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子供に坐禅会で話したこと 第287番 尼僧と苦しみ 【仏教説話29】



子供坐禅会(平成29年冬休み:テーマは仏教説話)で話した内容を紹介させていただきます。今回は

仏教説話シリーズ その29 【尼僧と苦しみ】

です。


500第287番 尼僧の苦悩 【仏教説話29】




東光寺(静岡市清水区横砂)子供坐禅会では毎回お寺や仏教に関係する話しをしています。



そして、話の内容にあった「仏教豆知識シール」を参加者に配布しています。



自分自身の備忘録も兼ねて紹介させていただきたいと考えています・・・・





日本の女性の平均化粧時間は約18分だとテレビで紹介されているのを見たことがあります。



これよりもたくさん時間をかける人もいれば、まったく化粧をしない人もいます。




どうでもいい話かもしれませんが、私は0分です。



化粧はしません。



さらに、髪型を整える時間も0分です。



え、髪の毛がないから当たり前だって!?



そうなんです。髪の毛を剃っていると、目が覚めたときから寝るまで髪型は整いっぱなしです。



それどころか、寝ているときもビシッと髪型は整っています!!







昔々あるところに一人の綺麗な女性がいました。


この女性、街を歩けば思わず男性が振り返り多くの男性から結婚してくれと頼まれるほど外見が美しい女性だったそうです。


ところがあまりにも多くの男性から結婚してくれと頼まれるのが嫌になり、街を離れ尼僧となって静かに修行生活をしながら過ごそうと考えたのです。


女性が街を離れて多くの人が修行している場所へ行こうとすると、途中に大きな池があったそうです。


女性はそこで休憩を取り、池の水を飲もうとしました。


この時、女性は池に映った自分の姿が美しいことを久しぶりに実感し、


「私はこんなに綺麗だった!!この美しい姿を利用しないで修行などしても時間がもったいない。」


考え再び町に戻って行こうと思ったのです。


再び町に戻ろうと思った女性が歩いていると、これまで見たこともないような女神のように綺麗な女性とすれ違いました。


あまりにその女性が綺麗だったため思わず声をかけ、話をしてみませんかと誘いました。


二人はすぐに意気投合したくさんの話をしました。


しばらくすると女神のような女性は少し休みたいと言い、女性の膝を枕にして眠り始めました。


女性は女神のように美しい女性が自分の膝で眠っている様子をただぼんやりと眺めていました。


すると女神のような女性が、あれよあれよという間に年を取り始めたのです。


そしてあっという間におばあさんになり、その後冷たくなってなくなってしまいました。


さらに、あっという間に死んでしまった女神のような女性はそのまま骨になってしまったのです。


女性はとても驚きましたが女神のように美しかった女性があっという間に骨になっていく姿を見て、


「表面上の美しさを永遠ではない」


と実感し、自分自身このようにあっという間の人生を街で遊んで暮らしていたらもったいない。


やはり、町を離れて修行をしようと決意をし直したのです。


こうして美しい女性は様々な誘惑のある町から離れ1人静かに修行生活を送り、立派な尼僧となって多くの人を救うことができたそうです。

もちろん、女神のような女性は実在しません。修行をしようと決意したのに、自分の表面上の美しさに負けて修行を辞めようとしてしまった女性にお釈迦様が夢を見せたのです・・・








「修行生活」と聞くと「特別なことをする厳しいもの」と考えてしまうかもしれません。


しかし、多くの方が参加してくださる坐禅会も立派な修行です。


東光寺(静岡市清水区横砂)の子供坐禅会は約15分の坐禅を2回しますが、15分の坐禅でも立派な修行です。


ですから、家に帰ったら


「私は今日、お寺で修行してきたぞ!!」


と自慢をしても誰も「そんなことはない!」とは言いませんので安心してください。




そして、この坐禅など修行こそが自分自身を内面から美しくしてくれていることを覚えておいてください。



一生懸命化粧をしても、夜寝る前に化粧を落とせば元の姿になってしまいます。



しかし、今日のように坐禅などの修行をして内面を綺麗にすれば、その美しさは寝ても変わることはありません。



決して、化粧をするなと言っているのではありません。化粧も大切なことだと思います。



しかし、せっかくお寺で坐禅をするという心を美しくする方法を身に着けたのですから、これからも自分の心を磨くことが大切だと、「尼僧の苦しみ」という話が教えてくれている気がします。

子供に坐禅会で話したこと 第286番 両目を施した王 【仏教説話28】



子供坐禅会(平成29年冬休み:テーマは仏教説話)で話した内容を紹介させていただきます。今回は

仏教説話シリーズ その28 【両目を施した王】

です。




500第286番 両目を施した王 【仏教説話28】





東光寺(静岡市清水区横砂)子供坐禅会では毎回お寺や仏教に関係する話しをしています。



そして、話の内容にあった「仏教豆知識シール」を参加者に配布しています。



自分自身の備忘録も兼ねて紹介させていただきたいと考えています・・・・





私は僧侶になってから悩むことがあります。



それは、アンケートなどで職業を聞かれたときです。



「僧侶」と記入できれば良いのですが、「次の中から選びなさい」と選ばなくてはいけない時に悩むことがあります。



選択肢の中に「僧侶」「宗教家」といった選択肢があるアンケートはとても少ないのです。



「自営業」や「サービス業」など、一番近いのは何か悩むことがよくあります。



しかし、お寺はサービス業ではありません。



サービス業のお店などでお金を払って物を買った時などニコッと笑ってありがとうございましたと言われることが多いのに、お寺でお賽銭を入れた時にお坊さんがニコッと笑ってありがとうございますと挨拶をしてくれたことを見たことがある人はほとんどいないと思います。



なぜ、ありがとうございました!と言わないのかを表した話しが「両目を施した王」というお話です。




昔々のお話です。

ある所に、とても心優しい王様がいました。

貧しい者が、食べ物が欲しいと言えば食べ物を分け与え、修行者が来れば修行者のために王様ができることを精一杯していました。

そのため国民は王様のことを大変に尊敬しお城にはいつも王様に助けを求める人達が来ていました。

王様は助けを求めるみんなを助け続けていました。

ある時そんな王様が本当に心からみんなのことを思って行動しているのか、帝釈天と言う神様が試してみようと思いました。

帝釈天は自分の姿を大きな鷲【ワシ】に変えて王様のもとへ行きました。

そして王様に向かって

「私は普段鳥の目でしか世界を見ることができない。人間の目で世界を見てみたいからお前の目をくれ!お前の目を布施【ふせ】してくれ」

と言ったのです。

普段から人々に布施をしていた王様は何も迷うことなく喜んで自分の目を差し出しまた。

すると帝釈天(鷲)はその姿を見て、本当にこの王様は心からみんなのことを思って行動しているのだと感動し、王様の目を元に戻したそうです。






このお話の重要な部分は「両目を出せ」言ったところだと思います。



手でもない、足でもない、鼻でもない、口でもない、目を差し出させたのです。



目を差し出すと、もう何も見えません。



普段から食べ物を分けてあげたとき、分けてもらった人がありがとうと感謝する姿を王様は目にしたでしょう。



しかし自分の目を与えてしまったら、もらった相手がその目をどのように使うかを知ることはできません。



それでも自分の目を差し出すことがとても重要なのです。



仏教では布施の心を大切にします。



いま自分にできることを精一杯すること、見返りを求めないことを大切にするのです。



「食べ物を分けてあげたのに、あいつはお礼も言わない、喜んだ顔も見せない」



などと思ってはいけないのです。



「ありがとう」という見返りを期待していることになってしまうのです。



何かを分けた時、相手がどのような態度をとるのかなど気にすることなく、今自分にできることを精一杯することが大切だと仏教では教えているのです。



つまり目を差し出すことができれば、その目で相手がどんなことをするのか見ることができません。それでも自分の目を差し出すことができれば、それこそが本当の布施だと帝釈天は伝えたかったのだと思います。



もちろん誰かに目をくれと言われたから目を出しなさいと言っているのではありません。見返りを求めないことが大切だと両目を施した王という話が教えてくれているように感じます。





お寺がサービス業ではない理由にお賽銭のお話をしました。



お賽銭を入れた時、和尚さんがありがとうございましたとニコッと笑うことはありません。



それはお寺が、みなさんにサービスを提供する場所ではなく、皆さんが修行をしてよりよく人生を生きていただくため様々なことを学ぶ場所だからです。



「ニコッと笑ってほしい」、「ありがとうございますという言葉」などの見返りを期待しないで自分の持っているものを差し出す練習をする場所がお寺のお賽銭ということになるのです。お寺がサービス業であれば、「ありがとうございました!」とニコッと笑って、その後「また来てくださいね!」などと言ってお賽銭をたくさん出していただこうとするのですが、お寺はサービス業ではありませんので、ニコッと笑ってお礼を言わないのです。



お賽銭を入れることによって布施の心を学ぶ。これこそが両目を施した王という話が伝えてくれていることなのだと思います。

子供に坐禅会で話したこと 第285番 餓鬼道に落ちた女 【仏教説話27】



子供坐禅会(平成29年冬休み:テーマは仏教説話)で話した内容を紹介させていただきます。今回は

仏教説話シリーズ その27 【餓鬼道に落ちた女】

です。




500第285番 餓鬼道に落ちた女 【仏教説話27】




東光寺(静岡市清水区横砂)子供坐禅会では毎回お寺や仏教に関係する話しをしています。



そして、話の内容にあった「仏教豆知識シール」を参加者に配布しています。



自分自身の備忘録も兼ねて紹介させていただきたいと考えています・・・・


 ※以下の内容は子供向けに話したものです。




例えばコップ1杯分のジュースを持っているとします。



そして、喉が渇いています。



今すぐこのジュースを飲みたいと考え、ふたを開けてジュースを飲もうと思ったその時、



「そのジュース、半分を友達にあげてよ。」



と言われたらどう思いますか。



「半分も取られちゃうじゃん!もったいないなー!!」



と思いますか?それとも、素直に自分も飲みたいんだから、友達も飲みたいと思って、人に言われた通りジュースをあげますか??



今回の話は、



「もったいないから絶対あげない!」と言ってしまった人の話です。



「餓鬼道に堕ちた女」という話です。




お釈迦様のお弟子様の中には特殊な能力を持つ人がおりました。



そのお弟子さん、どんな世界でも見ることができる人でした。



ですから時々いろんな場所を見ていたそうです。



この男性、ある日餓鬼道という場所を見てみたそうです。



餓鬼道というのは欲張りな人たちが生まれ変わっていく世界と言われています。



仏教では、命あるものは様々な世界を生まれ変わり死に変わると言われています。



その中のその中の一つが餓鬼道と呼ばれる世界です。



大変苦しい世界です。どんなにお腹が空いていても満足に食べることができません。



たとえ食べ物があったとしても、それを口に運ぶと食べ物が炎となって自分を襲ってくる。



そんな世界です。では、この餓鬼道でお釈迦様のお弟子さんは何を見たのかと言いますと、



実は一人の女性が大変苦しみながら餓鬼道の中をさまよっている姿なのです。



餓鬼道に落ちた女は髪の毛がまるで針のようになっており、餓鬼道を走り回るためにその針のような髪の毛が自分の体中に次々と刺さっておりました。



そんな苦しみに耐えながら女性は餓鬼道を一日中走り回ると、なんとか地面の上にある小さな水たまりを見つけることができます。



そして、その水たまりの中の泥水を飲むことができたそうです。



残念ながら水溜りが見つからない日もあります。



そんな日は1日走り回っても何にも飲むことができず、ただただ自分の髪の毛が体中に突き刺さる痛みに耐えなくてはならなかったのです。



お弟子さん達はお釈迦様に



「こんなに酷い姿になった女の人がいますが この人は一体何をしてしまったのでしょうか。」



と、聞きました。すると、



この女の人は餓鬼道に落ちる前、人間として暮らしていました。

あるひ、この女の人の家の前に修行僧がやってきて「水をください」と頼んだそうです。

女の人の家にはたくさんの水があったのに、「自分の水をあげるのはもったいない」と考えてしまい、地面にあった泥水をコップに入れてその上にきれいな水を入れて修行僧に渡したそうです。

この「あげたくない」という欲張りな心があったために、女の人は餓鬼道へ落ちてしまったのです。




この話しを聞いたとき、とっても怖いはなしだと私は感じました。


誰にでも「自分のものはあげたくない」という気持ちはあるはずです。


しかし、その気持ちがあると餓鬼道へ行かなくてはいけない・・・


みんな餓鬼道で苦しまなくてはいけないのか・・・


辛くなります。



では、どうしたら良いのでしょうか。


突然明日から、自分の大切な物を「はい、どーぞ」とあげることができるようになる人はいません。


持久走(マラソン)が早くなりたいと思っても、目が覚めたら早くなるわけではありません。


訓練が必要です。


マラソンが早くなるためには、やはり走る練習が必要です。


「あげたくない」という気持ちを無くしていくためには、やはり「あげる」練習が必要です。


その練習はどこでもできます。どんな練習があるのでしょうか。


単純なのは、


お菓子を食べようと思ったとき、周りに友達がいれば分ける。


という練習。


その他にも「お供えする」という練習もあります。


お菓子を手に入れたとき、すぐに開けて食べるのではなく仏壇にお供えしてお参りをした後に箱を開ける。


これも立派な練習です。お菓子をお供えした瞬間、このお菓子は自分のものではなく、仏様やご先祖様のものになります。


お寺でお参りをするときに「お賽銭」を入れることもあると思います。これも「あげたくない」という気持ちを無くすための練習です。


マラソンの練習をするときに、ある程度自分を追い込まなくては練習になりません。


しかし、追い込みすぎても体を壊してしまいます。


どのくらいの練習が自分の体に合っているか分からない時には、周囲の人にも教えてもらいながら練習量を少しずつ増やして「今、自分にできる精一杯」の練習をしていきます。



これと同じようにお賽銭も、周囲の大人に相談しながら「今自分にできる精一杯」をすることが、「あげたくない」という気持ちを無くすための練習になるのです。



もちろん、「あげたくない」という気持ちを無くすための練習はこれだけではありません。



いつでも、どこでも、「今自分にできる精一杯」を心掛けていくことの大切さを「餓鬼道に落ちた女」という話しが教えてくれています。

子供に坐禅会で話したこと 第284番 長者の不幸2 【仏教説話26】



子供坐禅会(平成29年冬休み:テーマは仏教説話)で話した内容を紹介させていただきます。今回は

仏教説話シリーズ その26 【長者の不幸2】

です。

500スライド3


東光寺(静岡市清水区横砂)子供坐禅会では毎回お寺や仏教に関係する話しをしています。



そして、話の内容にあった「仏教豆知識シール」を参加者に配布しています。



自分自身の備忘録も兼ねて紹介させていただきたいと考えています・・・・


 ※以下の内容は子供向けに話したものです。


みなさんは友達と喧嘩をした時どうしますか。



友達が殴りかかってきたら、ついつい殴り返したくなりませんか。



今まで友達だと思っていた人から嫌なことを言われたら、ついつい言い返してしまいませんか。



本当に腹が立った時どうしたらいいのか、実はお釈迦様のお話の中に答えが書いてあるのです。



その答えこそ、「長者の不幸1」というお話の続きです。
※「長者の不幸1」はこちらをご覧ください。




「長者の不幸1」はお金持ちの男(長者)が娘を殺されてしまう話です。



娘を殺されてしまったお金持ちの男性は多いに悩みました。



お金持ちの男性は娘を殺されたという大変な不幸に遭い、そして娘を殺した太郎くんに対して大変な怒りの気持ちを持っていました。



しかし、太郎くんはもうすでにこの世にはいません。自殺をして死んでしまったからです。



娘を殺した太郎くんに対する怒りや恨みという気持ちを持ったままクヨクヨしながら生活をしていた男性に周りの人が



「そんなに悩むならお釈迦様の所に行って話を聞いてきてごらん」



とアドバイスをしてくれました。



そこでお金持ちの男性はお釈迦様の所へ行き、自分の娘が殺されてしまったことなどをお話しました。




そして太郎が既に亡くなっていて自分の怒りや恨みをどこにぶつけたらいいのかわからない、自分の怒りや恨みによって自分の心が乱されているということを相談したのです。



するとお釈迦様は静かにこの男性に話を始めました。その話の内容というのが、



「怒りによって怒りを鎮めることはできません。恨みによって恨みを鎮めることもできません。しっかりと自分の心を見つめることができたなら、怒りの炎や恨みの炎は自然と消えていくんですよ。」



と話してくださいました。



男性は怒りの気持ちを太郎君にぶつけなければこの怒りの炎を消すことができないと思っていたので、許すということをお釈迦様に教えてもらい少し気持ちが楽になったそうです。その後、このお金持ちの男性は修行を続けやがて怒りを怒りの炎を消すことができたそうです。



しかし、こういう話を聞くと「何を言っているんだ、殴られたらついつい殴り返しちゃうだろ。」



「嫌なことを言われたら、やり返さなきゃしょうがない。」



そんなふうに思うかもしれません。しかし、自分が殴られたからといって相手を殴ってしまったらどうなるでしょう。



向こうはもっと強い力で殴り返してやると言って襲ってくるかもしれません。


そうなれば、こちらももっと強い力でやり返さなければいけない。最初は向こうが10の力で殴ってきて、こちらが20の地下で殴り返したとします。



そうすると、相手はどんどん、どんどん強い力で殴り合うしかなくなってくるのです。



これでみんなが幸せになるということはありません。



たとえ殴られてつらかったとしても、そこでぐっと我慢をして自分の心を綺麗にし自分の心を整えることが大切なんですよ、とこのお話は教えてくれています。



ただ、なかなか実践する、本当にそのことをするのは難しいことです。しかし、坐禅をしてくれているみんなは、怒りの炎を消す方法を既に知っているのです。



坐禅は姿勢を良くして、ゆっくり呼吸をする。たくさん息を吐いてゆっくりと息を吸う。 人によってみんなの心はきっと綺麗になっていきます。相手に嫌なことを言われた時、ふと坐禅のことを思い出し姿勢を良くしていき、ゆっくり踏むと怒りの炎が少しは小さくなることを感じます。



すると、少しずつ少しずつ怒りの炎を消すこと、または怒りの炎を消す力を毎日毎日一生懸命坐禅をすることによって大きくしていくことが、みんながこれからも幸せに生きていく方法だと「長者の不幸」という話は教えてくれています

子供に坐禅会で話したこと 第283番 長者の不幸1 【仏教説話25】



子供坐禅会(平成29年冬休み:テーマは仏教説話)で話した内容を紹介させていただきます。今回は

仏教説話シリーズ その25 【長者の不幸1】

です。



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東光寺(静岡市清水区横砂)子供坐禅会では毎回お寺や仏教に関係する話しをしています。




そして、話の内容にあった「仏教豆知識シール」を参加者に配布しています。




自分自身の備忘録も兼ねて紹介させていただきたいと考えています・・・・



 ※以下の内容は子供向けに話したものです。






皆さんはお家の人に怒られたことがありますか。



厳しく何か言われたことはありますか。



多くの人が「はい」と答えると思います。



でもそんな時どう思ったでしょうか。



「うるさいなあ」



と、どうしても思ってしまいますよね。



でも自分を怒ってくれる人がいることがとっても幸せなんことだと教えてくれるお話があります。





「長者の不幸」というお話があります。



長者というのはお金持ちのことです。お金をたくさん持っている人の事を昔は長者と言いました。



この長者さんが不幸になるというお話です。「お金がたくさんあれば不幸になんかならない」そう思うかもしれませんが実はお金持ちの人でもあっという間に不幸になってしまうことがあるというお話です。



昔々のお話です。あるところにお金持ちの家がありました。お金持ちの家にはいっぱい仕事をしてお金をたくさん稼いでいるお父さんと、そのお父さんが大切にしている一人の息子がいました。



息子の名前は「太郎」。



しかし、残念ながら太郎は全く仕事をしません。



それでもお父さんは太郎を大切にしているので、仕事をしなさいとか勉強しなさいなどと厳しいことは一切言わず、大切に育てていたそうです。



お金がたくさんあるので太郎が



「これが欲しい、あれが欲しい」と言えばすぐ買ってやり、「あそこに行きたい、ここに行きたい」と言えば連れていったそうです。



太郎もそんなお父さんのことをありがたいなぁと思いながらいつもいつも甘えて生活をしていました。



ところがある日のこと、父さんが事故で突然なくなってしまったのです。



さあ大変です。



しかし、今まで仕事をしてくれていたお父さんがいなくなった太郎でも少しは働くかと思いましたが、なんと太郎はまったく働きません。



お父さんが残してくれた財産をどんどん使って、とうとうお家のお金を全部使い終わってしまいました。



お金がなくなってしまい、住む家を失った太郎は外に放り出されフラフラと街中をさまよっていたそうです。



そんな時どこかで見たことがある男の人と太郎は出会いました。



太郎は挨拶をするとその男性は父親の親友だったのです。男は親友だった太郎の父親が亡くなった事を知ると大変悲しみ、そしてお金がなくてフラフラしている太郎がかわいそうだと思って自分の家に招待することにしました。



大切な友達の子供だからということで、この男も太郎が何か欲しいと言えば買ってやりながら大切に育てました。


そんなある日、この男の娘と甘やかされて育った太郎が結婚をすることになりました。


親友の子供が自分の娘と結婚してくれるということに喜んだ男性は今までよりもたくさんのお金を使って自分の娘とその旦那さんである太郎を大切にしたそうです。



ところが結婚をしたにも関わらず、太郎はまったく働きません。それどころか優しくしてくれる男に色々な物を買ってもらっては無駄にしていました。



さてさて娘の父親はだんだん悩み始めます。自分の大切な娘がこんなにもだらしない男と結婚してしまったことで娘が不幸になるのではないかと心配になってきました。そこで、ある日のこと相談をして娘と太郎を別れさせようと考えたのです。



しかし、そのことを知った太郎は突然刃物を振り回し、妻つまりお金持ちの娘を殺してしまったのです。



そして自分が刺してしまったことで気持ちが乱れ、とうとう 太郎は自殺をしてしまいました。



お金持ちのお父さんは自分の娘が殺されただけではなく親友の息子である太郎君も同時に失ってしまったのです。



なぜ、長者は不幸になってしまったのか。



それは、甘やかされて育った太郎君をさらに甘やかしてしまったからなのです。


甘やかすことなく、時には厳しく、時には優しく、「太郎くんがどうしたら成長できるのか」ということを考えてお金持ちの男性が接していれば、決してこのような結果にはならなかったはずです。



お金持ちの男性が不幸になった理由はまさに自分自身に原因があったのです。




ですから、このお話を通して友達に対してもっと厳しいことを言っていいよということではありません。



お家の人や学校の先生、みんなのことを考えてくれる人から時々厳しい言葉や怒られたりすることがあるかもしれません。だけどそれは皆が幸せに生きていくために必要で、大切なことなんです。そのことを決して忘れることなく毎日の生活を送っていくことが大切ですよと、この「長者の不幸」という話は教えてくれています。
人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、30代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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