「まず 坐れ」 が意味するところ

500坐禅こまめ カラー





東光寺(静岡市清水区横砂)は禅の教えを大切にする臨済宗(禅宗)のお寺です。




昔から



禅宗のお寺に悩みを相談に行くと、何も答えてもらえず 和尚に

「とりあえず、坐れ」

とだけ言われて坐禅をさせられる。




と、言われます。



驚くことに、これは実話です・・・



私も、このようなことを言われて衝撃を受けたことが若いころにありました・・・



しかし、様々な情報があふれ、説明責任を果たすことを要求される今の時代に「とりあえず、坐れ」と言われて坐禅を実際に行える人は多くはないのでしょうか。



「え、坐禅をすると私の悩みは解決するのですか?」



と疑問に感じてしまうのではないでしょうか。



疑いながら、言われたことをしても欠点ばかりが気になってしまい悩みが解決できないことも十分に考えられます。



では、なぜ禅宗の僧侶は



「とりあえず、坐れ」



と言うのでしょう。そこには、



不立文字【ふりゅうもんじ】



といわれる、禅の教えは言葉では言い表らわすことができないとの考え方があるのだと思います。



されに、



直指人心 見性成仏 【じきしにんしん、けんしょうじょうぶつ】



という、自分自身の中にある心を見つめて、本当の自分を体感することの大切さを説く言葉もあります。



悩みや苦しみは自分自身の心が生み出すものであり、その心を調えることの大切を伝えている言葉でもあります。




「とりあえず、坐れ」




という短い言葉には




「禅の教えは言葉では言い表らわすことができないが、あなたの悩みや苦しみは自分自身が作り出しているのではないでしょうか。


その悩みを解決するためには、まず自分自身の心を調えることが大切です。自分自身の心を見つめ直し、その心を見出すためにこれまでの禅宗の僧侶は坐ること・坐禅を大切にしてきました。



ですから、あなたも悩みを解決したいと本気で考えるのならば、坐って身体と呼吸と心を調えてみませんか。」





という優しさが詰まっているのだと思います。




込められた優しさに気が付くことができない人が悪いわけでも、伝わらない話し方をする人が悪いわけでもありません。



しかし、せっかく「とりあえず、坐れ」という優しい言葉をかけられたのに、嫌な気持ちになる人が少なくなることを祈って、あえて文章に残してみました・・・

干物はどちらが表なのか?

先日、おいしい干物をいただきました。



さっそく焼いて食べようと思ったのですが、干物を目の前に思い出した言葉がありました。それは、



「干物の表はどっち?」



という言葉です。



500干物の裏と表170612



我が家では食卓に干物が並ぶときには身の部分が見えるように置かれます。



500干物の裏と表1706122




皮の部分が見えるよう出されることはほとんどありません。



と言うことは身が表で、皮が裏になります。



しかし、水の中にいる魚は皮が見えていて身の部分は絶対に見えません。



皮が表ということになります。



不思議な話です・・・



開かれると裏が表に、表が裏になります。






禅の言葉(禅語)に賓主歴然【ひんじゅれきねん】という言葉があります。



賓【ひん】とは、大切な客人

主【しゅ】とは 客人を迎える主人



のことです。



賓主歴然とは主人と客の区別がはっきりと明白なことを意味する言葉です。



禅語の解説書には



主と客とが明確に分かれていて、互いにそのあり方を侵さないこと



とも書かれています。




客人は大切な客人として徹底的に振る舞い、主人は主人となりきる。



その2人が自分の役に徹することを説く言葉にも感じます。




魚も卵から成魚に成長する過程で、もともと卵と言う1つの細胞が分裂を繰り返し、ある細胞は皮になりまたある細胞は筋肉(身)になります。



筋肉になった細胞は皮になりたいと希望することなく、皮は皮の役割を果たします。



魚の干物を目の前にしたときに、



「裏なのか表なのか?」と悩むのではなく、魚の皮は皮であり、筋肉は筋肉の役割を果たすことを思い出し、自分に与えらえた役割に迷うことなく徹することの大切さを学ばなくてはいけないと反省しながらおいしく干物をいただきました。

うたって おどって 仏様


絵葉書を作りました。




500写経会 絵葉書作成ファイル 心豊か2



心の豊かな人は他人の長所が見え

心のまずしい人は他人の欠点ばかり見える





という言葉を紹介させていただいています。






白隠禅師坐禅和讃【はくいんぜんじ ざぜんわさん】というお経に





謡うも舞うも法の声【うたうも まうも のりのこえ】



という、



謡うことや舞うことなども仏の教えであり、仏の声である




という一節があります。




歌って 踊ることが 仏様である




?????




「謡うも舞うも法の声」の部分だけを眺めてみても、いまいち私には意味がつかみきれませんでした。



そこで、その前の部分を見てみました。するとそこには「無念の念を念として」とありました。




無念の念を念として

謡うも舞うも法の声





無念というと「残念無念」と感じるかもしれません。「念」は「心」と読みかえても問題はありません。




すると、「無心の心を心として」となります。無心とはこだわりのない素晴らしい心であり、ありのままに真実の姿を見ることができる心です。




するとこの一節は




ありのままに全てを見ることができる心になれば

謡うことや舞うことなど全てのものが仏の教えであり、仏の声と感じることができる





と考えることができるのです。




そして、「ありのままに全てを見ることができる心」こそが、絵葉書にある「心豊かな人」であり、心を豊かにするための実践とは国や地域、時代を超えて伝わってきた仏教や禅の教えの実践です。



具体的には坐禅・読経・通夜・葬儀・法事・法話・掃除などお寺での全てが、仏様の教えを感じる実践となるのです。




心豊かになったとき、謡うことや舞うことなど全てのものが仏の教えであり、仏の声と感じることができる。



つまりどんな人からも教えていただくことができ、相手を仏様だと感じることができる。




だからこそ他人の長所に気が付くことができるのです。



そのことを実感させてくれる場所こそが、これまで御先祖様が守ってきてくださった「お寺」なのだと思います。



だからそ、お寺や「家庭内のお寺」とも言われる御仏壇の前で手を合わせることで、心が調い、豊かに暮らしていくことができるのではないでしょうか。

幸運に気が付かない 情けない私

500幸運のタクシー





臨済宗中興の祖とも言われる、江戸時代の禅僧である白隠禅師【はくいんぜんじ】は、私達は誰しも「仏様のような尊い心」をいただいて生まれて来ることを、白隠禅師坐禅和讃というお経で説いていらっしゃいます。




この白隠禅師坐禅和讃の中には




衆生近きを知らずして

遠く求むるはかなさよ





という言葉があります。




私達自身が仏なのに

遠くに仏を探すのはもったいないことです





という意味です。






先日、京都を訪れた際に6人でタクシーに乗ることがありました。




宿の方にタクシーを2台手配していただきました。




しばらくするとタクシーがきたので、3人ずつに分かれて乗車しました。




目的地が近づき、信号で停車した際に運転手さんが突然




「本日はご乗車ありがとうございます。」




と1枚の紙を差し出しました。そこには




四葉のクローバー号乗車記念




と書いてありました。




出会う確率は1300台分の4




噂には聞いたことがあった珍しいタクシーに私達は乗っていたのでした!




しかし、乗車していたことには気づいていませんでした。




タクシーに乗る際に側面にも屋根にも「四葉」はしっかりとついていました。




でも気が付かない・・・




教えてもらって初めて気が付いたのです・・・




まさに




衆生近きを知らずして

遠く求むるはかなさよ





の実体験でした。

比べない 足元に大きなものがあるのだから

突然ですが、第1問!!



500比べない 足元に大きなものがあるのだから1




①と②はどちらが大きいでしょうか?






もちろん②です。







では、問題2!!

こちらの絵ではどうでしょうか?



500比べない 足元に大きなものがあるのだから2






難しくなります。①と②はどちらが大きいでしょうか?






500比べない 足元に大きなものがあるのだから3




二つを重ねてみますと②の方が少し大きいように感じます。









ほとんど同じということです。







禅宗の和尚様で大変有名な盛永宗興老師 【もりなが そうこう ろうし】は昭和58年3月25日発行の「不二」という機関紙のインタビューで







 和尚の力量というのは、たとえば老師が十で、僧堂へもろくに行かなかった坊さんが一だとしても、その差の九ではないと思います。

 どちらにも釈尊以来の祖師方の功徳が土台に入っていて、老師と普通の坊さんの差なんてのは、土台がこんなに巨大なのですから、ほんのちょっとのことなんです。

 私は、心底そう思っています。寺なんて、釈尊以来の仏法が被さっていなかったら誰がこんなにしてくれますか。






と話されています。





 臨済宗の僧侶で「老師【ろうし】」と呼ばれる和尚様は、多くの和尚を指導する立場の大変徳の高い、とってもえらい和尚様です。






その、老師と私のような未熟な者の差が「問題2」のように「ちょっと」しかないと言うのです。





なぜ、差が小さいのか・・・





私たちの足元には、私達1人1人が持つ個の力よりもはるかに大きい力があるからなのです。





500比べない 足元に大きなものがあるのだから4






これまでに伝わってきた良い伝統や習慣が私たちの足元にあるのです。





禅の言葉に


看却下【かんきゃっか】



 と言う言葉があります。







 ・自分の足下をよく見なさい。



 ・大切な教えを求めるとき、遠くばかりを見ずに身近なところをしっかり見てみなさい。





といった意味があります。足元をしっかりと確認することを忘れてはいけないことを説く言葉です。





そして、足元を確認すれば、釈尊以来の祖師方の功徳が土台に入っているのです。




盛永宗興老師の言葉を目にしたとき、看却下【かんきゃっか】、自分の足元にあり、自分自身の土台となって支えてくれている、これまで受け継がれてきた、大切な教えや習慣を今一度、学んでいきたいと感じました。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、30代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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