家族葬について

500こまめ 涅槃シリーズ 涅槃図 


私は個人的に「家族葬」とは、家族がお客様になって座っていることではなく、家族が参列者を迎えて一緒にお参りすることだと信じています。






世間では「家族葬」という言葉が浸透してきています。


個人的な意見ですが、本当は昔からの行われてきた葬儀こそが家族葬だと思っています。




東光寺(静岡市清水区横砂)は臨済宗(禅宗)のお寺です。




東光寺では葬儀の際に


葬儀はお別れの儀式でもあり、授戒【じゅかい】の儀式です。


と説明をさせていただいています。


授戒とは仏教徒になるための儀式であり、「戒」とはそのための約束事です。

戒を受け、頂く名前が「戒名」です。





そして、これらの儀式の際には花、果物、お菓子、お膳など様々なお供え物がされますが、葬儀に参列してくださった方々の真心も大切なお供え物です。



このように様々なお供え物を見返りの心を持たずにお供えすることこそが、仏教の大切な修行のひとつである「布施行(見返りを求めず誰かの為にできる限りのことをすること)」なのです。




そして、葬儀には「施主【せしゅ】」がおり、



施主は、施しをなす主(あるじ)のことを示す言葉です。



つまり、自ら費用を出して葬儀を開き、参列者のお参りを助けるのが施主の役割なのです。


亡くなった方の方を想い、お参りに来て下さる方をお迎えし、その方々の布施行を助けるのが施主であり、その施主を様々な形で支えるのが家族なのです。




お寺のどの法要も私達が幸せに生きていく方法を知るための修行です。



つまり、「家族葬」とは亡くなった方の家族がお参りをしながらも、家族が参列者を迎えて一緒にお参りすることで、参列してくださった故人と縁のある人々と共にこれからもしっかりと生きていくことを誓う儀式だと信じています。

木魚が大好きなお客様

500読経 こまめ カラー

法要に子供が参加することは珍しい事ではありません。


静かに坐っている子供、広い本堂に興奮して走ろうとして怒られる子供など、彼らを見ていると飽きることはありません。


先日、東光寺(静岡市清水区横砂)の法要にやってきた男の子も、見ていてまったく飽きさせません。


彼は木魚が大好きなようです。


お経が始まる前から木魚をじっと見ています。


そしてお経が始まり、私が木魚を叩いていると、その子供もお経を読みながら私の手の動きを真似していたのです。


彼は経本を片手に持ってお経を読みながら、空いている手を一生懸命動かし、まるでそこに木魚があるかのように手を動かし続けました。


本当に微笑ましい姿でした。





禅の言葉(禅語)の中に賓主【ひんじゅ】という言葉が出てきます。


賓とは賓客、主とは亭主を意味しています。


賓客とは大切なお客様を意味する言葉ですが、禅の言葉として使われる「お客様」と、今の時代の「お客様」には大きな違いがあるように感じます。



今の時代の「お客様」は立場が上になっているように感じます。


「お金を払っているんだから、多少の無理は聞きなさい!だって私はお客様なんだから」


といった恥ずかしい人達も出てくるほどです・・・


しかし、禅語の中での「賓」、「賓客」、「お客様」は決して「立場が上」でもなく「えらそうにする存在」でもありません。


「迎え入れられ立場」なのです。


上でも下でもありません。ひとつの「立場」なのです。


そして、大切なのが自分の立場を守ることなのです。


「迎え入れられ立場」になったのならば、相手の立場を犯すことなく、徹底的に迎え入れられるのです。





木魚が大好きな男の子は立派な「お客様」でした。


「俺はお客様なんだから、俺に木魚を叩かせろ!」


とわがままを押し通そうとする今の時代の間違った「お客様」ではなく、一生懸命お経を読みながら、自分の立場で精一杯、彼だけに見える木魚を叩き続けたのです。


相手(実際に木魚を叩く私)の立場を犯すことなく自分にできることを精一杯する姿こそが立派な「お客様」だったように感じます。

「自分が正しい」という思い込み

500ブログ 星の書き方1



先日、「星の書き方で性格が分かる」という心理テストが紹介されていました。



驚きました。



星の書き方が人によって違うなんて知りませんでした。



「星の書き方は誰でも同じ」



と思い込んでいましたが、人によって書き始めの位置が違うそうです。



500ブログ 星の書き方2



・・・しかも、①~⑤まで 見事なくらい書き始めが人によってバラバラだそうです。




私達はついつい、なんの根拠もないのに



「自分の考えと周囲の考えは同じ!」と思い込んでしまいます。



私自身も



「星は誰もが④から書き始める」



と思い込んでいました。




決して「自分が正しい」と思い込んではいけないことを、星の書き順に教えてもらった気がしました・・・

「やった方が良いならやるよ!」ではダメ・・・

500茶礼180404

子供坐禅会などで、小学生に手伝いを頼むと


「はい!」


と気持ちの良い返事を返してくれる子供と出会うことがあります。



清々しい気持ちになります。



なぜ 「はい!」 という返事は気持ちが良いのでしょうか。


仏教の言葉を使うと「分別【ふんべつ】」がないからだと思います。



分別とは

「良い」と「悪い」など2つに分ける考え方であり、仏教では分別をしないことを説いています。





子供坐禅会のお茶の時間に

「お菓子を配って!」

とお願いをすると、間髪入れずに


「はい!」


と返事をして動き出す子供もいます。


これが実に清々しいと感じています。


間髪を入れないから清々しいのです。


間髪が入ると言うことは


「やった方が良いかな!??」


という分別の心が出てきてします。


わずかな差ではありますが、


「・・・してください!」


と言われたときに


「・・・はい!」


となるのか


「はい!」


となるのかでは、やはり


「・・・」


は無い方が良いのです。





しかし、私も何かを頼まれたときなど、返事にも「・・・」が入ってしまいます。
子供達の清々しい「はい!」という返事に触れるたびに、自分自身の「・・・」を取り除くための努力を続けていかねばと考えています。

誰かの為に手を合わせるとこ


500合掌160126



ある和尚様に「合掌【がっしょう】」について興味深い話を聞かせていただきました。



「以前だったら僧侶が合掌(手を合わせ)礼拝(頭を下げる)をすれば、自然と周囲の人達が同じように合掌礼拝をした。
しかし最近はしない。自分に向かって手を合わせられれば合掌をするが、そうでなければしない!」




と言うのです。



法要の前後で僧侶が正面に向かって合掌礼拝をしたとき、以前は一般の方も自然と手を合わせて頭を下げたのです。


しかし最近は、「合掌してください、礼拝してください」と呼びかけないと動かないことが増えたとのことです。


僧侶が挨拶のために参列者に向かって頭を下げれば、今も昔も、頭を下げるそうです。




つまり、頭を下げるという動作ができないのではありません。




何かを自分に対してしてくれる人には自分も何かを返すが、自分から誰かの為に何かすることが難しくなった。




とも言えるようです。





東光寺(静岡市清水区横砂)の本山である妙心寺には



人間の尊さにめざめ 自分の生活も他人の生活も大切にしましょう



という教えがあります。自分だけでなく、他人も大切にするのです!



他人を大切にするためにはどうしたら良いのでしょうか?



様々なことが考えられますが、普段の生活に勝るものはありません。



静かに手を合わせて誰かの為に、自分から頭を下げる。



これも大切な修行です。



このことを繰り返すことで



「私のために、誰かが何かしてくれたから私もお返しをしよう」



ではなく



「誰かの為に喜んで何かをしよう」



という気持ちになり、この気持ちの積み重ねこそが、人間の尊さにめざめるための第1歩になるのではないでしょうか。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、30代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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