閻魔大王の怒りと地獄の変化 【その1】

500地獄絵ワンダーランド


先日まで龍谷大学で行われていた「地獄絵ワンダーランド」の中でプレミアムナイト企画


地獄絵 絵解き×音解き×美解き ~今夜は地獄へ行かナイト~


が行われ、参加させていただく御縁に恵まれました。




そこで、で西山 克 氏(関西学院大学文学部教授)による地獄絵の絵解きを聞いたときに



「地獄は時代によって変化します。地獄絵もだんだんと種類が増えていきます」



とおっしゃっていたことが印象に残っています。





そんな、言葉を思い出いしながら仏教聖典を読んでいたら、閻魔大王はこのまま時代が進んでしまったら、ものすごく怒るような気がしてきました。

仏教聖典の中に次のような逸話があります。







5003人の天使





人間世界において悪事をなし、死んで地獄に堕ちた罪人に、閻魔王が尋ねた。


閻魔王 「おまえは人間の世界にいたとき、三人の天使に会わなかったか。」


「大王よ、わたくしはそのような方には会いません。」




閻魔王「それでは、おまえは年老いて腰を曲げ、杖にすがって、よぼよぼしている人を見なかったか。」


「大王よ、そういう老人ならば、いくらでも見ました。」


閻魔王「おまえはその天使に会いながら、自分も老いゆくものであり、急いで善をなさなければならないと思わず、今日の報いを受けるようになった。」




閻魔王「おまえは病にかかり、ひとりで寝起きもできず、見るも哀れに、やつれはてた人を見なかったか。」


「大王よ、そういう病人ならいくらでも見ました。」


閻魔王「おまえは病人というその天使に会いながら、自分も病まなければならない者であることを思わず、あまりにもおろそかであったから、この地獄へくることになったのだ。」




閻魔王「次に、おまえは、おまえの周囲で死んだ人を見なかったか。」


「大王よ、死人ならば、わたくしはいくらでも見てまいりました。」


閻魔王「おまえは死を警め告げる天使に会いながら、死を思わず善をなすことを怠って、この報いを受けることになった。おまえ自身のしたことは、おまえ自身がその報いを受けなければならない。」







これが、もしもこのまま時代が進んで地獄でこのやり取りがされているとしたら





閻魔王「おまえは人間の世界にいたとき、三人の天使に会わなかったか。」


「大王よ、わたくしはそのような方には会いません。」




閻魔王「それでは、おまえは年老いて腰を曲げ、杖にすがって、よぼよぼしている人を見なかったか。」


「大王よ、そういう老人ならば、介護施設に任せたので見ていません。」


閻魔王「・・・」




閻魔王「おまえは病にかかり、ひとりで寝起きもできず、見るも哀れに、やつれはてた人を見なかったか。」


「大王よ、そういう病人なら病院に任せたので見ていません。」


閻魔王「・・・」




閻魔王「次に、おまえは、おまえの周囲で死んだ人を見なかったか。」


「大王よ、死人ならば、葬儀社に任せたので関わっていません。」


閻魔王「・・・、だめだこりゃ。」





となってしまっているかもしれません。






(話しが長くなってしまうので続きはまた次回とさせていただきます・・・)
※2話目は四門出遊【苦があるから悟りがある】
※3話目は山の竹が教えてくれる地獄と極楽
を予定しています。

布施の心は気軽な気持ち


禅の教えを分かりやすく説いた禅僧として有名な、山田無文老師の著書 「坐禅和讃講話」の中の





無難禅師は「三文の布施をする者無く、三文の布施を受くるものなし」と言っています。

何万円の大金でも、たった三文をあたえるくらいな、気軽な気持ちで布施ができなければならず、またたった三文を受け取るくらいな気安いこだわりのない心で、受けなければならないというわけです。






という一文に出会ったとき、小学生の子供を持つ女性が




500きれいなお賽銭




子供がお小遣い帳をつけていて「10円足りないけど何に使ったか分からない」と悲しんでいたけど、一生懸命1ヶ月の行動を思い出してみた結果、お参りに行ったときにお賽銭を入れたことをすっかり忘れていた。お賽銭のことはなかなか思い出せないものだ。







と話していたことを思い出しました。





聞けばその子供のお小遣いは月に100円とのこと。



未熟者の私がもしも月給の1/10をお賽銭に入れたら、しばらくは忘れることはありません。



しかし、この子供はすっかり忘れていたのです。 まさに、気軽な気持ちで布施ができていたのです。



「働いたことがないからお金の価値が分からないだけだ」



という方もいると思いますが、お賽銭を入れたことをすっかり忘れてしまった姿から、大人である我々が何を学ぶかが大切なのだと感じる今日この頃です。

スリッパをそろえるところから


500スリッパをそろえる1

心が落ち着いているときはできることが




500スリッパをそろえる3


イライラしたり




500スリッパをそろえる2


苦しいときにできないことがあります・・・・

先日よりブログで

500仏


「イ:ニンベン」はその名の通り「人」を表し
「ム」は「自分を表す古い字」
ということは
「仏」という字は「人間(人)としての本当の自分」






500私の漢字


私と言う字は「ム」と「禾:のぎへん」からできています。
「禾:のぎへん」に稲や麦を表し、現代で言う「お金」や「生活するうえで便利なもの」などの意味も含まれているので、
「ム」と書く本当の自分と同じくらいの大きさ、身の丈に合った「禾」があれば十分なのに、どうして「禾」が大きくなりバランスが崩れてしまいます・・・






500公と言う漢字

「公」は国家や社会、そして偏らないことを意味する漢字です。
「公:おおやけ」は穴の開いたフタを意味する「八」と「自分を表す古い字」である「ム」が重なってできています。フタに穴をあけるこ
とで、いつでも本当の自分である「ム」を外から見えるようにすることを意味している。





と紹介をしました。




それぞれの記事は↓↓↓をご覧ください。

「仏」という漢字の記事

「私」という漢字の記事

「公」という漢字の記事






私達が普段から大切にしなくていけないのは、本来の自分を意味する「ム」だと分かります。



やはり本来の自分を成長させ、磨いていくしかありません。



では、何をしたらよいのか・・・




今、自分にできることを精一杯やるしかないのです。




具体的に言えば、




自分のスリッパをそろえる。




誰かがそれていなければ、黙ってそろえる




など、身近な部分もしっかりと大切にしながら生活をしていくことが重要な気がします・・・

私のバランス

昨日のブログでは「人として本当の姿が仏様」と題して


「イ:ニンベン」はその名の通り「人」を表し、「ム」は「自分を表す古い字」


ということは


「仏」という字は「人間(人)としての本当の自分」



と紹介させていただきました。

※昨日の記事はこちらです。




500私の漢字




「仏」という字の他にも「ム」を用いた漢字はたくさんあります。



先日、「私」という漢字の意味も教えていただきました。




私と言う字は「ム」と「禾:のぎへん」からできています。




500私の漢字3





「禾:のぎへん」は稲や麦を表す言葉だそうです。




ですから、



刈り取った「禾」を「火」で乾かす季節が「秋」

刈り取った「禾」の中から納めるのが「税」




を表しています。





つまり、「稲」を表す「禾」には、現代で言う「お金」や「生活するうえで便利なもの」などの意味も含まれるのかもしれません。





改めて「私」という字を見てみると「禾」と「ム」のバランスが大切だと感じます。




「ム」と表す「本当の自分」と同じくらいの大きさ、身の丈に合った「禾」があれば十分なのです。





自分が食べて行ける分よりも、もっともっとと欲しがる餓鬼の心が出てくれば、




500私の漢字2




「禾」が大きくなりバランスが崩れてしまいます・・・





欲張る心を小さくし、本来の自分を高めていくと「私」のバランスが良くなるのではないでしょうか。

習ったことを素直に信じて実行することの大切さ

スクワットの正しい方法がテレビで紹介されていました。


私がこれまで習ってきたものとやり方が違ったので


「あ、そういうやり方もあるんだ・・・」


と受け流していました。


しかし、実際にそのスクワットを実際にしてみると、足に負荷がかかり心地よい足の疲れが出てきました。


効いてきたようです!!!





500仏教豆知識シール261 仏教説話3



仏教では布施、つまり誰かのために今自分ができることを精一杯することをとても大切にしております。



ですから、布施に関する話し(物語など)もたくさんあります。



その中に、老女の施しというお話があります。



貧しい老女がお釈迦様に布施をしたいと考えておりました。


しかし、どのように布施をしたらいいのか全くわからず途方に暮れていたところ、偶然御弟子様が通りました。


そこで老女はどのように布施をしたらいいのかと尋ねました。



お金がない、食べ物もない、そんな私がどのように布施をしたらいいのかと尋ねたところ、お弟子さんは



「まずあなたは自分の身を清めなさい。そして清めた体で川の水を一杯、私に布施しなさい。」


と言われました。



老女はそれなら自分にもすることができると大変喜び、言われた通り体を清め、そして川の水をお弟子様に布施されたそうです。



老女はその後、安らかに眠りそのまま命を終えました。



すると貧しい老女の周りには天女が降りてきて花を散らし老女の供養をしたと言われています。






この話は布施の尊さを説くと同時に、素直に教えてもらったことを実行することの大切さも教えてくれています。



「川の水を布施しなさい」



と言われたとき、



「本当に川の水で良いのだろうか?」

「それよりも、今着ている服の方が価値があるのではないか??」



など、感じてしまうかもしれません。しかし、そのように感じることなく素直に行動に移すことの大切さも説いてくれているように感じます。




布施の仕方がわからず途方に暮れていた老女がお弟子様と出会い、臆することなく質問をしたことによってこのお話(物語)も始まったように感じます。


わからないことをわからないままにせず、直接聞いて聞いたことを素直に受け取り実行することの大切さもこの話は教えてくれているのではないでしょうか。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、30代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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