やっぱり 科学が仏教(宗教)を観察できるくらいになってきた【忍辱:にんにく】

500達磨 ダルマ 石の上


私は末っ子です。


末っ子は自由に(甘やかされて)育てられるから我慢強さがない


とよく言われます。



あながち嘘ではないかもしれません。私に我慢強さが残念ながらありません。





そんな私は大学時代、理学部物理学科(光化学)で勉強をしていました。



そのころは



「科学こそ最先端で素晴らしい!! 仏教(宗教)なんて遅れている!!」



と本気で思っていました。



今考えると恥ずかしいほどの思い込みです・・・



理系の勉強をした後、仏教のことを学ぶようになると、これまで見えていた世界が変化し始めました。



これまで、科学で仏教(宗教)を見ていなかったので気が付いていないだけで、科学と仏教には密接なつながりがあり、これまで守られ伝えられてきた教えを科学でも少しづつ説明することができるようになってきたと感じるようになってきたのです。



例えば忍辱【にんにく】です。



仏教では彼岸(悟り)の世界に到達するための六つの方法(六つの正しい実践の道)を 六波羅蜜 と呼んでいます。



その六つの方法の中のひとつに忍辱【にんにく】があります。






耐え忍ぶことを意味する言葉です。



仏教では耐え忍ぶこと「ガマン」を大切にしているのです。





「ガマン」することが悪いことで、「ガマン」させないことが良いことと感じる方もいるのではないでしょうか。



育児書や教育関係の書籍には



「怒らない・叱らない」を大切にして、「自由」こそが素晴らしい。ガマンなんてしてはいけない!!



といった内容のものも多く目にします



しかし、ガマンすることを覚えずに大人になってしまい、個性と自己中心的な振る舞いの区別がつかない人が話題になることもあります・・・


先日、プレジデントという本で



我慢強い子は高学歴・高所得者になる



という記事が紹介されていました。



これは、専門家の研究等によって実証された事実です。



詳しい内容をここに掲載することは難しいのですが、



我慢強さや自制心があると、学力が伸びるそうです。




 それは、自制心や社会性がある子は、学校で先生の話にしっかり耳を傾け、懸命に勉強したり、スポーツや習い事をしたりすることができるためです。



さらに




 「重要なことは、自制心や社会性が伸びると学力は伸びるけど、その逆はないということです。」



と断言しています。



学力が伸びたからといって、必ずしも自制心や社会性などが高くなるわけではありません。





「子育ての順番としては、自制心を鍛えるほうが先なのです」





と、紹介されていました。こういった内容を見ても、やはり科学の力で、仏教(宗教)の世界(今回は忍辱)を説明できるようになってきていると感じます。

おんころころ せんだり まとおぎ そわか の意味は??

500ハンコ 豆知識シール原画 薬師如来 


東光寺(静岡市清水区横砂)では、
1か月に1度、皆様と共に



「おんころころ せんだり まとおぎ そわか」



とお唱えします。



その法要とは布薩会【ふさつえ】です。



初めて「おんころころ・・・」



という文字を見たとき



どんな漢字を書くのだろうか?



と疑問を感じました。



その、前後に書かれているお経などの文字は全て漢字で書いてあり、漢字にフリガナがついているのですが



「おんころころ せんだり まとおぎ そわか」



だけは、ひらがなだけで書いてあるのです。



説明文には



お薬師さん(東光寺の御本尊様である薬師如来)の御真言



と書いてありましたが、頭の中は「 ? ? ? 」でいっぱいでした。



真言という言葉を辞書で調べると



多く神々に対する呼び掛け,祈願の句であるが,この句それ自体に神聖な力が宿っていると考えられている



と書いてありました。つまり、古代インドから使われていた祈りの言葉であり、強い力を持つと考えられる言葉なのです。そして、真言はインドから中国そして日本へと伝わっていく過程で各国の言葉に訳されることなかったそうです。



なんとなく意味が分かりかけてときに、ある本のお経の説明文の中で真言について



その内容をあえて翻訳しなかったのは、音そのものが神秘的な力が備わっており、それが訳されることによって力が失われるとも考えられていました。



とも書いてありました。



と、いうことは



どんな漢字を書くのだろうか?



などという疑問に答えはないことを知りました・・・・





500豆知識シール原画 薬師如来 カラー




そして、禅宗の修行では「こだわり」捨てることを思い出し、



おんころころ せんだり まとおぎ そわか



とひたすらにお唱えすることは、一見すると黙って坐禅をすることを大事にする禅宗では受け入れられないと感じますが・・・



知識や理屈に対してのこだわりすら捨てることを説いているのだと分かったとき、



「どんな意味があるのか? どんな漢字なのか?」



と考えていた自分自身の未熟さをはっきりと痛感することができました。



それ以来、たいして成長することなく未熟な私ですが、最近はではできるだけ「意味はあるのか?」といった疑問から離れられるように大きな声で



おんころころ せんだり まとおぎ そわか



とお唱えするようにしています・・・

お布施はいくらですか? これが模範解答です

500観音様170617





結婚式に招待されたとき、新郎新婦に


「御祝儀はいくらですか?」


と真顔で質問する人はほとんどいないと思います。


新郎新婦との関係の深さから目安となる金額が分からなくても、ほとんどの人は直接本人に聞くことはせず、周囲の人に聞くのではないでしょうか。



しかし、僧侶に


「お布施はいくらですか?」


と質問する人は多くいます。答えに困ります・・・・




布施 【ふせ】とは仏教の大切な修行のひとつです。



自分の持っている物を分けたり、できることを 人の為、誰かのためにすることを意味しています。



残念ながら、世間では


お布施 = 読経の対価


という誤解が生じてしまっています・・・・



確かに「布施」の中には



自分の財産を施す 「財施【ざいせ】」 という行為もあります。



しかし、布施は財施だけではありません。



仏様の教えを伝える 「法施【ほうせ】」や人々から恐怖を取り除く 「無畏施【むいせ】」など、など・・・・



あくまでも、見返りを求めずに人の為、誰かのために精一杯できることをすることが「布施」なのです。



ですから、



「お布施はいくらですか?」



と聞かれても、



布施の意味をお伝えしなくてはいけないのか!?

目安をお伝えした方が良いのか!?

それとも、

質問者の精一杯を私が答えてしまっていいのか??



と、あれこれ悩んでしまいます。しかし、最近



お布施はいくらですか? 



と言う質問に対する模範解答に出会った気がしました。



それは東光寺(静岡市清水区横砂)で毎月17日に行われている観音供養法要での出来事でした。



法要中にお参りをしてくださる方は、読経中に



1.お賽銭を置く

2.御焼香

3.お参り



と、いった流れでお参りをします。



法要が終わり片付けをしていると、お賽銭が目に入ってきました。




500お布施170617


10円玉が2枚。



お参りに来てくれた小学生の2人の女の子が自分のお小遣いからお賽銭を出したと後から聞きました。



女の子に「どんなお願い事をしたの?」と聞いても




「何もしていない」




と答えます。見返りを求めていないことに驚きました。



自分のお小遣いから見返りを求めずに精一杯してくれたのだと思います。



「今できることを、こだわることなく、精一杯」



これが布施行の基本だと改めて教えていただきました。

「まず 坐れ」 が意味するところ

500坐禅こまめ カラー





東光寺(静岡市清水区横砂)は禅の教えを大切にする臨済宗(禅宗)のお寺です。




昔から



禅宗のお寺に悩みを相談に行くと、何も答えてもらえず 和尚に

「とりあえず、坐れ」

とだけ言われて坐禅をさせられる。




と、言われます。



驚くことに、これは実話です・・・



私も、このようなことを言われて衝撃を受けたことが若いころにありました・・・



しかし、様々な情報があふれ、説明責任を果たすことを要求される今の時代に「とりあえず、坐れ」と言われて坐禅を実際に行える人は多くはないのでしょうか。



「え、坐禅をすると私の悩みは解決するのですか?」



と疑問に感じてしまうのではないでしょうか。



疑いながら、言われたことをしても欠点ばかりが気になってしまい悩みが解決できないことも十分に考えられます。



では、なぜ禅宗の僧侶は



「とりあえず、坐れ」



と言うのでしょう。そこには、



不立文字【ふりゅうもんじ】



といわれる、禅の教えは言葉では言い表らわすことができないとの考え方があるのだと思います。



されに、



直指人心 見性成仏 【じきしにんしん、けんしょうじょうぶつ】



という、自分自身の中にある心を見つめて、本当の自分を体感することの大切さを説く言葉もあります。



悩みや苦しみは自分自身の心が生み出すものであり、その心を調えることの大切を伝えている言葉でもあります。




「とりあえず、坐れ」




という短い言葉には




「禅の教えは言葉では言い表らわすことができないが、あなたの悩みや苦しみは自分自身が作り出しているのではないでしょうか。


その悩みを解決するためには、まず自分自身の心を調えることが大切です。自分自身の心を見つめ直し、その心を見出すためにこれまでの禅宗の僧侶は坐ること・坐禅を大切にしてきました。



ですから、あなたも悩みを解決したいと本気で考えるのならば、坐って身体と呼吸と心を調えてみませんか。」





という優しさが詰まっているのだと思います。




込められた優しさに気が付くことができない人が悪いわけでも、伝わらない話し方をする人が悪いわけでもありません。



しかし、せっかく「とりあえず、坐れ」という優しい言葉をかけられたのに、嫌な気持ちになる人が少なくなることを祈って、あえて文章に残してみました・・・

干物はどちらが表なのか?

先日、おいしい干物をいただきました。



さっそく焼いて食べようと思ったのですが、干物を目の前に思い出した言葉がありました。それは、



「干物の表はどっち?」



という言葉です。



500干物の裏と表170612



我が家では食卓に干物が並ぶときには身の部分が見えるように置かれます。



500干物の裏と表1706122




皮の部分が見えるよう出されることはほとんどありません。



と言うことは身が表で、皮が裏になります。



しかし、水の中にいる魚は皮が見えていて身の部分は絶対に見えません。



皮が表ということになります。



不思議な話です・・・



開かれると裏が表に、表が裏になります。






禅の言葉(禅語)に賓主歴然【ひんじゅれきねん】という言葉があります。



賓【ひん】とは、大切な客人

主【しゅ】とは 客人を迎える主人



のことです。



賓主歴然とは主人と客の区別がはっきりと明白なことを意味する言葉です。



禅語の解説書には



主と客とが明確に分かれていて、互いにそのあり方を侵さないこと



とも書かれています。




客人は大切な客人として徹底的に振る舞い、主人は主人となりきる。



その2人が自分の役に徹することを説く言葉にも感じます。




魚も卵から成魚に成長する過程で、もともと卵と言う1つの細胞が分裂を繰り返し、ある細胞は皮になりまたある細胞は筋肉(身)になります。



筋肉になった細胞は皮になりたいと希望することなく、皮は皮の役割を果たします。



魚の干物を目の前にしたときに、



「裏なのか表なのか?」と悩むのではなく、魚の皮は皮であり、筋肉は筋肉の役割を果たすことを思い出し、自分に与えらえた役割に迷うことなく徹することの大切さを学ばなくてはいけないと反省しながらおいしく干物をいただきました。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、30代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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