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監視社会から拝みあいの社会へ

以前のニュースで、東京都の弁当店が 「売り場の様子をYouTube上でライブ配信したら万引きが激減した」 と紹介されていたことが記憶に残っています。



誰かに見られていると悪いことはしにくいものです。



監視社会だと感じる人もいるかもしれません。



しかし私は、このような監視社会の先に“拝みあいの世界”が広がっていると信じています。






仏教では誰もが尊い仏の心を頂いていると説きます。






600合掌こまめ





臨済宗妙心寺派の信心のことばには

衆生(生きとし生けるものすべて)は本来仏なりと信じて、拝んでゆきましょう

と、あります。





私も仏の心を持ち、相手も仏の心を持っていると信じて相手を大切にしていきましょう。



と伝えてくださる言葉です。






菩提和讃【ぼだいわさん】というお経に



この身すなわち仏にて 仏が仏を念ずれば、一声唱うる称名も、諸仏の浄土に通徹す





という私が好きな一節があります。




自分自身が仏だと実感し 仏を拝むということは 仏が仏を念じている姿であり 一言唱える称名が諸仏の浄土に到達し、はっきりと響き渡っている



と伝えてくださる言葉です。




監視することは見つめ合わなければできません。


そして、どうせ見つめ合うならば拝みあう関係性の方が素敵だと感じます。






自分と相手を信じて見つめることが監視社会から抜け出し拝みあう世界へと変化することを願っています。

「臨済会報」に原稿を掲載していただきました


大変有難い御縁をいただき、東光寺(静岡市清水区横砂)で行っている寺子屋体験と子供坐禅会について
臨済会が発行する臨済会報(令和2年3月1日発行 第279号)に掲載していただきました。



600臨済会報279

※東光寺の子供坐禅についてはこちらをご覧ください。
※東光寺の寺子屋体験についてはこちらをご覧ください。


臨済会とは、東京上野にある宋雲院さんを拠点とした、東京都内の臨済宗寺院、約100ヶ寺より構成されている任意団体です。
その臨済会が発行しているのが臨済会報です。



今回の掲載に当たって、寺子屋体験や子供坐禅会が始まった経緯や私自身の考えも書かせていただきました。




どこかで「臨済会報」と出会う御縁がありましたら、御一読いただければ幸いです。

伝えるために必要なこと

新幹線の待合室で売られていた本の中に”親も子もハッピーになる最強の子育て”という小川大介氏が書かれたものがありました。その本の帯に書かれていた言葉に心打たれました。




問題集(ドリル)はやらせるものではない 2冊買うもの






600ドリルと問題集




親として子供の成長を願い、問題集(ドリル)を買い与えることは難しいことではありません。


しかし、2冊購入して自分も一緒にやることは簡単ではありません。


と、言うよりも恥ずかしながら私にはその発想がありませんでした・・・





子供に向かって


「お父さんも子供頃は勉強をがんばったんだ!」


と言ったところで、その言葉には何の効果もありません。子供の頃にがんばったかどうかなど子供には興味のないことです。子供にとって大切なのは、今自分に語り掛けている大人が何をしているかなのです。



偉そうなことは言うのに 努力している様子がなかったり 言っていることと裏でやっていることが反対な大人を見て「大人って嫌だな」と思っていた自分が



問題集(ドリル)はやらせるものではない 2冊買うもの



という言葉を見て、「そりゃそうだ!」と思わずに、ハッとするような大人になってしまったことを反省しています。







禅語(禅の教えを短い言葉で表現した言葉)の中に


以心伝心【いしんでんしん】


という有名な言葉があります。禅語の解説本には



心を以って心に伝える。最高の真実を伝えるのに文字や言葉は用いず、体験などを通して心から心へ伝えるという禅の教えの真髄を、端的に示した語。釈尊が花を拈じたのを見て摩訶迦葉が微笑んでその教えを受け取ったという、『無門関』等に収められる有名な故事は、その典型的な例。



とあります。釈尊が花を拈じた・・・と言う逸話は






お釈迦様が昔、インドの山に登られて、花を手に取り説法を聞こうとする大勢の弟子達に見せました。


すると、大勢の弟子たちはお釈迦様が何を伝えたいのか無言で考えていました。


その中でただ1人、摩訶迦葉尊者【まかかしょう そんじゃ:十大弟子のひとり】が思わず顔をほころばせたのです。


その姿を見てお釈迦様は


「私は仏教の真髄たる煩悩の火が吹き消されたを誰もが持っている尊い心具えている。その尊い心に気がつくための、迷いや妄想から離れる修行法や仏の教えを身につけている。
それらは文字にすることなく、以心伝心するものである。いま迦葉尊者には確かに伝わった。」


言われたのです。





というものです。




お釈迦様は御弟子様と共に生活し修行をされていました。師匠と弟子という関係はありますが共に修行をされてきたからこそ、お釈迦様は摩訶迦葉尊者の心が分かり、摩訶迦葉尊者はお釈迦様の心が分かったのです。言葉などなくても伝わる心があることを私達に教えてくれているのです。




「私が教えてやるんだ!私が偉いんだ!」


という間違った自尊心を持ってしまえば相手に何も伝わりません。




以心伝心で何かを伝えたいと思ったときには


「問題集(ドリル)はやらせるものではない 2冊買うもの」


という言葉を思い出すようにします。

葬式仏教から 仏教の未来を考える 【その2】 先祖を敬うのに 宗教を信じないのはなぜ?

600お棺の前





葬式仏教から 仏教の未来を考える 【その2】 

~先祖を敬うのに 宗教を信じないのはなぜ?~

※【その1】本来の葬儀とは何か はこちらをクリックするとご覧いただけます。





寺院デザイン代表取締役の薄井秀夫氏が複数の資料を提示してくださいました


資料1 日本人の宗教を信じる人の割合

宗教を信じる  26% 
宗教を信じない 71%
※ただし、宗教を信じると答え人の多くは新興宗教やキリスト教を信じているため“仏教を信じている”と答える人はごくわずか


資料2 日本人で先祖を敬う心を持っていると答える人の割合

先祖を敬う心を持っている  約94%
先祖を敬う心を持っていない 約5%



この資料を見て、薄井氏は


“宗教”というと“なんだか怖い”というイメージを持っている人が多いため、信じるとは言い切れない。

しかし、“ご先祖様”には素直に手を合わせることができるのが日本で暮らす人々の感覚である。

日本で暮らす人々がこの心を忘れなければお葬式が無くなることはない。

葬式仏教と悪口を言う人もいますが、私はこの言葉は悪い言葉ではなく、僧侶を含めた宗教者こそが人々の一番の苦しみに対して手を差し伸べて救える存在だということ示した言葉だと考えている。仏教は求められており強い。



このように話してくださったように記憶しています。





この言葉を聞いて少しだけ安心すると共に、かなりの危険性を私は感じました。


ほとんど人が先祖を敬う心を持っているにも関わらず仏教とのつながりを持っていないという現実が、71%の人が「宗教を信じない」と答えたアンケート結果にあるのだと思います。



仏教は確かに強い。

仏教のことを学べば学ぶほどそのように感じます。

お葬式も亡くなった方を大切に想う気持ちが多く詰め込まれた素晴らしい儀式です。

しかし、そのことを伝えきれていないからこそ、「宗教を信じない 71%」という結果が出ているように感じます。そしてその結果が私に


「仏教の教えを伝える立場であるお前の姿は仏教者として恥ずかしくないのか!」


と訴えかけてきているように感じます。





先祖供養は大切にするのにお葬式をしないのは仏教の教えを伝える僧侶への信頼不足だとすれば仏教聖典の




衣を着ているから出家なのではなく

托鉢しているから出家なのではなく

経を誦んでいるから出家なのではなく

外形がただ出家であるのみ

ただそれだけのことである


形がととのっても、煩悩をなくすことはできない

赤子に衣を着けさせても出家とよぶことはできない。


心を正しく統一し、智慧を明らかにし、煩悩をなくして、ひたすらさとりに向かう出家本来の道を歩く者でなければ、まことの出家とはよばれない。





という一文を今一度見つめ直す必要があると感じます。

葬式仏教から 仏教の未来を考える 【その1】 本来の葬儀とは何か

600葬儀出棺


“自分はできている!” と思い込んでいました・・・・




先日、寺院デザイン代表取締役の薄井秀夫氏が臨済宗の僧侶の勉強会で「葬式仏教から仏教の未来を考える」と題して講演をしてくださいました。




その中で、僧侶でない薄井氏は僧侶に向かって


「私は葬儀のときに睡魔と戦っています。何かありがたいことをしてくれていると感じてはいるものの何をやっているのか分からない!だから退屈だし眠くなるのです。」


と言った発言をされました。




心の中で私は

「そうですよね、説明が必要ですね。私は葬儀のときに説明していますよ。」

と答えます。




すると薄井氏は

「皆さんの中には説明をしている方もいるようですが、ほとんどの和尚様が説明をされず葬儀を進めている。」

と続けます。




再び心の中で私は

「うん、うん。みんな説明をしましょうよ。」

と相槌をうちます。




そんな私の相槌を知ってか知らずか、

「皆さん、本来の葬儀って何だと思いますか?」

と問題を投げかけてきます。




心の中で私は

「本来の葬儀は供養する気持ちを中心とした大切な儀式でしょう。説明も含めて!!」

大きな声で答えました。





ところが、薄井氏は

「参列者が和尚様と一緒に亡くなった方を送る儀式です。参列者が参加するのが葬儀です。」

と言ったのです。





これまでの私は、葬儀は亡くなった方を供養し残された私達がこれからどのように生きていくかを学ぶ大切な儀式であり、僧侶として参列される方々に説明責任を果たしたい。この素晴らしい儀式についてもっと多くの方に知って欲しい。


だからこそ、葬儀の際には「これから○○をします。これは□□と言った意味があります。」と説明をしてきました。


しかし、このような実践をしていたために大切なことを見失い“自分はできている!” と思い込んでいました。





大切なことは参加者が“参加していると実感しながら亡くなった方を送る”ことだったと教えていただきました。







薄井氏は講演の中で



葬儀の役割には

・社会的処理 (死の告知 別れの式)
・遺体の処理
・霊魂な処理(宗教的儀式)
・悲嘆の処理 (カウンセリングも含む)
・様々な感情の処理 (共同体に与える畏怖の軽減)



という5つがある。


そして葬儀がなくても社会的な処理や遺体の処理はできるが、・霊魂な処理(宗教的儀式)、悲嘆の処理、様々な感情の処理 (共同体に与える畏怖の軽減)は代わりを見つけることが難しいと話してくださいました。





葬儀をすることによって得られるこれらの安心には参列者が葬儀に参加したという実感が必要不可欠です。


“実感”をするために、私自身ができることはこれまでしてきた説明を見直すことだと感じています。


参列者と共に送ることを大切にしながら


「これから○○をします。これは□□と言った意味があります。」


だけではなく


「ですから、皆様は亡くなった方の△△な一面を思い出しながら一緒に手を合わせてお参りください。」


といった一言をよく考えて付け加えていきたいと感じました。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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