調え、心を調えましょう。