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オンライン坐禅会 法話原稿 【救いとその手立て 太陽が東の空に昇る】

問題です。


600渓流釣り2


渓流釣りの最中に日没を迎え遭難した私を救ったものは何?


①地図

②デジカメ

③釣り竿


正解は②のデジカメです。





以前も話した内容で恐縮ですが、もう一度話をさせていただきます。


私は20代の頃に、渓流釣りへ先輩と出かけて遭難しかけたことがあります。


釣りそのものにあまり興味はなかったのですが、自然の中を歩くことが好きだったので、先輩に「行くぞ」と言われれば楽しく付いていきました。


そんなある日、いつもは朝早くから出かけてお昼過ぎには終わっていましたが、たまにはお昼過ぎから夕方ごろまで釣りに行くことになりました。


川に到着すると車を駐車します。そして、必要なものだけを持って出発です。


川沿いに山の中を歩きますので少しでも荷物を車に置いて行った方が良いと教わりました。


当時は山の中では携帯電話はつながりませんので携帯電話も車に置いて出発しました。


川沿いを移動しながら釣りをするのですが、最終的には日没前に車に到着して帰宅する予定でした。


日没時間も事前に調べてありました。


しかし、調べたのは平野部の日没時間でした。


そのため、車からかなり離れた場所であたりは真っ暗になってしまったのです。


懐中電灯もありません。水筒に水が入っているだけで食料もありません。携帯電話もありません。


そうです、小規模な遭難をしたのです。


役に立ちそうなのは当時、流行り始めたデジカメだけでした。


簡単な地図はありましたが真っ暗で何も見えません。


私にとっては明るいときでも役に立たない釣り竿などはただの邪魔な荷物でしかありませんでした。


星も月も出なような曇り空のため、あたりは驚くほど真っ暗です。


ここまでの闇を感じたことがなかったので、聞こえてくるのは川の音と、風の音、そして何かが動く音・・・


恐怖体験でした。


無理をして歩いても足元が見えないのでケガをしたり道に迷うかもしれませんので、先輩の助言により、しばらくはその場で待機することになりました。


しかし、いっこうに空に変化はありませんでした。


このままでは、朝まで真っ暗な世界にいなくてならないという現実に戸惑っていると先輩から


「デジカメのフラッシュの光を頼りに歩き出そう」


との提案をいただきました。


そこで、実際にフラッシュを光らせてみました。


強烈な光が闇を照らし、自分達の周囲に何があるのか分かりました。


この“一瞬”を続けていけば無事に帰ることができると喜んだのも つかの間・・・


デジカメの電池があまりないので、湯水のようにフラッシュを使うことができないことが判明しました。


そこで、「本当に危険だと感じる直前にだけフラッシュを使う」というルールを決めて、歩き始めました。


その結果、たまに光る、一瞬の光の力で周囲の状況を確認しながら少しずつ進むことでなんとか無事に車まで帰ることができました。





今日なぜこのような話をしているかと言います、仏教聖典の中の


太陽が東の空に昇って、闇を滅ぼし、すべてのものを育てるように、仏は人びとの間に出て、悪を滅ぼし、善を育てる。


という教えを紹介するためです。



この教えは


仏様の教えというのは太陽のように、全てのものを照らして私達を救ってくださることを説かれた言葉です。


私はこの教えに触れたとき


「太陽が東の空に昇って」


という部分が非常に大切だと感じています。


太陽は仏様、お釈迦様、そしてその教えを表します。

禅宗では仏とは、私達自身の心そのものだと説いています。

この仏の心が私達の中にあって、その心が東の空から昇ってくると言うのです。



これは何を示してくれているのでしょうか。


これは私の勝手な解釈ですが、


「太陽は西に沈む」


ことを示しているように感じます。


太陽は東から昇り、西に沈みます。


これは間違いのないことです。


そして、同じように私達の仏のような心も、実は見え隠れをしてしまっていることを「太陽が東に昇って」という言葉が示しているのです。


私達は、悩み苦しむことがあります。ときには煩悩を丸出しにしてしまいます。


そうなったとき、「私達の心そのものが仏なのだ」という教えを疑ってしまいたくなります。


私にはこんな悩み苦しみ、煩悩があるのに、この心が仏の心なのか!?


そのように感じてしまいがちです。


しかし、仏の心というのが東の空から昇り西の空に沈むように、見え隠れすることが分かれば、自分の心が仏そのものだと信じることができます。



煩悩にまみれた自分自身の心と向き合ったときでも、心の奥底には仏の心があると信じることができます。




そうなれば、私達の心が仏の心であって全てのものを育てるように私達の心が悪を滅し、そして善を育てていると実感できるのではないでしょうか。


では、どうしたら太陽が東から昇るように仏の心で自分自身を照らすことができるのでしょうか。


その答えが


「一寸坐れば 一寸の仏」


と言う言葉の中にあるように感じます。



一寸とは長さの単位であり、坐るとは坐禅のことを示しています。


長さとはお線香の長さを表しています。


昔からお寺ではお線香の長さで時間を図ることがあり、坐禅も1本のお線香が燃え尽きるまで坐ると言った考え方もあります。


一寸は約3cmですので、


「一寸坐れば 一寸の仏」は


3cmのお線香が燃え尽きるまでの時間、坐禅をすれば、その時間は仏の心になる


と言い換えることができます。


つまり、短い時間坐禅をすれば その時間は仏の心になるのです。



この言葉を聞くと


「あれ!?短い時間しか坐らないとその時間だけしか仏の心を実感できないのではないか!?」

「坐禅が終われば、その瞬間に仏の心はどこか遠くへ行ってしまっているのではないか!?」


そのように感じるかもしれません。


しかし、冒頭に紹介したように、フラッシュを焚き、その時に見えた世界を大切に少しずつ少しずつ歩んで何とか真っ暗な世界から抜け出したように、


私達は短い時間でも仏の心を実感し、その心を少しずつ保ちながらも日常の世界に戻っていくことで、悪を滅ぼし、善を育てることができるのです。



本日の4寸ほどのオンライン坐禅会での坐禅が、真っ暗な迷いの世界を照らすフラッシュになることを願っています。
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人物紹介

新米和尚

Author:新米和尚
横山友宏
東光寺 副住職
【静岡市清水区横砂】

中学校で理科を教えていた男がある日突然和尚になった。(臨済宗妙心寺派)そんな新米和尚による、仏教やお寺についての紹介をします。 気軽に仏教やお寺に触れていただければと思います。


元:中学校教師
  (理科・卓球担当)

現:臨済宗妙心寺派の和尚
2人の娘の父親であり、育児にも積極的に参加し!?失敗を繰り返す日々を送る、40代を満喫しようとしている どこにでもいる平凡な男

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